トウェルブ Y.0._福井晴敏 あなた方の中で罪のない者が、まずこの者に石を 投げよ。           ヨ(ネの福音書 八一七 序  柢く、厚く、この世界に蓋をしているかのよう な雲は、靄っだ水平線で海と溶け合っていた。そ の界面に生じた幾筋かの亀裂から、昇りかけた太 陽が茜色の光をぱらりと海面に散らしているの だった。  まだ夜の暗闇を引きずった鉛色の海は、足もと の断崖に砕けた時だけ自い波頭を覗かせて、すぐ に鈍った色に還ってゆく。微細な芥や生き物を際 限なく取り込み、濁っている水面は、この世界を 映し取った鏡のように少女には見えた。不透明で、 その下にたくさんの秘密を隠していると見せかけ ながら、実際にはなにもない虚無の海。「島」で 見た海とは全然違うと思い、横に立つ男をちらと だけ振り返ると、彼はひどく穏やかな表情を浮か べて、崖下の海を見下ろしていた。  岬を覆う木々のざわめきを背に、冬の厳しさを 孕み始めた風に身を哂して、なにもない世界をた だ見つめている。まるで水死者を慰める石像だと 思い、少女は海面に目を戻した。  そうして二人並び、光の下にいるのはめずらし いことだった。暗視装置の緑がかった視界に警備 要員の配置を確かめ、有刺鉄線の向こうに眠るビ ルや工廠、パイプ、ガントリークレーンの位置を 図面に書き込み、為すべきことのひとつひとつを 細部まで詰めてゆく。確信が持てるようになるま ではひたすら備えろという男の言葉に従い、夜陰 に息を潜め、闇の輪郭を探り続けて、所期の目的 を果たしたのがつい数時間前。すぐにでも離脱し なければならない身の上にもかかわらず、予定を 外れてこの岬に立つだのは、男が海を見ようと言 い出したからだ。  湖、川、海。昔から、男は広く水をたたえた場 所を好んだ。ズボンのポケットに片手を差し入れ、 水面と同じ色の瞳を虚空に据えて、気が向けばい つまででもそうしている。少女にはそのような好 みはなかった。あるのは従うべき命令の優先順位 だけで、それにしても自分の意思で決められるこ とではなかった。  ただ、この海は怖いと思う。なにもない茫漠、 自分と同じ虚無に吸い込まれてしまいそうな気が するから。それは恐怖とともに少しの安心も感じ させるもので、少女は細い肩を微かに震えさせて いた。  「寒いか?」  男が言う。震えたのはそれが理由ではなかった が、首を振るより先に男の上着が肩にかけられて、 少女はほんの少し開きかけた唇を閉じた。ロー ションと体臭の入り混じった、男そのものの匂い が体を包み、その持つ温かみが内奥で燻る熾火に 息を吹き込んでゆく。そんな時、少女はいつでも その場に膝をつきたい脱力感に駆られたが、それ はそう命じられた時にのみできることだった。血 の滲む包帯に覆われた左手で上着の襟を押さえ、 吹きつける風が温もりを奪い去ろうとするのを防 ぐのが、許された行為のすべてだった。  その風に、柢い警笛の音が重なった。北に目を 移すと、水平線に張りついた房総半島の黒い島影 の手前を、航空母艦の平べったい甲板が通過しよ うとしているところだった。  人出港時の空母らしく、空にした飛行甲板にビ ルに似た艦橋構造部を際立たせた巨大な原子力艦 は、警笛を立て続けに鳴らし、航路上の商船を蹴 散らすようにして、太平洋に続く航路を驀進して いる。津波さながらの緩衝波を間近に受け、木の 葉のごとく揺さぶられた漁船たちが不平の警笛を 鳴らし返しても、速度を緩める様子もない。二隻 の随伴艦とともに、一刻も早くその場を離れよう としているかのようだった。物々しい鋼鉄の瑰、 威信の権化の傍若無人な振る舞いは、傍目には戦 時の緊急出動を想像させたが、そうではないこと を少女は知っていた。  彼らは逃げ出しているのだ。所属戦闘艦艇の総 トン数六十五万、世界最大と言われる米第七艦隊 の主力空母・インディペンデンスが、その巨体を 避難させようとしている。彼らの母港、横須賀海 軍基地を襲った事故に巻き込まれまいとして。そ れは男と少女の行動が予定通りの帰結を迎えたこ とを証明する光景だったが、安堵感も達成感も、 無論罪悪の感覚もなく、ただ灰色の兵器の質感に その瞬間の修羅を思い出して、少女はやはり血の 滲む絆創膏を貼った頬に触れていた。  血と油の入り混じった匂いが、上着の温もりを 押し退けて甦ってくる。男はそれを二幕目の開演 と表現していたが、少女に関係のある話ではな かった。その言葉に従い、遂行するのが少女に与 えられた役目だった。他にはなにもない。その瞬 間が訪れるまでは、それでいい。なにも考える必 要はないI。  「今日は降るな」  焼けた空を見据えて、男は言った。そして「帰 ろう」と続け、そっと肩を抱いた男の顔を、少女 はもういちど振り返った。  海と同じ色を宿した瞳には、しかし、虚無では ないなにかがある。人との関わりを求め、得られ ずとも捨て切れなかった温かみ。それは、少女が 生まれて初めて接した光でもある。少女は頷き、 最後にもういちど遠い水平線を見つめた。  海と空の界面は、曖昧に煙っていながら、見え ない向こうにはっきりと別の世界を際立たせてい る。自分の行く末と同じだと思い、少女は血の色 に焼けた空に背を向けた。  重く垂れこめた雲は、午前七時過ぎには雨の滴 を落とし始めていた。自衛隊市ヶ谷駐屯地の裏手、 東京地方連絡部の前にある警衛所を一台のセダン が通過したのは、八時を少し同ったばかりのこと だった。  旧陸軍参謀本部から、東京裁判の舞台を経て陸 上自衛隊東部方面総監部へ。経済立国の華々しさ の裏側で、敗戦から始まった戦後日本の後ろめた さを封じ込めた不可侵領域であり続けた市ヶ谷台 は、今は防衛庁移転工事の最中にある。日頃はダ ンプやクレーン車がひっきりなしに往来し、建築 現場の繁雑さを見せる敷地内だったが、その朝は 行き来する作業服も見えず、防塵シートごしにガ ス溶接の火花が明滅するだけで、縦横に敷かれた 生コンの圧送管も雨に打たれて静かに眠っていた。 セダンは色づき始めた銀杏の葉を頭上にしながら その中を走り、東寄りに建つ一棟の古ぼけた庁舎 の前で止まった。  仮組みされた足場に覆われ、半身に防塵シート を纏ったビルの姿は、一昨年の火災の傷痕を慌て て隠した結果だったが、それでそこに詰める人々 の能力が損なわれたわけではない。手錠で手首と 繋がれたアタッシェケースを片手に後部座席から 降り立った男は、護衛役を兼ねる運転手が差し出 す傘を無視して玄関に駆け込んでいった。  インターホンに部下の到着を告げられた古武正 巳は、パソコンの画面に向けていた目をわずかに 上げた。たったひとつの窓をブラインドで閉ざし た簡素な執務室は、他の幕僚たちのように国旗や 師団旗、賞状で飾り立てられることもなく、毛並 みのよいパワーエリートを自認する部屋の主の冷 たい横顔と相まって、どこか冷え冷えとしている。 日本人離れした風貌と、それに見合った冷徹な言 動と決断力を常に畏怖と嫉妬の対象にされ、知る 人すべてから「冷酷」の評価を与えられている男 は、それを自分の職分に必須の資質として受け止 めていた。  自衛隊であって自衛隊でない、存在そのものが 秘匿されている部署の一方の長が、情に厚い人間 であっては仕事にならない。金づちが船乗りにな るようなものだ、と。ようやく動き出した行政改 革の波に乗り、予定通り公的機関に再編されたと しても、その体質は変わりようがないだろう。八 ンカチで雨に濡れた顔を拭きつつ入室してきた男 は、そんな上司の性向を心得ているのか、前置き も挨拶もなく「やられました」と本題に入る口を 開いていた。  「ペンタゴンのメインフレーム名義の電子メール に粉飾して、《アポトーシスH》を基地のネット に投入。まずは通信と警備システムをダウンさせ る。いつもの手口ですが……」  在日米軍横須賀海軍基地が襲撃されたらしいと 一報が入ってから、五時間弱。張り巡らされた情 報網を使い、寝癖のついた頭を撫でつける間もな く確認に走り同っていた部下は、大使館レベルで 事実の確証を得た古武と同じ結論にたどり着いた らしい。革張りのチェアの背もたれに体重を預け、 古武は聞く準備があることを伝えた。  フィリピンのスービックから撤退した現在、太 平洋に展開する米海軍にとって最重要戦略拠点と なった横須賀海軍基地は、第七艦隊の母港として 六つのドックと修理・補給設備を備える他、隣接 する貯油施設に五百七十万バーレルに及ぶオイル を貯蔵している。それだけで第七艦隊を五回満夕 ンにでき、三ヵ月間の戦闘行動を約束する一大才 イルーターミナルが、厳重警戒も空しく「彼」の 侵入を許し、オイルの誘爆を恐れた艦隊司令部が 給油中の艦艇を緊急出港させた経緯は、囗本の関 係省庁にはいっさい連絡されることなく幕を閉じ ていた。  周辺住民の生命よりも、警備システムを簡単に 潰されてしまった事実の秘匿が優先されたという ことだ。無論、実際にオイルタンクが爆破される ようなことはなく、《アポトーシスH》を使った 電子的攻撃で恫喝するやり方は確かに「彼」のい つもの手口だったが、そこで言い澱んだ部下には 別の重さがあった。  「今回は実害が出ました。警衛が二名、殺害され たそうです」  なるほど、と古武は納得する。人的被害が出だ のは、「彼」の行動が始まって以来初めてのこと だった。電子的攻撃に加えての、物理的攻撃。こ れで赤坂や座間に巣くう複数の米情報機関との折 衝が困難を増すことを予感しつつ、古武は「ウル マか?」とだけ確認した。「おそらく……」と部 下。  「貯油施設のパイプライン制御システムをまるご とハッキング。すべてのタンクの弁を開いて直列 に繋いだ所に侵入して、ターミナル中枢にこれを 仕掛けた」ようやく手錠を外した男は、アタッ シェケースから一枚の写真を差し出して続けた。 「遭遇した二人の米兵は、銃を抜く間もなく無力 化されたそうです」  基地内に飼っている内通者が撮影したらしい不 鮮明な写真には、巨大な油送管の継ぎ目に取り付 けられた直方体の物体と、複数のコードで繋がれ たむき出しのデジタル時計が写っている。マニュ アル通り、付属のシールだけでなくテープで爆破 対象に固定したプラスチック爆弾と、時限起爆装 置。爆弾ひとつで発火点の高い石油を燃焼させる ことはできないが、破砕したパイプに照明用のマ グネシウム弾でも撃ち込んでやれば、貯油施設全 体が景気よく吹き飛んだことだろう。制御弁が開 いて一本化したオイルーターミナルは、巨大なダ イナマイトになったも同然だからだ。  「そこでカウントは止まったそうです。雷管も外 されていました」  時限装置のありふれたデジタル表示が「12」で 止まっているのを指して、男は言った。古武は堪 えきれず、笑い出していた。  これから苛烈さを増すだろう暗闘、失われた二 つの命も忘れて、その笑いはしばらく続いた。大 惨事の一歩手前で刃を収めるいつものやり方。巧 妙な威嚇。《キメラ》からひとり歩きを始めた 「彼」は、この瞬間から正真正銘の敵となった。 半世紀の間、ゆっくり体を蝕まれ、もはや思考能 力さえ失いかけた病人に死を伝える墓場鳥の役。 「彼」はその権利を持つたったひとりの男たった。  怪訝な顔の部下に、笑いを収めた古武は「これ がどういうことかわかるか?」と問うつもりに なった。立ち上がり、窓際に歩み寄って、ブライ ンドの隙間から雨に煙る駐屯地を見渡す。古びた ものと新しいものが入り混じる庁舎の列は、ひど く雑然としていた。  部下は寝癖のついた顔を微動だにさせず、答え を待っている。古武は歪めたままの口許で教えて やった。  「『12』は本気だということだ」  丸井の角を曲かって、七つ目のビルの地下。韓 国エステやカプセルホテルが軒を並べる裏通りに、 確かにバー「ビッグショット」の看板があった。  情報提供者の言葉が正しければ、『奴』はこの 中にいるはずだ。大きく息を吸い、吐いて、よれ よれの体に活を入れたつもりになった平貫太郎は、 すっかりできあがっだ中年のサラリーマンが千鳥 足で行き過ぎるのを背に、反吐の跡がこひりつく 階段を下っていった。  午後十一時。首都の玄関口として双璧を成す八 重洲とは対照的に、澱んだ水たまりから発するよ うな、饐えた淫靡な空気を漂わせる上野が、その 個性を際立たせる時間帯だった。同じ目付き、同 じ髪型の若者たちがたむろする薄暗い店内には、 街の空気を引き移した猥雑さが立ち込めており、 大音量でがなり立てる和製ロックのリズムが、十 五畳ほどの穴蔵に滞留する小便臭さをかき同して いる。手前のボックス席にいる少女たちは中学生 だろう。PHSやポケットゲームを相手に、出口 のない夜を過ごしている彼女たちのテーブルには、 バドワイザーの瓶に並んでなにかの錠剤の包み紙 が散乱していた。手入れを疑ったのか、縁なしサ ングラスから垂れ目を覗かせた若作りのマスター を無視して、平は太い眉の下の目を一点に据えた。  仕事柄、大勢の中から人を見つけるのは慣れて いる。コーナーのソファを占領している五人の少 年たちの中に、間違いなく『奴』の顔があった。 茶髪、ロン毛の群れに混じって、ひとりだけきっ ちり刈り整えられた頭。一昨日まではピアスも外 していたのだが、今はだぶついたズボンにバカ高 そうなスニーカーを履いて、すっかり連中の一員 に戻ってしまっている。ひとつ息を吸い込んだ後、 シンナーの匂いが漂ってきそうなコーナー席に近 づいていった平は、一斉に向けられた敵意の目を 正面に受け止めた。  下駄のあだ名も納得の角張った顔に、縦尺も横 幅も平均を逸脱した体躯。コートを着せればはぐ れ刑事、ジャージを着せれば生活指導の体育教師 の典型になる男が、彼らに歓迎されるはずもな かった。『奴』は目を合わすと慌てて顔を背け、 代わりにビール缶やスナック菓子の散乱するテー ブルに足をのせた少年たちが「なんだ、こいつ」 「邪魔くせえ」と聞こえよがしの声をあげる。構 わずに一歩を踏み出すと、リーダー格らしい、背 だけは高い金髪が立ち上がって、それ以上の立入 りを阻むようにしていた。  「なにか用かよ、おっさん」と睨みつけた目に、 平は「そこの永田に話がある」と『奴』を指さし て答えた。「なんだよ、おめえなにしたんだよ」 と永田に振り返り、じっと顔をうつむけたままの 姿に舌打ちした金髪は、だぶだぶズボンの足を踏 み出して開き直った目を向けてきた。  「なんだか知らねえけどよ、おまわりが一人で来 ていいのかよ」  「おまわりじやない」  「先公か?」  「違う」  「じやなんだよ」  焦れた金髪に、仕事を尋ねられた時の常で口が もごもごしてしまい、親戚のおじさんとでも取り 繕うかと考えた時だった。「……自衛隊の人だよ」 と、それまで黙っていた永田が口を開き、平は 「自衛隊り」と合唱した少年たちの好奇の目に哂 されることになった。  「自衛隊がいったいなんの用だよ」  余計なことを……と思いながらも、今さらバツ の悪い顔もできない。虚勢の胸を張って、平は 「永田を迎えにきた」と答えた。  「もう終わっちまっだが、今日は入隊式があった んでな」  呆けたような沈黙に、ハードロックのリズムだ けが響き渡る。うつむいたままの永田を見、突っ 立っている平を見た少年たちは、互いの顔を見合 わせて爆笑していた。  「マジかよ、おめえよ」「PKOとかしちやうの かよ」と永田の肩を小突きあう少年たちが、バカ にしているのは自分だとわかっていたが、相手を するつもりもなく、平は沈黙を通した。外界から 切り離された環境下で、訓練のための訓練に明け 暮れている他の自衛官だちとは異なり、地連− 自衛隊地方連絡部に同された自衛官は、町中の出 張所で募集・広報の仕事に従事する分、常に世間 の目との直面を余儀なくされる。昨今のPKO活 動や大震災への災害派遣で多少株を上げたものの、 ほとんどの国民にとって自衛隊は依然「無縁」で。 「物好きな人たちの集まり」でしかない。東京地 連・城東地区隊傘下の墨田出張所に詰めて、そ ろそろ十年。部内では絶対の重みを持つ階級も、 「さん」付けが基本の出張所ではあまり意味がな く、たまに更新される編制表でも見ない限り、自 分が陸曹長であることも忘れてしまっている地場 回りの広報官にとって、蔑視や嘲笑の声は野戦訓 練でまみれる泥と同じ程度の問題でしかなかった。  仕事の内容は、中小企業のリクルーターと変わ らない。地域の高校を回り、進路の定まっていな い三年生に声をかけたり、職業安定所を始めとす る官公署に募集広告を出したり。ノルマが満たさ れない時には「市街地」、もしくは「肩叩き」と 呼ばれる街頭募集に立つこともあり、お陰で部内 では「手配師」といういかにものあだ名で呼ばれ てもいる。永田を釣り上げたのも、その肩叩きの 最中のことだった。多少持ち直した雇用のために 十月入隊に穴が開きそうになり、久々に上野で立 ちんぼをしていた時、髪を逆立ててアメ横を歩い ていた永田の背中が、平のセンサーに引っかかっ たのだ。  嘲笑の渦の中、永田は耳まで赤くしてうつむい ている。警戒から軽蔑に切り換わった少年たちの 視線を感じつつ、平は「ちょっと、二人だけで話 そうや」と、その手をつかんで引っ張り上げた。 しぶしぶ従った永田は、観葉植物に隠れたトイレ の扉の前に来ると、「……すんません。迷惑か かっちやいました?」と上目使いで口を開いた。  横須賀・武山の第一教育団から、本日付で新任 二等陸士に任官されたはずの永田が「来ていな い」との連絡を受けて、十二時間あまり。地元後 援会長の酒席に深夜までつきあわされ、二日酔い のところにその報せを受け取った平は、所長に監 督不行き届きを責められ、行方を告げずに姿を晦 ました息子を心配する母親のヒステリーにがなら れ、友人宅から繁華街まで、永田の立ち寄りそう な場所を刑事よろしく捜し同って、ようやくこの 場所にたどり着いた身だ。「たっぷりとな」と応 じてから、平は、「なんで逃げたりしたんだ」と 永田を睨みつけた。  「いつまでもふらふらしててもしようがないって 思ったから、試験だって受けたんだろ? なのに こんな……」  三つぶら下げたピアスを指で弾くと、手で押さ えた永田の横顔が一歩後退していた。  「……なにか、ピンと来ないんスよ。自衛隊に入 るってのが」  「今さらなに言ってんだ。ひとり暮らしの資金稼 ぐために、とりあえず二年間頑張るんじやなかっ たのか?」  姿形に関わりなく、放蕩生活に愛想が尽き、な にかしら変化を欲している背中は、十年地連の飯 を食っている身には浮き立って見えてくる。それ で永田に声をかけ、婦人自衛官がにっこり微笑む パンフレット片手に「将来、安定、確実」「国家 公務員」を連発し、志願票を書かせて無事入隊に こぎ着けた結果が、この始末だった。教育スケ ジュールに土壇場で穴を開けた責は、地連本部か ら城東地区隊を経て、担当出張所が全面的に被る ことになる。もういちど肩叩きに立つのだけは御 免こうむりたい平は、入隊を決めたのと同様、そ の場の気分で逃げただけらしい永田に、押せばな んとかなるだろうと虚しい期待を抱いて、壁際に 追い詰めていた。  「世の中、ピンときながら生きてる奴なんざそう そういないんだから。衣食住の面倒は見てくれる し、月給とボーナスの上に、任期満了すれば退職 金までくれる。こんな気前のいいとこ、娑婆には ないぞ」  「それですよ。その娑婆って言葉が当たり前にで てくるところが、なんかもうヤバい感じじゃない スか。刑務所行くみたいで」  それ以上退がれなくなると、永田は窮鼠の目を 平に向けた。  「だいたい、平さんがいけないんスよ。他の地連 の人たちはもっとちゃんとしてて、自衛隊がやり がいのある仕事だって言ってんのに、なんかテキ トーな感じで。行くなら行けば、みたいな態度さ れたら、不安になんの当然じゃないスか」  痛いところだった。ぼやっとしているようで、 こちらの無気力はしっかり汲み取っていた言葉に ぐっと詰まらされた平は、「なんだよ、体育会系 で来られるよりその方がいいって言ってたろう が」と、がなり立てる音楽に負けない声を出した。  「そうだけど……」と永田。担当として任地まで 付き添うこともせず、自衛官になる価植を語るこ ともしなかった自分は、広報官としてはまったく の失格。それが今風のやり方だからなどと嘯いて いるものの、付き添わなかっだのは、食うためだ けにしている仕事で余分な苦労をしたくなかった からだし、価値を語らなかっだのは、自分自身 とっくの昔にそれを見失っているからだった。  同僚たちはともかく、少し一緒にいただけの永 田にまでそれを見透かされていたとは。続ける言 葉を失い、とにかく母親が心配しているから家に 帰ろうと言いかけた時だった。バシャッと水の弾 ける音が背後に鳴って、うなじのあたりがじわり と湿るのを感じた。  一瞬すくめてしまった首を元に戻し、ゆっくり と振り返る。空のジョッキを手にしたりIダー格 の金髪が、暗い目に敵意を滲ませて落ち着きなく 体を揺らしているのが視界に入っだ。  ひっかけられたビールが上着からワイシャツ、 下着にまで滲んでゆくのを感じながら、平も無表 情にその目を見返した。ロックのボリュームが下 がり、「撃ち殺されんぞ」と誰かが飛ばした野次 が店内に響いたが、笑う者はなかった。  「嫌がってんだからよ、もうやめろよ。徴兵じや ねえんだからよ」  金髪が言う。相手にするなと理性が叫ぶ一方で、 染み出したビールが腹の底で化学変化を起こし、 溜まった不満を危険物に変えていた。  ガキのお守りに一日かけずり同された恨み、か と言って辞める度胸もない、潰しのきかない身へ の恨み。日頃は出口なく滞留しているそれらの憤 懣が、ふと生じた捌け口に殺到して来て、考える より先に「難しい言葉知ってんな、おい」と口を 開いてしまっていた。  コーナー席の一団が立ち上がる。永田を除いて、 相手は四人。反射的に状況を観察し、金髪の肩ご しに店の出口までの距離を測った平は、「帰れよ」 と横柄に言った金髪をまっすぐに見下ろした。  「帰るさ。こいつとI緒にな」  「やめるっつってんだよ。自衛隊ってよ、口でダ ダッて撃つ真似して訓練すんだろ? いい歳して 戦争ごっこなんかしたくねえってよ」  どこで聞き込んだのか、金髪が言う。それまで 固唾を飲んでいた連中が一斉にバカ笑いの口を開 き、味方をつけた金髪の顔が傲慢に歪む。一緒に なって笑った後、平は右手の人差し指と中指を立 てて、金髪の肩の付け根をちょいと突いてやった。   押しどころを得た突きに、簡単にバランスを崩 した金髪が観葉植物の鉢と一緒に倒れる。まだ捨 てたものではない、「特別な部隊」で習った無力 化術のひとつ。血走った目が「てめえっ!」とが なり、立ち上がりざまジョッキを壁に叩きつけた 金髪は、それを武器にして突進してきた。  永田が息を飲み込む音を背後に聞きながら、左 手でジョッキの破片を持った金髪の手首をつかみ、 右の手のひらを反対側の肩に当てて、相手の体に 接触しないよう素早く身を捻る。きれいな腰投げ が決まり、コンビニ食以外の栄養を知らない細い 体が、もういちど床に転がる。テーブルの倒れる 音、ガラスの割れる派手な音が収まると、店内は 一瞬、水を打った静けさに包まれた。  なにをしているのか、考える間はなかった。動 きやすいよう咄嗟にトイレの前を離れた平は、案 の定、椅子を飛び越えて殴りかかってきた別の拳 をかわし、足が床に着いた瞬間を見計らってそれ を払ってやった。  倒れた体が女子高生の向き合うテーブルを倒し、 鉢植えを載せた仕切りも倒して、黄色い野次をま き散らす。胸の警告灯は早くずらかれと点滅して いたが、不時着時のサバイバルの一環として教え 込まれた格闘術は、危機に対処し終えるまで背中 を向けることを許さない。習った通りに目が動き、 体が動いて、後ろから羽交い締めの腕を伸ばして きた茶髪の胸に肘を打ち込む。そのままさらに三 人目の金的を蹴り上げようとして、自衛官として はとっくに盛りを過ぎた自分の年齢と、肉体の現 実につき当たった。  思ったより上がらなかった足をあっさりかわし、 横に同った長髪の小僧が平の上着の肩をわしづか みにする。肩を引き、その勢いで掌底を相手の顎 に一発。頭ではわかっていても、不摂生をため込 んだ体がついてこれず、おたおたしている間に両 肩をつかまれて、顔に一発食らう羽目になった。 力の入れどころを知らないナマクラ拳より、当て られてしまった衝撃の方が大きく、一瞬頭が真っ 自になったところに、腿裏を打ちつける鋭い衝撃 が追い打ちをかけた。  崩れた膝が床を打ち、どこから持ち出したのか、 バットを手にした金髪の目が完全に抑えを失って いるのを見上げた途端、誰かの膝が鼻柱に弾けた。 それが始まりだった。噴き出した涙に視界を塞が れ、ガラスの破片やこぼれたビールが散乱する床 に顔を押しつけた平は、靴底の集中豪雨に曝され る羽目になった。  最初は足首をつかみ、引きずり倒すことに努め たが、頭を踏みつけ、腹にめり込む足たちの勢い は止まることを知らない。抑制を失った少年たち の暴力が体を踏みちぎろうとするかのように加速 し、束の間の攻勢を簡単にひっくり返されてし まった平は、体を丸めてやり過ごすのが精一杯に なっていった。  次第に痛みの感覚が鈍くなってくる。目眩と吐 き気がこみ上げ、感覚のなくなった体に衝撃だけ がつき抜けてゆく。虚勢に隠したいつもの弱気が 頭をもたげ、もう抵抗しない方がいい、このまま 嵐が過ぎ去るのを待った方がいいと、薄れかけた 意識が紡いだ時だった。不意にわき起こった悲鳴 が、足たちの動きを一斉に止めていた。  「ギヤッ’・」という悲鳴は、踏み潰された蛙の声 のようで、人の声には聞こえなかった。取り囲む 足の輪が崩れ、さらに連続した悲鳴が、テーブル をなぎ倒して床に転がってゆく。じんじんと脈打 つ顔を動かし、乾きかけた涙目を開いた平は、脇 腹や喉を押さえた茶髪たちが床に突っ伏して、呻 いている異様な光景に、ぎょっとなった。  殴られたというのではない、なにかの発作を起 こしたといった体の長髪は、頭を床に押しつけ、 唇の端に泡を浮かべて痙攣している。その向こう に、無防備に立ち尽くす人の形があった。テーブ ルを支えに上身を起こした平は、ぐらぐらする頭 をそちらに向けていった。  うずくまっだ少年たちを平然と見下ろしていた 目を上げて、その少女も平の顔を無表情に見返し た。一点の染みもない自い肌と、そこから滑らか に生じた目鼻。すっと結ばれた形のよい唇は、美 人の平均があるとすれば、明らかにそれを上回っ た造作と見えたが、目を奪うのはそれだけではな かった。  左の頬に、無造作に貼られた絆創膏。消毒薬の 黄色が微かに浮き出たそれが、玉に瑕の表現その ままの痛々しさであるはずなのに、どこかでこの 少女特有の整合性を保っているように見える。壁 際で息を潜めているルーズソックスだちと同年代 でありながら、まったく異質な落ち着きを宿した 目。最初に店に入った時には見なかった顔だと、 とりあえずそれだけのことを考えた平は、不意に 動いた少女の目に殺気が走るのを見た。  バットを振りかざし、少女に殴りかかった金髪 の声はほとんど悲鳴だった。危ない、の声が喉を 出るより先に、流れるように動いた少女の手が金 髪の手首をつかみ、その勢いを利用して逆手に捻 り上げていた。  床に落ちたバットが乾いた音を立てると同時に、 金髪の口が声にならない悲鳴をあげていっぱいに 開かれる。折れる、と思った瞬間、「もういい」 という声がカウンターの方から発して、少女はス イッチを切ったようにぴたりと腕の力を抜いてい た。  よろけた金髪の体が少女から離れる。表情のな い目がもう一度こちらを見、思わず身を退くよう にしてしまった平は、彼女に「無力化」されたら しい少年たちの惨状をあらためて見同した。  なまじの護身術や格闘技とはレベルの違う、人 の肉体の構造を知り抜いた者にのみ可能な、急所 への針のひと突き。なんの昂揚もない、冷徹な瞳 をもういちど見上げた途端、骨折を逃れた金髪の 拳が少女の頬に走り、肉を打つ鈍い音が静まり 返った店内に響いた。  避けられたはずなのに、逃げずに拳を受けた少 女の体が宙を舞い、残ったテーブルを倒して床に 転がる。思わず立ち上がろうとして、よろけてし まった平は、それより早くカウンターから飛び出 した長身の背中を見て、その晩何度目かの息を飲 み込んだ。  少女を蹴りつけようとした金髪の肩をつかみ、 向き合った瞬間、肘を鼻面に叩き込む。やはり人 の急所を知り抜いた一撃に、飛び散った鼻血を残 して金髪が床に沈むと、その男は倒れたままの少 女に手を差し伸べたようだった。  いっさいの抵抗をやめて拳を受けたのは、もう いいと言った男の言葉に忠実に従ったからか。 握った手を支えに立ち上がり、機械的に口許の血 を拭った少女を呆然と見つめた平は、わずかにこ ちらを向いた男の横顔に、世界がぐらりと揺れる のを感じた。  「東馬……さん?」  どう呼んでいいかわからず、とりあえずそう呼 びかけると、一瞬こわ張った横顔がゆっくりこち らに向けられた。  「……平」と呟いた柢い声、薄暗い照明に映える 不思議な色の瞳。間違いない、東馬修一だと平は 確信した。もう四十代も終わりに近いはずなのに、 すっきり整った細面は当時と変わらない、俗世と は無縁の青年のような若々しさを保っている。十 年の歳月を飛び越え、突然現れた恩人の顔を目前 にして、平の中では思いもよらない言葉が固まっ ていた。  なにを、今さら。無意識にそんな言葉が紡がれ、 それを触媒に百もの思いが胸の中にわき返ってゆ く。束の間視線を絡ませた後、出口に向かった東 馬は、カウンターで固唾を飲んでいるマスターに ⊇亘二言話しかけると、「早く出た方がいい」と こちらを振り返った。  これだけ店を荒らされて、マスターが手をこま ねいているはずもない。東馬の無表情に、ミカジ メを払っている組事務所から面倒な連中が派遣さ れてくる可能性を思いついた平は、ぐらぐらする 頭を手で支えながら立ち上がった。  倒れたテーブルと少年たちが折り重なる店のあ りさまを振り返り、永田の姿を搜したが、壁際に 張りついている野次馬たちの中にその顔はなかっ た。軋む首を巡らす間に、少女のダウンパーカー がすっと目の下を横切り、ドアを開けて待ってい る東馬に並ぶ。「急げ」と上官の声を出した懐か しい瞳に、平は無意識に従う足を踏み出していた。  御徒町駅方面に歩き、首都高の高架をくぐって 東上野へ。焼肉や朝鮮料理の食材店が並ぶ通りは、 どこもシヤッターを下ろしている時間だった。東 馬に背中をさすられ、ハングル文字の店案内が貼 られた電柱の根元に胃の中身をぶちまけた平は、 肩を抱えられるようにして深夜営業の喫茶店に運 び込まれた。  靴跡と血痕がこびりついたずたぼろの上着に、 赤黒く腫れ上がった顔面。いらっしゃいませ、の 声を喉に貼りつかせたウェイターに水を注文する と、東馬は五人ばかりいる客たちの驚き顔を無視 して、奥のソファに平を座らせた。  運ばれてきたアイスロックをおしぼりでくるみ、 簡易氷嚢を作って、腫れた頬に当てるよう言う。 水で口の中の血と胃液を洗い流し、言われた通り にした平は、ちりちりと肌を刺す冷たい刺激の心 地好さに、ようやく息を吐くことができた。  斜め前、窓際のボックス席にひとり離れて座っ た少女は、相変わらず無言のままデニムの足を組 んでいる。頬の絆創膏も、無造作に車ねたセミロ ングの髪もいじることなく、東馬が作った氷嚢を 唇の端に当てて、じっと窓外を眺めている。後か ら縫いつけたらしい、デフォルメされたダックス フントの刺繍がダウンパーカーの胸元に見え、そ れが適当に買い集めたといった感じの服装に一点 の温かみを灯していた。  いったいこの娘はなんなのか。だいたい東馬は あんな店でなにをしていたのか。働き出した頭が 疑問を並べ始めると、それを感じ取ったように、 「娘の理沙だ」という柔らかい声が目前に発して いた。  「妻の忘れ形見でね。男手ひとつで育てたせいか、 あまり人づきあいが上手くない。勘弁してやって くれ」  用意してあったような言葉に、それ以上の質問 を封じられた思いの平は、「あんな大きい娘さん がいらしたとは……」とお愛想を言って、彼女の 持つ「技術」については触れないようにした。微 笑で答えた東馬の瞳に微かな青みが差しているの が見え、自分が誰と向き合っているのか、あらた めて思い知らされた気がした。  ショートした電気系続から立ち上る白煙、漏れ 出た燃料の剌激臭が立ち込めるひしやげたコク ピットの中で初めて見、その後、病院のベッドか ら幾度も見上げた藍色の瞳。カラーコンタクトの 安っぽさとは異なる、ある種の神秘性さえ備えた 深い蒼は、虚無的な細面と相まってこの男によく 似合った。年齢相応にやや肉を落とし、ひと回り 小さくなったようでいて、そのぶん内に秘めた芯 をより凝縮させたように見える男の目は、部隊の 連中から眠狂四郎のあだ名を冠されていた頃とな にひとつ変わっていないと思う。運ばれてきた コーヒーに口をつけながら、平は「……驚きまし たよ」と言葉を繋いだ。  「こんなとこで会うなんて。……また助けられち まいましたね」  それには答えず、東馬は「背中は?」と尋ねた。 季節の節目や天気の変わり目になると決まって騒 ぎ出す、脊椎損傷の一歩手前で踏み止まった背部 裂傷の疼きは、今ではすっかり生理に馴染んだも のになっている。「お陰さんで」と答えた言葉が 喉に引っかかり、今さら……という思いが再びわ き上かってくるのを感じた平は、目を逸らして破 れかけたポケットにタバコを探した。そんな思い を察したのか、東馬も「……そうか」とこもっだ 声を返してきた。  「十年……になるかな。本当に久しぶりだ。平 −」  「−曹長、でさ。相変わらず」  さすがに決まり悪く、痒くもないうなじを掻き ながら言うと、もう一度「そうか」と応じた東馬 の微笑に、少しの影が宿ったようだった。  「ウイングマークを手に入れて、一線のヘリパイ として活躍しているものとばかり思っていたが」  通りかかったウエイターに水のお代りを頼んで、 平はそれを聞かなかったことにした。陸曹航空操 縦課程では、修了の証である航空徽章が交付され ると同時に三尉に任官されるから、いまだに曹長 である自分がヘリパイーヘリコプターパイロツ トから脱落した事実は、あらためて語る必要もな い。航空身体検査の合格基準を逸脱した腹回りを 見ればわかることだろうと思い、くわえたタバコ に火をつけると、「まさか、地連にいるとはな」 と言った声が胸に突き刺さってきた。  「……まあね。太鼓持ちやってますよ」  「上もつまらん人事をする。せっかくの才能 を……」  収まったはずの化学変化を、ぶり返させる言葉 だった。「地連だって仕事のうちですよ」と応じ た声が硬くなり、理沙がちらりとこちらを見る。 無表情な瞳に冷や水をかけられたようで、咳払い でそれをごまかした平は、「そちらこそ、あんな 店でなにしてらしたんです」と大人の声を出し直 した。  「あそこのマスターは仕事仲間でね。会報を届け に行って、あの騒ぎに出くわした」  垂れ目のマスターと言葉を交わしていた、東馬 の横顔が浮かんだ。吸いかけた煙を吐き出した平 は、「仕事って、調査隊のですか?」とやや身を 乗り出すようにした。  陸上幕僚監部調査部別室−通称「調別」勤務 というのが、東馬について平が知っている数少な い情報のひとつだ。小平の調査学校で語学や諜報 術の基礎を学び、全国に散在する傍受施設「ウサ ギの耳」に飛び込んでくる北朝鮮やロシアの電波 情報を解析したり、沿岸に据えられた巨大望遠鏡 で常時日本海を監視し、捕捉した米粒のような影 から戦闘機や艦船の正確な形を割り出すのを仕事 にしている部門。千三百人前後の人員を擁してい ると言うが、本部がある市ヶ谷駐屯地にもそれと わかるような施設はないし、ほとんどの自衛隊幹 部もその実情を知らない。マル秘のベールに包ま れた組織で、東馬は平たち一般の自衛官とは隔絶 した世界を生きてきた男だった。  当時の自分がそうであったように、その場にあ る者としての責任をしっかり受け止め、お世辞に も万全とは言えない枠組みの中で、最善を尽くそ うと努めていた東馬。明確に意識する主権もなく、 国境さえも時々の都合で改竄する不定形な国家を 守るという、抽象的で捉えどころのない仕事を選 んでしまった不運を笑いあい、組織の内部改革を 夢見た者同士、彼こそ一線での活躍を続けている ものと思っていたが、返ってきた答えは「辞めた よ」だった。  「冷戦終結以来、規模は縮小の一途をたどってい てね。もうわたしがいる必要もなくなった」  「そりやあ……。地下鉄テロやら北の動向やらで、 けっこう忙しいんじやないかと思ってましたが」  冷戦後、アメリカの核の傘の下で惚けきってい た日本人の横面を張り飛ばすように連続したいく つかの事件の背後には、いずれも一般社会からは 窺い知れない底流の臭気が漂っている。調別とい う、存在自体公表されていない組織の活躍の場は 増えたのではないかと、外野の勝手な想像だった が、東馬は口許の微笑でそれを否定した。  「安全神話の崩壊も、所詮は一時の集団神経症に 過ぎなかった。見えない危機に備えて払う金があ るなら、目の前にある負債に充てた方がいいと、 いうのが永田町の考えでね」  皮相な笑みは、自分と同じ絶望を抱いている男 のものと見えた。引け目が多少解消された思いで、 平は「赤の他人が殺された痛みより、懐の痛みの 方が応える。現実ですな」と相槌を打ってやった。  「自分は決して殺されないと錯覚している者の現 実。揺りかごの中の赤ん坊と変わらない、閉塞し た個が紡ぎ上げた現実だ。幻想ほどの価値もない よ」  静かな声がはねのける。宗旨変えした自分を見 透かされたようで、コーヒーを啜りつつ「今はな にを?」と話題を変えた平は、「平和運動」とい う突拍子もない返事を聞くことになった。  「本当だ。沖縄で、基地縮小の市民運動を手伝っ ている」  こちらの不審顔に苦笑を浮かべて、東馬は続け た。吹き出しかけたコーヒーを何とか飲み下して、 平はまじまじとその顔を見返した。  東馬と市民運動。当人から聞かなければ冗談と 笑い飛ばすところだったが、薄手のセーターに黒 のジャケットを羽織った姿には、言われてみれば そんな俗世離れした空気が漂っていないこともな い。懐から取り出した会報には「ハイサイーネッ ト」の文字が刷られ、参加呼びかけのコピーとと もに、インターネットのアドレスが記されていた。 ぱらぱらとめくった後、ここ数日マスコミを賑わ せているニュースを思い出した平は、コーヒーに 口をつけた東馬の顔を見つめ直していた。  「そういや、第三海兵師団の撤退が本決まりに なったとか……」  「在沖海兵隊撤退」の文字が新聞の一面を飾っだ のは、一週間前のことだ。冷戦終結で不要説が叫 ばれる中、米兵の少女暴行事件によって一気に噴 出した沖縄の基地問題は、地位協定見直しと基地 縮小を要求する島ぐるみ闘争に発展していったが、 現行プレゼンス維持を絶対条件とするアメリカ、 日米安保死守を屋台骨にしている政府保守の壁に 突き当たり、二〇一五年までに三段階に分けて返 還を為し遂げる「基地返還アクションプログラ ム」の提案という形で決着せざるを得なかった。 それさえも移転先の反対運動につまずいて、実現 が疑問視されていたのだが、そんな時まったく唐 突に海兵隊撤退が米側から持ち出され、異例のス ピードで基地返還が実現したのだった。  沖縄に駐留する米軍人二万八千人中、一万八千 人を占め、基地面積においては七十五パーセント 以上を使う第三海兵遠征軍は、そもそも米本国か らもその存在価値が疑問視されていた。元来、他 軍の助けを借りることなく速やかに展開できる 「戦略的機動性」と、「自己完結性」を売りにして いる海兵隊だが、艦艇や航空機の削減によって、 すぐに動ける「足」をなくしたまま沖縄に駐留し ている第三海兵遠征軍は、その基本的能力をすで に失ってしまっている。現有している揚陸艦は先 遣隊を運ぶのに手一杯で、中核の第三海兵師団が 移動するには本国から大型輸送機を同してもらう しかなく、それなら本国駐留の部隊を直接運んだ 方がはるかに手っ取り早い、ということになる。 三個ある海兵師団のうち、唯一国外に拠点を置く 第三海兵遠征軍は、日本の経済負担を失って米本 国への移転が決まれば、即日解体されることは間 違いない「余剰戦力」として認識されており、そ れゆえに海兵隊出身者を多数擁する米議会も、安 保を外交の機軸に据えている日本政府も、不要説 を必死に否定し続けて来だのだが、先日米政府か ら発表された「部分的撤退」は、それを全面的に 認めた上で、機動性のある一部の部隊とその支援 艦艇、航空機だけを沖縄に残して、第三海兵遠征 軍をほぼ全面的にハワイに移転させるという、関 係者にとってはまさに寝耳に水の内容だったのだ。  解放を喜ぶ者がいる一方で、土地を返しても らっても運用するあてのない地主、基地経済に依 存していたAサイン業者たちは不安顔を見せ、沖 縄経済界は跡地利用を見越して算盤を弾くことに 余念がない。だが始まりがそうであったように、 今回の撤退劇も沖縄住民の意思とはまったく無関 係のところで進行し、決定されたものであること は間違いのない事実だった。  国際情勢と、財政赤字圧力の掛け算で決まると 言われる米軍プレゼンス。全県無税、投資税額控 除の自由貿易空間を実現し、沖縄を第二の香港と する「フリーゾーン構想」と、それを当て込んだ 企業、彼らを票田と資金源にしている政治家たち。 今朝の新聞では、フリーゾーン化した沖縄への資 産移動を目論む台湾企業が、五十億ドルもの投資 準備があることをちらつかせて、現地経済界との 接触を開始しているらしいと報じていた。そのど れもが沖縄県民の思いとは無縁の、利権にたかる 蠅を連想させるものでしかなかったが、一公務員 の身にはお上の決定事項に口を挟む頭もつもりも なく、平は「意外ですな」と、正直な感想だけを 囗にした。  「ついこの間の共同宣言で、対中・対北を視野に 据えた新しい日米安保のガイドラインを作るん だって息巻いてた両政府のお偉いさんが、その舌 の根も乾かないうちに撤退話を始めるなん ざ……」  「彼ら政治家は、この世でいちばん節操のない人 種だよ。金で買われ、金で売られる。主権や国防 だって競りの対象外じゃない」  十年前、病院のベッドで子守歌代わりに聞いた 声そのままだっだ。新しく入ってきたサラリーマ ンらしい客をちらと見上げてから、東馬は言葉を 次いだ。  「いずれ、これからは防衛政策のあり方も変わら ざるを得なくなる。海兵旅団の創設も夢ではなく なるかも」  海兵旅団。記憶の底に封じた「特別な部隊」の 名前を聞かされて、平はタバコを揉み消す手がこ わ張るのを自覚した。「そう単純なもんでもねえ でしよう」と受け流した声も、ひどく柢いものに なっていた。  「らしくないな」それに気づいているのかいない のか、東馬は煽り立てる言葉を重ねていた。「絶 望する間に、行動あるのみが合言葉じゃなかった のか?」  不安定な斜面に降り立ったところに、強烈な横 風を食らったようなものだった。転がり落ちてゆ く自分を止めることができず、平は「……あんた にゃ言ってもらいたくないですな」と切り口上を 口にしてしまっていた。  藍色の瞳がそれを受け止める。言葉を搜す沈黙 から、平は「あの後……」とすべてをさらけ出す 一歩を踏み出した。  「あの後、ずいぶん探したんですよ。なのに消え ちまって……」  「すまない。……だが、君なら大丈夫だと思った。 世論と法対策でがんじからめにされた隊内にあっ ても、その場にある者としての責任を果たしてく れるものと信じた」  「責任なら十二分に果たしてる」と語気を強める と、「なら、なぜヘリから降りた」と東馬も声の 調子を強くした。  「旅団に見出されるほどの腕を持ちながら、たっ た一度の事故で……」  「勝手なこと言わんでくれ。なんでヘリパイをや めて手配師になったかって? 答えは簡単、バカ らしくなったからですよ。アメリカに足並みそろ えてバカ高い装備を買っても、人手不足やら安全 対策やらで満足に動かすこともできない現実。兵 器の数だけそろえて安保の帳尻を合わせたつもり になってる中央の脳天気で、いつも割り食ってる 癖に、お偉いさんが来るとなりや訓練そっちのけ で芝刈りや掃除に狂奔するくだらない体面根性。 その全部にウンザリしたからですよ」  斜め前、理沙の座る二つ先の席に収まった新入 りの客から注文を取っていたウェイターが、大声 にぎよっとした顔を向ける。新聞を広げかけたサ ラリーマンもこちらを見たようだが、腫れ上がっ た顔面と目を合わせると、慌てて新聞に目を戻し ていた。  「監督官庁の許可がなけりや輸送路の確保もでき ず、できたとしても戦車は重すぎて橋を渡れない し、地対空ミサイルは展開するスペースがない。 弾薬に至っては、有事の気配を察してから作りや いいって理屈で、備蓄は実質ゼロ。PKOじゃ弾 倉抜きの小銃抱えてるさまを世界中の軍隊から笑 い物にされた。災害救助にしたって、派遣の垂れ 幕を全部のトラックにぶら下げてからでなけりや 動けないわ、目の前に腹を減らした被災者がいて も書式が整わなけりや缶詰ひとつ支給できないわ で、自分らを縛りつけてるお役所体質をそのまま 引き写してる。誰も責任を取ろうとせず、自分で 考えようともしない。危機管理も防衛政策も、全 部場当たりで無責任。この国は、てめえの尻を満 足に拭くこともできないってわけだ。そんなとこ ろでやりがい持って働けったって、どだい無理な こった。心の底じゃ誰だって虚しさを感じてる。 世界でいちばん尊敬されない軍隊、日陰者の烙印 を押されて、目の前の仕事をこなしてりゃいいっ て日和見根性で不安や不満を紛らわしてんだ。途 中下車したあんたには関係ないことでしょうが ね……!・」  口が勝手に動いている、という感じだった。言 い切った後、突き剌さる強い視線に気づいた平は、 じっとこちらを見据える理沙の瞳と目を合わせて、 なにかしらぞっとするものを感じた。  万一、東馬に手を出そうものなら、容赦なく排 除する。言葉より雄弁に語った目は、父親を盲愛 する娘のものというだけでは説明にならない、 もっと切実で硬質ななにかだった。有線の浮かれ たポップスが無言の間を強調し、浮かしかけた腰 を椅子に沈めた平は、溶けきっだおしぼりの中の 水が、テーブルの上に水たまりを作っているのを 悄然と見下ろした。  「……出ましようか」  口の中の苦味を噛み締め、言った。東馬は無言 で席を立った。  男が突発的な任務の遂行を命じたのは、これが 初めてのことだった。今は東馬理沙と呼ばれてい る少女は、そうして助けた平という男と、自分に その任務を与えた男−東馬とも呼ばれる男が連 れ立って歩く姿を、数歩離れた位置から見つめて いた。  昂った感情を東馬にぶつけた平は、今は肩をす ぼめ、痛めた足を引きずるようにしてとぼとぼと 歩いている。東馬もその歩調に合わせ、下ろした シャッターばかりが目立つ通りを散策するように 見同している。そうしている姿は、まるで別の人 間のようだった。自分の知る限り、東馬が無防備 に接することのできる他人は、「おじさん」と 「おばさん」を除くほかはいないはずだった。立 ち入れないなにかを感じ、二人の背中から離れて 歩き続けた理沙は、「……すんません。年甲斐も なく」と言った平の声が、遠い車の音に混ざるの を聞いた。  「いや。君の言う通りだ。確かにわたしは逃げ出 した。君を裏切ったも同然だ。言い訳するつもり はない」  東馬が答える。やはり自分や「おじさん」に向 けられるものとは違う種類の声のようだった。  「だが、あの時の約束を忘れたことはない。今も そのために働いている」  付け加えた声に、東馬よりひと回り大きい平の 歩みが少し遅くなる。東馬も歩調を緩め、平の顔 を見返す。目を合わせ、「……平和運動がです か?」と苦笑した平は、なにも言わない東馬から すぐに目を逸らして、前よりもすぼめた肩で再び 歩き始めていた。  そのままなにも言わずに歩き続け、そこだけ 煌々と人工の光を発しているコンビニエンスース トアの前で立ち止まる。店の中を覗き込み、ちら とこちらを振り返った平は、「すんません、 ちょっと待ってて下さい」と言い置いて、ひとり で中に入っていってしまった。  しばらくして、ビニール袋をぶら下げて店から 出てきた平は、東馬をすり抜けて理沙の前に立っ た。袋を差し出し、「これ……つまんないもんだ けど、助けてもらったお礼に」と言って、痣だら けの顔にぎこちない笑みを浮かべる。どうしたら いいのかわからず、東馬に指示を求める目を向け ると、「いただきなさい」という微笑が返ってき た。  袋を受け取った時、指先が平の手の甲に触れた。 ごわごわ固いようで、芯に暖かみを宿した肌の感 触は、東馬や「おじさん」のものと同じだった。 袋の中には、チョコレートやキャンディ、猫の絵 柄がプリントされたハンカチなどがぎっしり入っ ていて、遠い昔に絵本で見たサンタクロースの袋 の中身を想像させた。  「……ありがとう」  自分の声じゃないようだと思い、理沙は耳の辺 りがほんのり熱くなるのを感じた。にっこり笑っ た平は、少しは痛みがひいたのか、先刻より軽い 足取りで大通りに続く道を歩き出していた。  まだ終電に間に合う時間だったが、「このあり さまで電車に乗ったら、捕まっちまう」と言って、 平は昭和通りに出たところでタクシーを拾った。 東馬に脱帽敬礼をしてから、こちらにも軽く手を 振る。応じるべきか考えている間に、その顔は車 の中に消えてしまっていた。  見送った東馬は、それがほかの車のテールラン プと折り重なって見えなくなった頃、「理沙」と 口を開いた。いつもの刃を取り戻した目が、ヘッ ドライトの放列を映して輝いていた。  「彼には、迷惑をかけることになるかもしれん。 その時は頼む」  周囲を取り囲んでいる複数の視線を、自分と同 じように感じ取っている男の声だった。平を助け た瞬間から、それはわかっていたことだ。理沙は 黙って頷いた。  二幕目はもう始まっている。高架に塞がれた空 を見上げ、再び歩き始めた東馬に並んで、理沙も 無数の吸い殼が転がる道を歩き出した。残業帰り のサラリーマンや、ホームレス。複数の視線も移 動を開始する気配を感じながら、もう訪れること のない街を後にした。  三日後。まだ痣のひかない顔に募集案内パンフ レット一式を納めた鞄を携えて、平は再び上野駅 前に立っていた。  正式に断りの連絡を入れてきた母親の言葉を借 りれば、「自分を見つめ直す」旅に出てしまった らしい永田とは、あれきり会うことはなかった。 土壇場キャンセルやすっぽかしとは縁の切れない 稼業だが、こちらにも問題があってのことと自覚 している平は、殴られ損の恨みを胸にしまい、所 長の雷と同僚たちの冷ややかな視線も甘受して、 穴埋めの仕事に取りかかることを余儀なくされた のだった。  防衛大の受験受付も一般曹候補学生の受付も終 わり、地連業務そのものが短い閑暇期に入った十 月初旬の今、順番待ちの人材ストックも使い果た した墨田出張所内で、今日明日中に一名確保せよ というのは不可能に近い。貸しのある他の出張所 に予備を同してもらえなければ、城東地区隊全体 の解猟区である上野で「肩叩き」に専念するより なかったが、痣とバンドエイドだらけのごつい顔 に「お時間ありますか?」と肩を叩かれて、相手 にする酔狂な若者がいるはずもなかった。昨日に 引き続いて散々肘鉄を食らわされた平は、三時の 時報を待たずに、疲れきった体を浅草口のハン バーガー店に向けた。  東北新幹線開通を呼び水に、大型デパートの出 店や立体交差点建設を柱とした再開発が行われた のはつい数年前のことだが、小ぎれいな歩道橋も、 そこここにうずくまるホームレスたちがすぐに上 野色に染めてしまい、ポルノショップやファース トフード店、サラ金事務所が混然と立ち並ぶ浅草 口の小便臭さは、十年前から少しも変わるところ がない。フライトポテトの安い油の匂いが漂う店 内に沈み込んだ平は、気の乗らない顔に携帯電話 を近づけていた。  三回目の呼び出し音が鳴り終わる前に、高い声 が応答する。受話器を取った美奈代は、グータラ 兄貴からの電話とわかると、(何度も電話してん のに、どこ行ってんの)といつもの不平を鳴らし ていた。  「悪い。いろいろ忙しくてな」とこちらもいつも の応対。嫁いで十五年になる妹は、二人の子供が そろそろ手が掛からなくなってきたのをいいこと に、このところ一週間と置かずに電話を掛けてく る。そのどれもが見合い話で、生来のお節介根性 を発揮して、何度斷っても次から次へと新しい候 補を用意してくるのだった。  「お兄ちゃんがいつまでも独り身だと、あたしも 安心できないから」などとほざきつつ、のらりく らりのこちらに業を煮やすと、地連事務所の ファックスにまで見合い相手の写真を送り付けて くる強引さで、大恥をかかされたことも一度では ない。(この間送った写真、見てくれた?)と 言った美奈代に、ゴミ箱に放った三十代後半の子 持ち未亡人の着物姿を思い起こした平は、「一応 な」と答えておいた。  (今度は自信あんのよ。子供っていったって、ま だ小学校に上がる前だからすぐ馴れるだろうし。 会うだけ会ってみない?)  「あのな、郵便代と電話代の無駄だからやめろっ ていつも言ってんだろ? おれば好きで独りでい るんだから、ほっといてくれ」  (そんなこと言って、一生結婚しないつもり? あたしイヤよ、寝たきりになったお兄ちゃんの下 の世話をするのなんか)  「心配すんな。その時は、どっかの山奥に入って ひとりで骨になってやるから」  (そんな、象じゃあるまいし……。お兄ちゃんが そんなじゃ、お母さんいつまでだっても成仏でき ないわ。お父さんだって、口には出さないけどお 兄ちゃんに子供ができるの楽しみにしてるんだか ら)  それを言われると、返す言葉もない。こうなる と防戦一方になることがわかっている平は、その 後も続きそうな美奈代の声を「かけ直すから」の ひと言で遮って、通話ボタンを切った。  別にポリシーで独身を貫いているわけではない し、妹の言うような不安がないわけでもないのだ が、この歳まで独りでいると、家庭を持つという 行為に伴う責任や重さばかりが先に立つ。少なく とも今の自分に夫や父親をやる資格があるとは思 えず、そうする価値自体、世間と呼ばれるものの 中に見出せずにいるというのが本音だった。  大声でわめく子供をいちど叱ったきり、女友達 との会話に熱中している若い母親。食い散らかし たテーブルに鳥ガラのような足を乗せ、携帯電話 片手に笑っている錆びた頭の少年たち。カウン ター席の若いOLはポケットゲームの小さな液晶 画面に吸い込まれていて、その奥で制服のスカー トを短くまくり上げることに余念のない女壬咼生 たちは、ひとり残らず同じ髪型と目付きをしてい る。すぐ横のボックス席で口を半開きにしている 中年の背広を振り返ることもなく、平然と下着を ちらつかせている彼女らは、別に挑発しているの でも無視しているのでもないだろう。同じ人間と して認識していない。自分たちだけのコミュニ ティがすべてで、その価値観から外れるものには 興味を持だないし、持てない。電話線や写真で互 いの存在を確認し合い、集団で快楽という餌を探 し同る群体生物は、取り巻く環境と見事な共棲関 係を築き上げ、彼ら若者を時代の被害者のように 扱うか、商売に使うことしか思いつかない大人た ちの貧困さにすっかり適応してしまっている、と いったところか。  もはや社会参加を理想に掲げることができず、 後ろ向きで刹那な世過ぎしか口にしない社会に育 てば、それも自然のなりゆきなのかもしれない。 すべてを委譲していた経済論理がバブル崩壊の帰 結を迎えるさまを直視して、この国の人々は明日 を託すべき対象を見失ってしまった。国も、会社 も、学校も、親も。帰属するすべてのものが曖昧 で頼りなく、疲労と倦怠だけが支配する世界の中 で、約束された成功と、何度でもやり直せる保証 のあるデジタルの虚構世界だけが増殖してゆく  とっくに婚期を逃している男が、焦って種を残 すほどの世の中じゃない。いつもの納得を薄い コーヒーと一緒に飲み下して、平は重い腰を上げ た。  駅沿いに歩いて、広小路口に出る。ひと昔前は 上京したての若者の肩を叩き、出張所に寝泊まり させて勧誘していたらしいが、今はアメ横に遊び に来た連中を捕まえるのが主流だ。つい先刻肩を 叩いた若僧に、「ケツ、自衛隊か」と差し出した 名刺を捨てられた恨みを腹に収めて、平はコイン ロッカー脇の定位置で張り込みを再開した。  行き交う人の姿をぼんやり見つめていると、背 後のガード上を走る電車の音、中央通りから浅草 通りまでを埋め尽くした車の喧噪に混ざって、重 い羽はたきの音が舞い降りて来た。タンデムのチ ヌーク、と当たりを付けて顔を上げると、正面に そびえる日本酒の看板の向こうから、その通りの 機体が姿を現していた。  胴長の機体に、二つのローターを備えた陸自の 輸送ヘリ。青空の中、水平飛行を維持したCH‐ 47Jは、誰かが並べたような鰯雲を背に悠々と飛 んでゆく。隅田川上空を抜け、地上効果の得やす い市街地に出たパイロットは、ひと息ついている ところだろう。そんなことを考え、機体の動きに 合わせてピッチレバーを握った右手を動かしてい る自分に気づいた平は、慌ててその幻想を振り 払った。  未練がましい、無様。自分を罵り、一服つけた タバコで気を紛らわそうとしたが、ターボジャブ トーエンジンの響きはそう簡単には消えてくれな い。翼を失い、群れからはぐれた鳥を悼むかのよ うに響く音に、ふと先日すれ違った男の輪郭を重 ね合わせた平は、大声で怒鳴り散らしたい心境に 駆られた。  結局、東馬ともあれきりだった。再会の約束も、 連絡先を教えあうこともなく別れてしまっだのは、 かつてあの瞳に映っていた自分と、こうして立ち んぼをしている自分との落差が、言葉では埋めら れないほど巨大なものになっていることを自覚し ていたからかもしれない。地連と言えば、盛りを 過ぎた中年下士官が行くものと思っていた当初こ そ、まだ三十そこそこの自分が「地連のオッサ ン」の仲間入りをすることに抵抗を持っていたが、 今や名実ともに立派なオッサン。無視され、嘲ら れ、肩に置いた手を振り払われる度に少しずつ死 んでいった尊厳は、今さら取り返せるものではな かったし、そんな気力ももはやないと思う。たま に転職雑誌をめくっては、交通誘導に勤しむ警備 員になっている自分を思い浮かべ、ため息と一緒 に閉じた後は、これも食うための仕事と割り切り、 その価値を語れないままに商品を売りつけている 三流セールスマンの自分を、他人事のように傍観 する日々−。  そんな思いは、ここで自分の肩を叩いた地連の 男も同じだったのかもしれない。ふとそんなこと を思った時には、「地連のオッサンに騙され て……」を相部屋の仲間だちと合言葉にしていた 新兵時代の記憶、その先にある「特別な部隊」の 記憶が縊れ出してきて、平は舌打ちと一緒にその 輪郭をまさぐり始めていた。  手配師の目で振り返れば、あの頃の自分は理想 の勧誘対象だったと思いつく。剣道で鍛えた図体 は立派でも、将来にこれといった目標もなく、内 定していた就職先が倒産してしまったために、ア メ横の市場でバイトに明け暮れていた工業高校卒 業生。それが、当時はまだ珍しかった婦人自衛官 の笑顔につられ、駅前掲示板に貼ってあった募集 ポスターの前で立ち止まっだのがいけなかった。 するすると背後に忍び寄り、「おっ、いい肉の付 き方してるねえ」と肩を叩いた声に振り向いた瞬 間、その後の人生が決まってしまっだのだから。  このまま勤め先が見つからないようなら、警察 官にでもなろうかとぼんやり考えていた身には、 二年間の任期修了ごとに退職金が支給される任期 制隊員への誘いは魅力的だった。月々の給料の他 にボーナスももらえ、もう一任期務めればさらに 倍の退職金が支払われるという大盤振舞いの制度。 地連は採用後二年間の教育を経て三曹に任官され る一般曹候補学生を勧めたが、まだ自衛隊を一生 の仕事にするつもりはさらさらなく、とりあえず 二年くらいならという軽い気持ちで、三日の内に 自衛隊入りを決めてしまった。母は反対したが、 「おまえがいいと思うなら、それでいい」とひど く鷹揚に言ってくれた父に助けられて、二ヵ月後、 平二等陸士の自衛官生活はスタートした。  任期制隊員に破格の給与条件が与えられている のも、当時からつい最近までの自衛隊は一士、二 士が慢性的に不足していて、曹の数の方が多いと いうピラミッドの逆転現象に悩まされていたから で、これは任期制隊員を引き止めるために次々と 下士官に引き上げてしまった結果だった。実際、 二年間の任期を支えるのは気力でも体力でもなく、 退職金だというのが、半年の教育期間を終えて北 海道・旭川駐屯地の第九普通科連隊に配属された 平の偽らざる心境だった。  二段ベッドが六つと、個人用ロッカーがあるだ けの殺風景な大部屋に詰め込まれ、朝六時起床、 夜十時消灯の毎囗がくり返される。ベッドの整頓 から服のたたみ方まで指導される生活の中、日々 の課業で六四式小銃の取扱いを憶え、月一の野戦 訓練で掩体(塹壕)の掘り方を習い、分刻みの行 動を強いられる隊舎での食事・入浴の要領を、体 で学んでゆく。徹底した上意下達の鋳型にはめ込 まれ、幹校出の大卒幹部との間に引かれた絶対的 な境界線に気づくと、まだ世間の理不尽を知らな い新米陸士たちの背中には忍従の文字が浮かび上 がり始め、それは各々の色あいを残しながらも、 やがて「自衛官」という曖昧模糊な一色で括られ るようになってくる。自己鍛練の向上心に燃えて きた者、自分と同じく地連のオッサンに言いくる められ、何となく来てしまった者、どこだかの暴 力団で使い走りをやっていた者。ある者は角が取 れてまるくなり、ある者はまるまっていた角が多 少削り出されて、全員が自衛隊の規格に平準され た頃には、課業終了後のスナックでの一杯や、ド ライブやハイキングを宝にして生きる、僻地勤務 の陸士ができあがるのだった。  生まれも育ちも東京の平には、うら寂しい地方 の空気が耐えられなくなることもあったが、ほど なく人間はどんな環境にも適応するものだと新し い発見をすることにもなった。一年と少しが経ち、 新人がどんどん送り込まれて来て、ローテーショ ンで同ってくる警衛や炊事の当番がある程度自由 に裁量できるようになってくると、他の者同様、 課業の抜きどころをすっかり覚え、よろしくやっ ている自分がそこにいたのだ。  訓練のための訓練に明け暮れる日々に、戦闘の 緊張感があるはずもなく、実弾飛び交う戦場に自 分か立つことを想定している者など一人もいな かった。なにかあっても在日米軍の後方支援がせ いぜいだろうし、第一その「なにか」に対する具 体的なビジョンさえ、末端の陸士には持ちようが ない。営業成績が悪いと叱られることもなければ、 生産ノルマに追いかけられる心配もなく、押さえ どころさえ心得て要領よくやっていれば、判で押 したように安定した毎日がくり返される。そんな 日々を送っている任期制隊員の中には、退職金目 当てに曹昇任試験を受けず、士として居座り続け る者も出てくる。二期目を終えつつある平にはそ んなつもりはなかったが、曹になれば支給された 退職金の四分の一は返還しなければならない、と いう話を聞けば昇任試験を受ける気にもなれず、 娑婆に戻ってもいい仕事はなさそうだし、とりあ えずもうしばらくはこのままでいるか……などと 思っていた時だった。母の緊急入院が伝えられ、 急きよ東京に戻った平は、盆の帰省で会った時と は別人のように痩せ衰えた母と、集中治療室で再 会することになった。  癌だった。身仕度にうるさかった父がよれよれ のシャツとネクタイで憔悴しきっだ顔をうつむけ ている側で、平は肉の落ちた、それでも温もりを 残す母の手を握った。  わずかに握り返した母は、母さん、おまえが自 衛隊に入るの反対したけど、あれは心配だったか らなんだよと今にも消え入りそうな声で言った。 おまえは昔から正義感が強かったから、亶]つ先に 危ないところに飛び込んで、大怪我でもしたらど うしようって、そればっかり……。でも誰かがや らなきやならない仕事だものね。母さん、嬉しい よ。おまえが世の中の役に立つ仕事を選んでくれ て。そんなことを言い、微笑んだ顔が、平が見た 母親の最後の姿となった。小康状態を迎えた母を 残し、いったん帰隊してからしばらく後、息を引 き取ったという電話が妹から届いたのだった。  法的な存立基盤は度外視したとしても、自衛隊 という組織が根底に持つさまざまな矛盾と問題を、 母が理解することはなかっただろうし、その必要 もなかった。外側にいる一市民として、母はごく 当たり前の、あるべき自衛隊の姿を自分の息子の 中に投影したのだ。そう気づいた時、それにまっ たく応えていない、今のままでは応えられない自 分を省みて、平は曹昇任試験の受験を決めた。  理屈ではなかった。そうでもしなければ母の墓 前に立つことはできないという強迫観念に駆られ、 人生始まって以来の猛勉強に勤しんだ平は、翌年 部隊でトップの成績を修めて試験に合格した。中 隊長に直接、所属希望を問われる幸運に浴し、ダ メ元でヘリのパイロットと言ってみると、あっさ リ「陸曹航空操縦課程」に推薦されたのだった。  空自や海自では、通常の募集枠とは別個に航空 学生としてパイロット候補を公募し、専門教育を 実施しているが、陸自では幹部候補生や部内選抜 者の中からのみ候補を募っている。対戦車・指揮 観測・輸送と、いずれも地上部隊の支援を主眼に 置いている陸自航空部隊の任務においては、地上 との連携がなによりも重要視されるからで、パイ ロットとしての素養には「地上部隊での経験」が 第一に盛り込まれてもいる。航空身体検査をパス する健康体、三等陸曹以上の階級保持、二十七歳 以下の年齢。操縦課程に進む条件を満たし、学科 試験と適性検査も難なくパスした平は、四十人の 候補生だちとともに航空学校宇都宮分校に送られ、 パイロットヘの道を歩き出した。  固定翼機もあるにはあるが、陸自航空部隊の主 力はなんといっても回転翼機、つまりヘリコプ ター。宇都宮でも、もっぱらヘリパイ養成のため の訓練が行われる。別にヘリや飛行機が好きだっ たわけではなく、ただパイロットという響きに求 めていたスペシャリストとしてのやりがいを見出 しただけの平にとって、最初の九ヵ月間にわたっ て施される座学課程は苦痛以外のなに物でもな かった。が、実習課程に進み、前期八十時間のフ ライトートレーニングが開始されると、状況は一 変した。子供の頃からパイロットに憧れていたと いう者がほとんどの訓練生たちは、初めて触れた ヘリの、想像をはるかに越える複雑な操縦系統に 打ちのめされて、本当に自分はパイロットになれ るのかと思い悩む時期があるというが、もともと なにもかもが未知の平には違った。全身運動と 言ってよいヘリの操縦も、それまで学んで来たこ とと同じ、単に憶え、慣れればいいだけのもので、 余計な先入観がない分、飛行実習はことのほか順 調に進んだ。  揚力を調節するコレクティブーピッチレバー、 飛行機で言えば操縦桿に相当するサイクリックー ピッチレバー。足もとのアンチトルクーペダルは、 メインローターの回転力を打ち消して機首方位を 制御するテールローターのブレード角を調節する もので、左を踏み込めば回転を打ち消す力が強く なって機首は左を向き、右を踏み込めば弱くなっ て機首は右を向く。これだけの基本操作が体に馴 染めば、後はその機体に応じた限界速度と高度を 守り、各種の操縦技術を身につけていけばいい。 有視界飛行の多いヘリでは、高度や速度、エンジ ン出力の関係を見定めるために、常に周囲の状況 と計器を確認するクロスチェックが重要だが、そ れも理屈より体で憶えるべきことだ。教習用のヘ リ、OH‐6Dはタマゴ形のフォルムを持つ愛敬 のある機体で、しばらくすると操縦席のわずかな 揺れやピッチレバーの抵抗で、機体と会話ができ るような気さえしてきた。  相手のコンディションと性能を思いやり、やさ しく扱ってやれば、ヘリはこちらのイメージ通り に飛んでくれる。訓練生はもちろん、教官だちか らも一目置かれるようになり、平は二十七歳にし て初めて自分の天性がヘリの操縦席にあることを 知った。大空という新しい世界を得て、ただ過ご していただけの人生は急速に意義あるものに変 わっていった。  そうしてI、二の成績を維持しながら前期操縦 課程を修了し、後期百二十時間のトレーニングに 移ってしばらく後、まったく新しい世界が平の前 に拓けることになった。出頭を命じられた校長室 の扉の向こうで、見知らぬ二等海佐の制服が平を 待ち受けていたのだ。  陸幕監部の達しを受けているらしい校長が引っ 込むと、その男は的場と名乗り、自分が中心に なって設立する部隊「海兵旅団」のヘリコプター 部隊に来る気はないかと、飲みにでも誘うような 調子で言った。そんな名前の部隊があることも知 らなければ、訓練生が途中で引き抜かれるなどと いう話も聞いたことがない。どこか崩れた雰囲気 は自衛官というよリヤクザのそれで、戸惑うしか ない平に「空で話そう」と言った的場は、それか ら一時間後には機上の人になっていた。自身保持 しているウイングマークで強引に臨時教官を買っ て出たらしく、副操縦席から平の腕を見定めると、 ぽつりぽつりと説明の口を開き始めた。  「戦える自衛隊」。海兵旅団とはなにかという質 問に、的場が答えた言葉がそれだった。所有戦闘 機は航続距離がなくて本土鼻先での迎撃しか無理。 ただでさえ守り難い囗本の地形にもかかわらず、 法的整備がまったく為されていない陸自には有事 の陣地構築、上陸阻止の展開が不可能。交通法に 違反するから戦車の無灯火走行はダメ、戦時徴用 もダメ。米軍とのリンクを前提に買いそろえられ た装備は半分が使い切れずに倉庫で眠っていて、 隊員充足率は八割弱。かかる現状にあっては「国 の平和と独立を守り、その安全を保つ」自衛隊本 来の使命が果たせるはずもなく、国会で責任転嫁 の論法を組み立てている間に、日本が制圧されて しまうだろうことは想像に難くない。  そこで案出されたのが、陸海空自衛隊とは独立 した行動権限を持ち、東西南北を自在に転戦して、 ヒツトーアンドーアウェイの戦法を取る精鋭戦闘 集団「海兵旅団」。隊内の精鋭と言えば思い出す のはレンジャーや習志野空挺部隊だが、あくまで も資格でしかないレンジャーは常設の部隊がある わけではなく、空挺にしてもいちど移動した後は 次の行動が大幅に制限される。その点、独自のヘ リ部隊と輸送部隊を擁する海兵旅団は、米海兵隊 に倣った戦略的機動性と自己完結性を持っており、 今は統合幕僚議会直属の諮問機関の名目で二小隊 が試験稼働しているだけだが、将来的には旅団の 名に見合った戦力を整備してゆく方針だと的場は 語った。  まだ四十前の若さでありながら、ほとんど独力 でこの壮大な計画を推し進めていた的場は、言う ならば自衛隊の「陰」から生じた鬼子たった。右 翼バネの庇護の下、兵器産業、国防族議員、統幕 議会OBが金の還流を構築している陰は、この国 の慣習である政官財癒着構造の国防バリエーショ ンだったが、ありとあらゆる部内機関を回って人 集めに奔走し、非公開の裏技で部隊実績を先に 作ってしまおうと目論む的場にとって、装備需要 拡大を餌に取り込んだそれらの力は、目的を達成 するための単なる道具でしかなかった。要・不要 の議論以前に、自衛隊を政治の道具に押し込めて きた永田町の思惑も、そこに寄生して腹を肥やし てきた利権団体の意図も、的場にとっては意味が なく、海兵旅団計画の中核にあるものは、その名 に見合う力を自衛隊に持だせようとする、彼自身 の純粋な情熱にほかならなかった。  フライト中、あれこれと指示を出して平の技量 を確かめたらしい的場は、「実戦で通用する腕だ」 と評価を下した。  「自分の身は自分で守る、それが国際社会のルー ルだ。それもわからんような連中を無条件で守っ てくれるほど、アメリカも能天気な国じゃない。 敗戦国根性のまま、国防を他人任せにしている者 の平和論なぞ、絵に描いた餅でしかないからな」  そう語った的場に、単純に感銘できたのは若さ が成せる業だった。もやもやと燻っていた不満と 後ろめたさの根源を示し、求めていた「あるべき 世界」の形を目の前に見せられて、沸き立つもの を感じていたということもある。ほとんど迷うこ ともなく、取るべき道は決まった。後期操縦課程 のノルマを四十時間ほど残して、平は硫黄島の海 自飛行基地に併設された海兵旅団のベースキャン プに向かった。  非公開で人を集めている手前、正規のパイロッ トは登用しづらかったという事情がある。出向中 はキャリアが停正し、試験部隊が一応の成果を上 げて解散した後は、もういちど宇都宮に戻り残る トレーニングを消化しなければならないという条 件にも納得して、平はUH‐Iを使用した錬成及 び戦技飛行訓練に入っていった。  夜間N O E (地形追随飛行)、レンジャー 課程でさえ使っていないペイント弾を用いての模 擬戦。敵味方に分かれ、実戦さながらに行うヘリ ホーン作戦。一年後には陸自選抜部隊との共同訓 練−実際には、海兵旅団の実効性を証明するた めの対抗戦−が控えていることもあり、訓練は 一瞬の気の弛みも許されない、熱の入ったものに なっていった。的場の言葉を借りれば「最後の一 兵になっても勝つことをあきらめない」兵士育成 を目指し、寝食を制限され、レンジャー顔負けの 苛酷な訓練に耐える海兵候補たちが泥にまみれて いる側で、平も機械油にまみれ、ひたすら操縦技 量上達に明け暮れる日々が続いた。  寝ていても足はペダルを踏み、飯を食べていて も気がつくと箸をサイクリックにして、あの時の 旋回はこう、降下の時はこうとその日のフライト の反省をする毎日。今にして思えば、人生でもっ とも充実していた時間は瞬く間に過ぎ去り、やが て富士演習場を借り切っての共同野戦訓練の時を 迎えることになった。  NOEで敵地に潜入、ラベリング(ロープによ る降下)で兵を降下させ、陸自選抜隊が守る通信 所を襲撃。回収後、離脱する。的場の鼻柱を潰そ うとするかのように、倍する戦力とレンジャー有 資格者で固めた陸自選抜隊との模擬戦は二週間に わたって続けられ、そうしたヘリホーン作戦もほ とんど連日のように行われた。二回副操縦士とし て作戦に参加した平は、三回目に機長としてピッ チレバーを握り、無事に成功を収めた。そして四 回目には、編隊長の大任を仰せつかって飛ぶこと になった。  先任の幹部パイロットたちを率いて飛ぶ、その プレッシャーは生半可なものではない。降下部隊 を交えての机上訓練はもちろん、あてがわれたU H‐Iに寝泊まりして、整備を司る機付長も音を 上げる執着ぶりで機体のあらゆる癖を飲み込むこ とに努め、更新される度に天気予報を確かめては、 ぎりぎりまで進入コースの検討を重ねる。戦闘に 万全という言葉はないが、努力で万全に近づける ことはできるという的場の言葉を内心にくり返し、 反復に反復を重ねて迎えた当夜。降下部隊の編成 変更が直前になって伝えられ、「眠狂四郎」のあ だ名で呼ばれていたサングラスの男が、平のヘリ に乗り込んで来たのだった。  途中から訓練に参加してきた東馬修一は、一尉 の階級と的場の知り合いであるらしいという背景 以外、誰にもなにも知られていない男で、平が顔 を合わせたのはその時が最初だった。夜明け前の 闇にもかかわらずサングラスを外そうとしない偏 屈ぶりが印象的だったが、ブリーフィングでは的 確以上の状況把握をして見せ、幹部の質を見抜く ことでは一流の先任陸曹からも一目置かれている 様子は、当たり前の大卒幹部とは違っていた。色 白のヤサ男は叩き上げの「I」ではなさそうだし、 防大出の「B」幹部とも違う。さては一般大から 幹候に上がった外様組かと思い、離陸直前の合間 に「Uですか?」と話しかけてみると、「いや。 Sだ」の答えが返ってきた。  「スパイのS」  そう言い、微笑した顔にはなんの含みもなかっ たが、初舞台の緊張が頂点に達しつつある身には、 からかわれたとしか感じられなかった。ふざけた 奴だと思い、その後ろくに口をきかないまま、 「出動」の号令を聞くことになった。  視界不良さえ別にすれば、低い外気温度が対気 効果を上げてくれる夜の方がヘリは飛ばしやすい。 夜明け前のひときわ濃い闇の中、ススキの生い茂 る演習地をかすめる低空飛行で風下から敵地を目 指した三機のUH‐Iは、作戦時間に寸分の狂い もなく降下ポイント上に到達した。  陸自側の運用訓練幹部にフライトプランを提出 している手前、ヘリの接近そのものは隠密でもな んでもなかったが、敵が敷設している警戒網に 引っかからなければこちらの勝ちということにな る。味方の偵察隊が敵の通信を傍受する間に、ホ バリングで二十メートルの高度に固定したヘリか ら部隊のラベリングが開始され、部下の無事降下 を確認した東馬が最後に降りることになった。  「いい腕だ、曹長」  そんな声がヘルメット内蔵の機内通話装置に響 き、暗視装置の下の目をわずかに動かして背後を 窺うと、頑固に外さないサングラス面が微かに口 許を緩め、親指を立てていた。開け広げなようで いて、全身に殺気を漲らせた東馬の顔に、「ふざ けた奴」の印象は溶けて流れたが、返事をする間 はなかった。着陸脚に足をかけ、すでに半身を機 外に出していた東馬は、一瞬後には腰に巻きつけ たロープを伝って降下を始め、ダウンウォツシュ に洗われる暗いススキの穂の海に飲み込まれて いってしまった。  マグライトが闇の地面で小さな円を描き、部隊 の無事降下を伝える。ひとつ息をつき、トリムに 固定していたサイクリックーレバーを握り直すと、 隣でオブザーブに就いているベテランパイロット の日下部二尉が、司令本部からの暗号無線を翻訳 して教えてくれた。敵に感知の動きは認められず。 侵入成功。上出来、と滅多に歯を見せない日下部 が肩を叩いてくれ、照れ笑いで応じた平は、コレ クティブを上げて離脱行動に移った。  いったんDZを離れ、旋回待機。その後回収ポ イントに向かい、東馬たちを拾って本部に帰投。 そこで状況は終了となる。とりあえずもっとも厄 介な局面を無事乗り切ったとはいえ、気を弛める のはまだ早いと乾いた唇を舐めた時だった。不意 にピッチレバーから伝わる機体の脈動がぷっつり と途絶えた。  自分と機を繋いでいたものがなくなり、それま で話していた相手が急にそっぽを向いたような感 覚だった。なんだ? と右手のピッチレバーを見 下ろした瞬間、あの強烈な衝撃が上からのしか かってきたI。  ドン、と後ろからつき飛ばされ、よろけた拍子 に指の間で燃え尽きかけていたタバコが路上に転 がった。話すのに夢中の茶髪アベックは、ぶつ かった相手に謝りも振り向きもせずに歩いていっ てしまい、その向こうにある上野駅の看板が、今 を取り巻く現実に平を引き戻してくれた。  雑踏、渋滞、その喧噪。手のひらにべったりと 浮き出た冷汗をズボンで拭い、溜まった息を吐き 出した平は、テレクラのビラが散らばる路上に転 がったタバコが、小さな残り火を宿して燻ってい るのを悄然と見下ろした。  念入りにそれを踏み消しだのは、一緒に燻って いる過去の恥辱、終了しなかった状況をかき消す ためだった。最後に立ち昇り、すぐ風に流されて いった自い煙は、今の自分だろう。ピンと来ない 人生を、誰もがそうだと決めつけて若者に押しつ けるくたびれた中年男。寸分違わず同じ真似をし ている自分を棚に上げ、あの時、ここで地連の男 に会いさえしなければ……と掲示板の方を見た平 は、その前に立っている背中に気づいて、体をそ ちらに向けた。  制服制帽の自衛官カップルが空を指さして微笑 む、ふた昔前の青春映画を思わせる募集ポスター の前に立ち止まった背中は、両手を薄手のブルゾ ンのポケットにつっこみ、スニーカーの踵でアス ファルトを蹴りつけていた。斜に構えているよう で、どこか姿勢のよさを感じさせる背中は、地連 歴十年のセンサーに引っかかるものとは少し違っ ていたが、この際贅沢は言っていられない。ダメ でもともとと、少し前の胸苦しさも忘れて近づい ていった平は、「あの、ちょっと」の声と同時に 手をのばした。  強すぎても弱すぎてもダメだし、タイミングを 外すとなる話もならなくなる。簡単なようでいて、 「肩叩き」にもそれなりのコツがいる。その辺は ベテランの貫禄でそつなく第一歩を踏み出した平 は、待っていたかのように振り向いた青年の顔を 見て、一瞬声を詰まらせてしまった。  触れた肩から意外にしっかりした肉付きを想像 させた割には、まだ少年の表現が通用する顔立ち。 少し濡れているように見える瞳はまっすぐで鋭く、 閉じた口許には頑固そうな性分と、なにかしらの 知性を漂わせてもいる。素早く頭から爪先まで走 らせた視線が一気に奥まで突き通ったように感じ、 気押されそうな自分を何とか律した平は、ポス ターに目を移して「興味あんの?」と平然を装っ た。  少年は黙っている。戸惑っているのでも無視し ているのでもなく、答える必要がないからそうし ていると言わんばかりの横顔に、ふと、これと似 た感触を知っているような気がしたが、その時は 深く考えている暇はなかった。「実はおれ、こう いう者なんだけど」と名刺を差し出すと、さっと 動いた手がそれをひったくっていた。  「あんた、募集の人?」  指でつまんだ名刺を裏表にして眺めた後、少年 は言った。いきなリペースを崩され、「……ああ」 と歯切れ悪く応じたこちらに名刺をつき返すと、 少年は無表情な顔で続けた。  「ちょうどいいや。人れてくんないかな」  素っ気ない声に、こちらを見据えて動かない目。 からかわれているという当たり前の想像を受け付 けず、待っている少年の顔に、平は「え? いや、 でも……」としどろもどろになってしまった。  「ダメなのか?」  「い、いや。そんなことないさ。だけど君、わ かってんのか? おれば自衛官を募集してんだ ぞ」  こう棚からぼた餅だと、警戒ばかりが先に立つ。 奇妙に落ち着いた能面は、不良を気取った粗野と も、自己研鑚を求める青臭さとも無縁で、およそ 「肩叩き」の対象にすべき雰囲気ではないのだ。  「わかってるよ。だから入れてくれって頼んでん だ」と少年。こうと決めたら動かないといった声 に、「……そうか」と顎をさすった平は、拳ひと つ柢いところにある目から視線を外した。  「そりゃまあ、こっちは願ったりだからいいけど な。じゃ早速……」  二等陸士から防大生まで、募集要項をひとまと めにしたファイルを鞄から取り出し、話をするの に手近な喫茶店に入るか、浅草口のすぐ側にある 上野出張所を借りるかと考えた時だった。不意に 少年が歩き出して、平は「おい、どこ行くんだ」 と慌ててその背中を追った。  「歩きながら話そう」  振り向きざま言うと、少年は青になった横断歩 道を渡ってゆく。生意気な……の思いを胸にし まって、平もポケットに手を突っ込んだままの背 中に続いた。ファイルと鞄を胸に抱き、巨体をす ぼめていそいそついて行くさまはさながら鞄持ち だったが、いついなくなってしまうかもわからな い背中を追う身には、気にする余裕もなかった。  「歳は?」  「十九。今年で」  「どっから来たんだ?」  「北海道。釧路」  「ひとりで?」  横断歩道を渡りきっだところにある玩具店の前 で立ち止まり、膝に手をついてショーケースを覗 き込んだ少年は、その質問には答えなかった。そ のまま店内に入り、ぬいぐるみやロボットの玩具 ひとつひとつを熱心に眺めて同るさまは、上京し て間もないというのではない、永く閉じ込められ ていた者が数年ぶりに街の空気を吸っているかの ようで、平は再び奇妙な違和感が胸を突くのを感 じた。  「君、な。警察のご厄介になったりしたことなん か……」  だからというわけでもないのだが、平は腫れ物 に触る思いでその質問を繰り出していた。禁固以 上の刑を科せられた者は、少なくとも曹候補士に はなれない。精巧な宇宙人のマスクを指でつつい ていた少年は、「ないよ」と素つ気なく答えた。  「ついでに言えば、ちゃんと日本国籍も持つてる。 禁治産でもない」  ようやく平の顔を見ると、少年は微かな笑みを 浮かべた。初めて見せた少年らしい表情に、意味 もなくどぎまぎしてしまい、「そりゃ結構」の声 でどうにかごまかした。  少年は飽かずおもちゃの列を眺めている。なに  もかもが珍しいと言わんばかりの横顔は、誰も寄  せ付けずに自分だけの世界に耽る子供そのもので、  黙っていれば一日でもそうしていそうな空気に、  平は「……な、どっかに座って話しないか?」と  言うと、不意に硬くなった少年の顔と声が「ひと  つ問題がある」と返してきた。  「姉貴がさ……。反対してんだ」  「こっちに来てるのか?」  「近くのホテルにいる」いかにもバツの悪そうな 声で言うと、少年は顔を上げてこちらを見た。 「あんた、説得してくんないかな」  顔色を窺うような声音に、引っかかっていた違 和感もなりを潜めた。「仕事のうちだ」と笑って みせた平に、一瞬無表情に戻った少年の顔が、 ほっとしたように下を見る。やはり普通の少年。 自分が肩を叩かれた時と同じ年頃の、不安と希望 が刻々と入れ代わる毎日を過ごしている若者だと 思い、「そういや、まだ名前聞いてなかったな」 と一歩近づいた声色を出すと、少年は少しだけ顔 を上げて答えた。  「辻井……護」  ぼそりと言うと、早足に店を出て行く。「よろ しく」と独りごちてから、平はその背中に続いて いった。  刺激も情報もない故郷からの脱出を目指し、ひ とり東京の地に降り立った辻井護だったが、その 自由は長くは続かなかった。東京の私大に通う先 輩の下宿に転がり込んで三日、職探しから帰って みると、札幌でOLをしているはずの姉が腕を組 んで待ち構えていて、否も応もなく連れ戻されそ うになったのだと言う。  「姉貴が……」と口にするたびしかめられる顔が 教える通り、十歳離れた姉殿はかなり気性の激し い女性らしく、襟首をつかんで夜行列車に乗せら れそうになったところを、このまま帰って家業を 継ぐぐらいならいっそ舌を噛むと啖呵をきっだの が功を奏して、なんとかホテルに踏み止まること ができた。軟禁状態の一週間、取りつく島のない 姉殿の目を眩まし、密かに就職雑誌をめくり続け た護が、たどり着いたのが任期制自衛隊員という 逃げ道。うるさい姉貴や退屈な田舎の生活に較べ れば、厳しい訓練や窮屈な営舎暮らしの方がまだ マシだったし、なにより二年間我慢すればひとり 立ちできる資金も溜まるというのは魅力的だった  歩道橋を渡り、高架をくぐって浅草通りに出る 道すがら、護はそんな経緯を淡々と語った。いか にもらしいと思わせる一方で、なにかそぐわない、 絵に描いたような不自然さも感じさせる。ただ姉 のことを話す時の、半ば照れ、半ば腹を立ててい る表情は本物で、これからその猛女を説得しなけ ればならない気の重さを感じた平は、「姉さん、 美人か?」と紛らわす質問だけを口にした。  「見方による」と護。上野から隅田川までまっす ぐつき抜けている浅草通りは、上野警察署や区役 所、職安が寄り集まる向かい側に、大型仏具店ば かりがIキロ近くにわたって軒を並べる奇異な通 りだ。迷う様子もなく歩き続けた護の背中は、一 本外れた通りにあるホテルの看板の前でようやく 立ち止まった。  モ上アルに毛が生えた程度の、この近辺によく あるビジネスホテルで、入口の前には各々宅配便、 寝具リース会社、航空貨物の社名を記した三トン 積載のコンテナトラックが三台、二車線道路の片 側を塞いで縦列駐車していた。配達を終えたのか、 急ぐふうもなくタバコを吹かしているドライバー とバックミラーごしに目を合わせてから、平は さっさと先を行く護に続いてホテルに足を踏み入 れた。  無人のフロントを素通りして、一基しかないエ レベーターを使って五階へ。到着すると、ビール や歯ブラシなど出張サラリーマン御用達の道具を そろえた自動販売機コーナーがすぐ横手に見え、 そこにいたジャケット姿の男とまたもや目が合っ た。  その瞬間、消えかけていた違和感が甦り、得体 の知れないざわめきが這い上かってくるのを感じ たが、目を逸らしてカップ麺の自販機と向き合っ た男は、すぐにこちらを意識の外にしてしまった ようだった。気のせいかと思い、ネクタイを締め 直しつつ先を行く護に追いついた平は、猛女との 対面に備えて小さく深呼吸した。  両側に三つのドアが並ぶ廊下のつきあたり、非 常口と隣合う部屋をノックすると、護は施錠して いないドアを開いて先に平を通した。レースごし の陽光が差し込む八畳ほどの空間に、部屋の大部 分を占める二つのベッドと小型冷蔵庫。窓の前に は小振りな事務机も備え付けられており、背を向 けてそこに座っている女の背中が、簡素で味気な い部屋に一点の色を灯していた。  開いたドアに振り返ろうともせず、ノート型パ ソコンのキーボードを叩いている静かな背中は、 柔らかな香水の匂いと相まって、猛女の思い込み を裏切るものだったが、声をかけるのをためらっ だのはそれが理由ではなかった。違和感。やはり そうとしか表現しようのない異質な空気が、この 部屋には漂っている。パソコンのディスプレイに 目を据えたまま、「早かったのね」と言った女の 声が、それを確実なものにしていた。  返事のように、ドアの閉まる音が響く。頂点に 達した違和感が不安に変わり、振り向いた平は、 道中開きかけた胸襟を再び閉じた護の能面と、そ の隣に立つ背広の男を同時に捉えて息を飲んだ。  ドアの裏に潜んでいたのだろう。がっしり組み 上がった体躯に、どんな些細な動きも見逃さない 目をこちらに注いでいる様子は警官か兵士のそれ で、こうして並べて見てみれば、底堅い意志を忍 ばせた護の能面も同じ空気を漂わせていることに 気づく。ドアを塞いで立った彼らの無表情を呆然 と見つめた平は、「平曹長、ですね?」とかけら れた声に小さく肩を震わせた。  振り返ると、均整のとれた女の立ち姿が目前に あった。バランスよく配置された目鼻は標準以上 の美人だが、どこか挑戦的な目の色が、女盛りに 少女の勝ち気を添えている。ジーパンをそつなく 着こなしているさまは、不景気でもそれなりに世 の中を楽しんでいるOLの典型と見えなくもな かったが、肩の辺りに漂う張り詰めた空気は、護 と同じ違和感の発露と平には感じられた。  黙っていると「ごめんなさい、こんな形で呼び 出したりして」とにっこり笑い、ちょっと待ち合 わせに遅れたような女の気安さに、平は思わず頷 きそうになってしまった。  「あなたは人気者だから。桜や赤坂のウォッ チャーが取り巻いている中で会おうと思えば、こ うするしかなかったのよね」  まるで外国語たった。さっぱり意味がわからな い。 「いったいなんの話だ」  「トウエルブの話よ」椅子に座りつつ、女は続け た。「あなたは、トウエルブとの接触が確認され た唯一の非関係者。監視対象としての価値は甚大 だわ。あたしたち以外にも、そのお尻を追いかけ てる連中がたくさんいるってわけ」  「トウエルブ……冫・」  「東馬修一」聞いた瞬間、大きく脈を打った平の 心臓をよそに、女の顔にも奇妙な苦味が宿ったよ うだった。「今となっては何の意味もない名前だ けど」  布で拭き取ったように元の表情を取り戻し、小 型冷蔵庫から缶ビール二本を取り出した女は、 「座ったら?」とベッドを示す。突然異界に放り 込まれ、パニック寸前の頭で背後を振り返った平 の目に、護ともう一人の男の変わらない無表情だ けが映った。  とても帰らせてくれそうな雰囲気ではない。廊 下の男も、配達トラックのドライバーも彼らの仲 間と見て間違いなく、そう言えばエレベーター脇 ですれ違った男は、深夜喫茶で顔を合わせたサラ リーマンだと思いつく。東馬に一席ぶった時、一 瞬合わせた視線を慌てて新聞で隠したあいつ。 トウェルブとの接触が確認された……と一一一一にっだ女 の言葉が急に実感を伴い、想像外の暗闇に引きず り込まれる恐怖に足が萎えるのがわかったが、言 いなりになってこの一方的な女を調子づかせてた まるかと、奇妙な意地も立ち上かっていた。差し 出されたビールを無視して睨み返した平に、女は 「飲まないの?」と眉をひそめた。  「資料では、地連一のお酒好きってなってたけ ど」  「名前も名乗らないような奴の酌は受けたかない ね」  精一杯の虚勢と気づかれているはずだったが、 目を二、三度瞬かせた女は、「ごめんなさい」と ひどく柔らかな笑みを浮かべた。  「あたし、夏生由梨と申します。あらためてよろ しく」  立ち上がり、率直に頭を下げられれば、平も ビールを受け取らないわけにはいかなくなった。 結局相手のベースに乗せられている恨みを抱きつ つ、「夏生刑事さん、か?」と当たり前の推測を ぶつけてみると、由梨と名乗った女は小さく肩を すくめて見せた。  「ハズレ。とにかく座ったら? 上官の言うこと は聞くものよ」  身分保守を厳命されている者として、それはこ ちらの口を開かせるための最大限の譲歩だったの だろう。上官、即ち同業者。自衛隊でこんなスパ イもどきの活動をしている連中と言えば……。  「……調別か」  「も、その一部。暴力団の企業舎弟みたいなもん ね」  調別を表の顔とした、巨大な地下組織。一笑に 付そうにも顔の筋肉が満足に動かず、たまらずに 一杯飲ろうとしたが、そう言われるとこのビール にもなにか混ぜられているような気がしてきて、 平は口の手前まで持っていったところで思い留 まってしまった。  「お毒味いたしましようか?」と由梨。机の上の ノート型パソコン、パワーブックはモデムを介し て電話線に繋かっており、液晶ディスプレイの中 ではスクリーンセーバーのCG熱帯魚がのんびり 泳ぎ同っている。揶揄するような間延びした動き に、ビールを投げつけたい衝動をどうにか堪えて、 平はじろと由梨を睨み返してやった。  「悪いけどな、こう見えてもおれば忙しいんだ。 このあいだ逃がしちまった奴の穴埋めに、今日中 にひとりつかまえにや……」 「地連本部の方には、もう話を通してあります。 陸幕監部からの直命で、当分の間檜町で広報紙 の編集に当たらせるってね」  まったく動じない声で応じると、由梨は「座る 気になった?」と付け足す。陸幕監部に檜町(防 衛本庁)の名前まで出されれば、一自衛官にはも はや抗すべき言葉がない。観念してベッドの端に 座り、ビールを口にした平は、同じく缶を傾けた 由梨をあらためて見据えた。  こいつらが調別なら、東馬と出身は同じという ことになる。東馬は辞めたと言っていたが、そう ならなぜ追うのか。これだけの人数をそろえて来 て、ロッカーにあった忘れ物を届けようというの でもあるまい。脱走、あるいは機密を持ち逃げし て国外に身売り? どちらも東馬の印象からはほ ど遠い。だいたい「12」とは……冫。  缶を半分空けてから、「聞くだけ聞こうか」と 言って平はタバコをくわえた。机の上の灰皿を差 し出した由梨は、「そう大袈裟な話じゃないの」 と、のってきた客にたたみかける営業マンの声に なった。 「ただあたしたちとしばらく一緒にいてもらいた いだけ。待遇は保証します」  「なんのために」  「トウエルブを釣る餌になってもらうため……つ て言ったら、怒る?」  「呆れるね」  「どうして?」  「おれと東馬の間に、そんな義理はない。見込み 違いもいいとこだ」  そのはずだった。一方的に姿を消して、以来十 年以上も音信不通たった男。こいつは自分を人質 かなにかに使うつもりらしいが、東馬はI度おれ を見捨てているんだ。のってくるわけがない。  「どうかしらね。あたしは必ず助けに現れると思 うわ」皮相な笑みで応じると、由梨は視線を逸ら して付け加えた。「彼は善人だもの」  奇妙な苦味−東馬の名前を口にした時と同じ 苦味がその顔に差し込み、どこかで自分もそう信 じている平は、「いったいなにをやらかしたんだ、 あいつは」と質問をぶつけてみるつもりになった。  「前代未聞の脅迫劇の実行犯……い‘凡、戦争状態 にある二つの国家の、一方の元首って言った方が 正確かしら」  「脅迫? 誰を」  アメリカ合衆国。あるいは米国防総省」  こちらの反応を試す目が、冗談を言っていると は思えなかった。そこいらの企業ならまだしも、 国家、それもアメリカ国防総省を相手に脅迫、戦 争とは。平は、「そいつは豪気だ」と無理に頬を 歪めた。  「世界最強の軍隊相手に、ひとりで戦争おっ始め るなんざ……」  「そうバカにしたもんじやないわ。世界最強の軍 隊も、サイバースペースの守りはそれはどじやな いもの」  熱帯魚が回遊するパワーブックを軽く指で弾き、 由梨は「例えば……」と平の眉根に寄せた皺を 遮った。  「あたしとあなたが銀行強盗をやるとする。必要 なものはなに?」  「……脅しに使う武器。マスク。逃走用の車。そ れから……」  「情報収集。仲間の手配。アジトの確保。もちろ ん誰にも気づかれないようにしながらね。けっこ うな大仕事になるわ。でも今は違う。相応の知識 とこれが一台あれば、居ながらにして大金をせし めることができる」  ディスプレイの上を滑った指がキーを叩くと、 熱帯魚は消え、二、三行単位の文章が並ぶ掲示板 の画面が代わりに現れた。インターネットでどこ かのホームページにアクセスしていたらしい。高 い位置にある腰を机に預け、目を細めた平から画 面を隠すようにした由梨は、薄い化粧の顔に硬質 な笑みを刻んだ。  「預金オンラインシステムに入り込んで、自分の 口座に好きな金額を書き込めばそれで終わり。何 億でもいただき放題。もちろんそう簡単なこと じゃないわ。システムには何重ものプロテクトが 掛かってるし、バックアップもあれば紙に残した 記録も保管されてる。でも重要なことは、少なく とも混乱させたり、一時的に機能を麻痺させたり するのは可能だってこと。預金データが破壊され て、全国のATMが一斉に停正したらどういうこ とになるか。時間をかければシステムは復旧させ られるけど、顧客に与えた損害、失った信用はそ う簡単には取り戻せない。ウィルスをシステムに 潜り込ませて、銀行から金をゆすり取ろうとした 事件も現実に起こってるわ。本当、素敵な時代よ ね」  アメリカを脅迫、の夢物語が一分の現実味を帯 びた瞬間だった。平が反論するより先に、由梨の 挑戦的な目が先を続けた。  「他にも、電話交換や電力供給、株取引から航空 管制に至るまで、今はなんでもこれが動かしてる。 物理的な破壊は一点で済むけど、コンピューター システムが構築するサイバースペースへの攻撃は 面。ひとりで、何千もの部隊が攻撃をかけたのと 同等の損害を相手に与えることができる。それも 同時多発的に、任意の場所に対してね。それがイ ンフオメーションーウオー。トウエルブが在日米 軍に仕掛けた戦争よ」  ひと昔前は冷蔵庫並みの大きさを要した大型計 算機の処理能力を、本一冊分の容量で代行する目 前のパワーブックが体現する通り、加速度的な発 達を遂げたコンピュータは、その通信ネットワー クの拡充とともに人類社会に猛烈な新陳代謝を強 いている。アナログからデジタルへ、単一機器か らシステム機器へ。パソコンやデータ通信を血肉 とした高度情報化社会の利便性は、しかし、ひと りのハッカーやコンピューターウイルスによって、 全体が壊滅的な打撃を被りかねない脆弱性と表裏 一体のものでもある。銀行残高がある囗一斉にゼ ロになってしまったら。多国間取引の株売買記録 がすべて消滅してしまったら。空港の航空管制 レーダーがでたらめな表示を始めたら……。  「最初は誰も本気にしなかったわ。 エレクトロニクーパール(Iバー 電子的真珠湾攻撃って言ってね、ペンタゴンも数 年前からインフオメーションーウオーヘの対策を 進めていて、DDN(米防衛データーネットワー ク)には最新の監視プログラムとワクチンを完備 している。だから、そこに自在に侵入して破壊活 動を行うウィルスの存在なんて考えてもいなかっ た。でもブルーリッジの作戦指揮所にあるスク リーンが『12』の文字で埋め尽くされるのを見て、 彼らはそれが間違いだったことに気づいた」  ブルーリッジー米第七艦隊旗艦。その作戦指 揮所の機能停止は、世界最大最強と言われる第七 艦隊の機能停止と、それを中核とする在日米軍全 体の混乱をも意味する。絵空事は、今ははっきり 現実の恐怖をまとっていた。  「その後も、横田の航空管制システムがダウンし たり、上瀬谷の通信システムがバックアップごと 潰されたり。何億ドルもする防空システムや迎撃 ミサイルが、その瞬間ただのハリボテになって、 まる裸にされる恐怖を何度も味わったペンタゴン は、次第に余裕を失っていった。いろいろな自衛 策が講じられたらしいわ。基地間電子メールの使 用限定。DDNの部分的遮断。ウィルスの捕獲、 侵入経路の探知。でも通信の制限には自ずと限度 があるし、民間のインターネットにまで乗り入れ ている米軍システムを完全に防護するなんて、ど のみち不可能な話。侵人したシステムのデータも ろとも自滅してしまうウィルスは、捕まえること もできなければ、ワクチンを作ることもできない 始末。トウェルブの攻撃はエスカレートして、嘉 手納の第一八航空団の全戦闘機の電子機器が潰さ れるのを目の当りにするに至って、ペンタゴンは 白旗を上げた。ウィルスのプログラム引き渡しを 条件に、トウェルブの要求を呑んだ」  システムや装備の復旧に要する経費と時間を思 えば、一億ドルでも高くはあるまい。一人勝手に 金と決めつけ、「いくらだ?」と口にした平を無 視して、間を置いた由梨はゆっくり口を開いてい た。  「沖縄基地からの海兵隊撤退」  同様の新聞の見出しに続いて、沖縄で平和運動 を……と一一一一につだ東馬の顔が頭を駆け抜けた。意外 ではない、むしろどこかで予感していた自分にも 気づいて、平は「まさか……」と絞り出した。  「あたしもそう思いたいわ。でも新聞は読んだで しよ? トウエルブは勝ったのよ。あたしたちか ら盗み出したものを使ってね」  それを単なる疑念の声と受け取って、由梨は 言った。当たり前のOLの化粧が剥げ、薄闇の世 界を生きる者の素顔が覗いた声だった。  「トウエルブが使ったウイルス、『アポトーシス H』はうちで極秘裡に開発されたCVW(コン ピューターウイルス兵器)よ。ハッカーがこしらえ るような生易しい代物じゃない、インフオメー ションーウオーのために作られた、まさに兵器。 彼はそれを持ち出して逃げたの。ハードや文書に 残ったオリジナルーデータをすべて抹消した上で ね」  ネットワーク社会において、コンピューター ウイルスが兵器に転用されたとしても驚くには当 たらない。問題は、すべてを持ち逃げされてし まった現在、製作者である由梨たちにも『アポ トーシスH』のデータが残っていない点にあった。  使いようによっては大規模破壊兵器と同等の威 力を発揮するCVWを、東馬は独占運用できる立 場にある。由梨たちがその捜索に必死になるわけ だった。これは警察に協力を頼めるような話では ない。なんとしても自分たちで決着をつけなけれ ばならない、国際問題どころか日米安保崩壊にも 繋がりかねない、彼ら自身が蒔いてしまった災厄 の種というわけだ。  十年前の約束、在日米軍、海兵旅団。すべてが 在沖海兵隊の撤収要求に繋がっていると思う一方 で、善人と表現した由梨の言葉に集約される東馬 のイメージ、あの理沙という娘に注いでいた穏や かな父親の眼差しは、電子テロリストートウェル ブとイコールで繋がらない。まだまだ納得いかな い頭で、平は由梨を正面に見上げた。  「それで、藁にもすがる思いでたまたますれ違っ たおれを餌に使う、か。……しかし妙だな。東馬 には、表で立ってる男が張りついていた。あんた らは東馬の所在をしっかり押さえてるんだろ? なんでさっさととっ捕まえないんだ」  「事情があるのよ。あたしたちはもちろん、どこ の情報機関もトウェルブには手を出せないって事 情がね」  そう言って視線を逸らした顔に、初めて見せる バツの悪さが浮かんだように見えたが、確かめる 間はなかった。すぐに調別士官の顔を取り戻した 由梨は、前より硬くなった顔と声で続けた。  「あたしたちも、トウエルブの身柄そのものにつ いては興味を持ってないわ。海兵隊撤退が現実に なった今、彼に関わって赤坂に痛くもない腹を探 られるのはごめんですからね。ただ、どうしても 彼に返してもらわなければならないものがある  の」  赤坂は、米情報機関を示す彼らの隠語らしい。 となると桜はさしずめ警察、公安といったところ か。「その、アポなんとかか?」と聞き返した平 を、由梨は硬い顔のまま否定した。  「いいえ。プログラムが米軍に渡れば、アポトー シスHは兵器としての価値を失う。そんな無駄足 は踏まないわ」  「じやあなんだ」  「アポトーシスHと一緒に、もうひとつ盗まれた ものがあるのよ。それを取り返したいの。トウエ ルブが消えてしまう前に」  微かに空気が動くのが感じられた。それまでそ こにいる気配さえ消していた護が、背後で微かに 身じろぎしたらしい。一瞬そちらに目をやった由 梨に、平は「なんだ?」と重ねた。  「……ウルマよ。あたしたちはそう呼んでる」  束の間迷った後、短くそう口にした由梨は、も う十分でしようと言わんばかりの顔をこちらに向 けた。  確かに十分だった。あまりにも唐突だった在沖 海兵隊撤退の真実。青みがかったやさしい瞳と、 おずむずとコンビニのビニール袋を受け取った手 のひらの冷たい感触。それを取り囲むどす黒い靄。 そのウルマがなんであるにせよ、問題の根本には 目もくれず、自分たちの都合だけで人を騙し、協 力を強いる組織の傲慢−。畏怖に萎えた心を押 し退けて、胸の危険物質が沸騰を始めていた。そ れとなく首をめぐらせて、平は護ともうひとりの 男、それに由梨との間合を測るようにした。  「ま、事情はだいたいわかった。問題はおれが協 力するかどうかだな」  「選択の余地はないと思うけど。もうメールも 送っちやったし」  形のよい尻が机から離れ、パワーブックのディ スプレイに映る掲示板の文字が目に飛び込んでき た。「ハイサイーネット」のタイトルロゴは、東 馬が持っていた会報に記されていたのと同じもの だ。海兵隊撤退についてあちこちの端末から寄せ られた意見のいちばん下に、〈交換求む・ヘリパ イとウルマ。返答なき場合、三日後に廃棄処分〉 の文字が、それだけ意味不明の落書きとして書き 込まれている。「手配師、よりはいいでしよ?」 と言った由梨に、平は沸騰が最高潮に達するのを 感じた。  「あくまでも脅しよ。念のため」  このホームページを介して、地下に潜った東馬 にメッセージを送るのは初めてのことではないの だろう。廃棄の件をそう言い訳すると、システ ムークローズの操作を始めた由梨はこちらに背を 向けた。  チャンスだ。「そうかい。そりゃ安心したよ」 と応じてふらりと立ち上がった平は、伸びをする 振りで由梨につかみかかった。  首の骨の折り方ぐらいは覚えている。右腕を首 に巻きつけ、左手を後頭部にあてれば、拳銃を突 きつけるのと同等の威嚇になるはずだったが、緩 くウェーブした髪に隠れた細いうなじに、触れる ことはできなかった。踏み出した一歩が床に着く 刹那、衝撃が首筋に走り、世界がたわんだ。カー ペットの床がせり上がってきて、両手でそれを支 えようとした時には、平は気絶の暗闇に引き込ま れていた。  インフォメーションーウォー、すなわち情報戦 争が新しい脅威として広く知られるようになった のは、湾岸戦争以降のことだ。外科手術的攻撃 −ステルス戦闘機や終端誘導装置を持つミサイ ルによる精密ピンポイント攻撃−で、防空シス テムと指揮統制通信網を最初に破壊されたイラク 軍が、ろくに反撃する間もないまま多国籍軍に袋 叩きにされていった経緯はまだ記憶に新しい。       Cキューブトーーコマンドコントロール コミュ二ヶIション  それまでもC‐I(指揮・統制・ 通 信及び 情 報)は戦闘の中核とされ、互いのレーダー を欺瞞し合う電子戦や、情報の遮断や操作によっ て特定の結論や世論を相手に出させる心理戦は活 発に行われてきたが、あくまでも物理的攻撃の前 哨戦でしかなかった。しかしレーダーやセン サーの革命的な進歩によって、自軍と敵軍の配置 状況をリアルタイムで知ることが可能になり、そ の情報に基づいて立案された作戦を、後方から前 線に至るまでの全部隊に速やかに実施させる三軍 統合のデジタル自動式C‐Iシステムが導入され ている現在、湾岸戦争が証明した通り、その有無 が戦局を決定するといっても過言ではない。必然、 情報通信の根幹をなすコンピューターネットワー クに対する攻防が、新しい戦争手段として認識さ れるようになった。  物理的破壊、ウイルスの投入、ハッキング、電 子的妨害、偽情報の散布。敵軍のネットワークに 侵入してデータを入れ替えてしまえば、誤った命 令や情報を流すこともできるし、戦争シミュレー ターで何度やっても勝てない結果を出すこともで きる。軍だけでなく、民間のメディアや交通、通 信、金融システムに対しても同様の工作を行えば、 爆撃以上の混乱とダメージを相手国に与えること も不可能ではない。そこで情報ネットワーク攻撃 を戦略に取り入れ、自国と自軍のシステムに対し てはその防御を固めるインフォメーションー ウォーの形態が、米国防総省によって定義される ことになった。  実際、近年の米軍のデジタル化は凄まじい。湾            A  W  A  C  S  ジヨ 岸戦争でも活躍した早期空中警戒システム、空地 インドスター ズ  ふえん 統合監視システムの敷衍は陸海空三軍の枠を取り 払った効率的な作戦展開を実現し、人工衛星を 使った全地球測位システムも全軍に普及している。 今やカーナビにも使われているGPSは、軍用電 波を受信できるものなら十メートル以内の誤差で 自分の位置把握を可能にし、戦場にいる兵士が携 行すれば、地球の裏側からでも将棋の駒を動かす ように部隊展開を指示することができるものだ。 情報ネットワークの活用によって人事や補給の即 応力も向上し、兵器の整備や修理に至っては、 ネット内を流れる何万枚ものマニュアルをノート 型パソコンで随時呼び出して、作業を行うまでに なっている。これらの革新は 「軍事における革命」と呼ばれ、今後十年以内に は、全兵士に戦術インターネットを装備させる 全地球情報サービス計画も進められている。世界 全体がそうであるように、戦場も急速にデジタル 化されつつあるというわけだ。  が、一方で、急速に増大した通信量と情報量に 軍事衛星や専用回線などのインフラが追いつけず、 苦肉の策として民間への依存が強まっているとい う問題がある。湾岸戦争時にはレジャーボート用 のGPSを大量に買い上げたり、商業用リモート センシング衛星を軍事利用したり。民間に開放し たはずのインターネットも利用しており、補給情 報や機密性の薄い情報など、DDNが扱う通信量 全体の九十五パーセントに使用しているありさま だ。  年々縮小ムードを強める軍に対し、民間では音 速を越える速度で光ファイバーの敷設が進んでい る現実があるにしても、みすみす侵入・破壊の危 険を増やしてしまった事実は否めない。相互に結 ばれているコンピュータの台数が増え、通信回線 の節が増えるほど、外部からの侵入の機会も増加 する。作戦情報や開発途上兵器の設計図面など、 機密通信には専用の独立回線を用いていても、軍 のすべての装備や個人がなんらかの形で電波的に 結ばれている事実は、一点から全体への侵入の可 能性を示唆している。  現に国防総省がハッカーの使う機器を用いて自 分のネットに、侵入実験を行ったところ、九割近 くが成功して、察知できたものは五パーセント以 下、報告されたものはそのさらに五パーセントに 満たなかったという結果も出ている。同ネットに は外部からの侵入を可能にする「抜け穴」が一万 二千ある事実も判明しており、全米科学財団と共 同で「コンピュータ緊急対応チーム」を設立した 国防総省は、新種のウイルス・侵入方法の研究を 行わせるほか、各軍にインフオメーションー ウオー対策部隊を設置して、非常時の早期復旧や バックアップーシステムの拡充に取り組んでいる が、愉快犯からテロリストまで、年々増加する ハッカーだちとのイタチごっこに終始しているの が現状だった。  東馬はそこを突いた。神経系の複雑な高等生物 ほど、ダメージに弱い。全身にネットワークの神 経を張り巡らせ、一個の巨大な生命体となってい た米軍は、アポトーシスHという最強最悪のウイ ルスに感染すると、想像以上の脆さを露呈した。  侵入したコンピューターシステムの空き領域に 取りつき、発見されないようじっと息を潜めて、 特定の動作環境が整った時に活動する「トロイの 木馬」や、容量以上のデータを取りついたシステ ムに流し込み、動けなくさせてしまう「論理爆 弾」。コンピューターウイルスもいくつかの特性 と機能に分類されるが、アポトーシスHは複数の 特性を侵入するシステムに応じて使い分け、ネッ ト内で自己増殖を繰り返し、保安システムを迂回 するトラップードアを見つけて自律的に破壊活動 を展開−その点ではウィルスというよリワーム に近いIすると、「自殺遺伝子」の名前通り、 取りついたファイルやディスクのデータもろとも 消滅してしまう。DDN全体を一時に麻痺させる ことはできなくても、狙った基地の警備システム や通信設備を破壊するのは容易で、ホストに取り つくと最初に端末の住所録やパスワードのデータ を改竄するその特性のため、バックアップヘの切 り替えも不可能になるのだという。ある時はメイ ンフレーム名義の電子メール、ある時はGPS用 ナブスター衛星の軍用信号と、手を替え品を替え 送り込まれてくるアポトーシスHについて、唯一 判明しているのはプログラムの最後に「12」を ディスプレイ表示するよう組まれていることで、 これはトウェルブと名乗り始めた東馬が、後から 付け加えた機能だと由梨は説明した。  すべての研究資料が破棄され、開発者たちの斷 片的な記憶しか残っていない現在、由梨たちにも それ以上のことはわからないらしい。いずれ、現 れる度にすべてのディスプレイ画面を12の羅列で 埋め尽くす悪夢のウィルスによって、既に億ドル 単位の被害を被っている米軍は、そのオリジナ ループログラムと交換に沖縄海兵隊撤退を承服し たI。  「しかし、わからんな」  軽い鞭打ちになった首を摩りつつ、平は端末の CRT画面と一体化している由梨に言った。尻の 下では水冷ディーゼルエンジンの重い駆動音が続 いていて、寝ている間に放り込まれたこのコンテ ナが、どこかの道路をひた走っている事実を伝え ている。ホテルの前に縦列駐車していたトラック の一台だろう。「宅配一番」と記されていたコン テナの中身は、六畳半ほどの空間にさまざまな機 器がぎっしり詰め込まれた移動指揮所で、システ ムキッチンのように無駄なく配置された棚や机の 上に、GPSと連動した電子地図や状況図を映し 出す端末、地上無線機、電子交換装置、小型モニ ターなどが載せられている。ここからは見えない が、天井には埋め込み式の大型アンテナも装備さ れているに違いない。  いくつかは野戦訓練で活躍する指揮通信車の構 成備品だったが、ほとんど初めて目にするものば かりで、壁から微かに伝わってくる他の車の音が なければ、レーダーサイトの中枢と言われても納 得してしまう。キャスター付きの椅子でコンソー ルの前を行き来し、複数の端末を相手に何事か作 業している由梨は、「なにが?」とCRTに向け たままの顔で応じた。  「そのアポトーシスとやらが、どれほど強力な ウィルスだったとしてもだ。アメリカがそう簡単 に沖縄を手放すとは思えない。頭のよろしい調別 士官なら、マハンの海洋国家論ぐらい知ってんだ ろ?」  「十九世紀の米海軍研究家、マハンが提唱した現 代米軍の世界戦略を支える理論。アメリカは大陸 国家ではなく、太平洋と大西洋に挟まれた海洋国 家であり、自国の安全とリーダーシップを維持す るためには、七つの海に海軍力を中心とした軍事 カプレゼンスを構築し、外交・安全保障の戦略を 打ち立てていかなければならないとする考え…… だったかしら?」  意識の一部をこちらに振り向けて、由梨はすら りと答える。情報は、それを活かせる者が知って はじめて意味をなすのであって、地連の手配師が なにを知り、喋ったところで害にはならないと割 り切っているのだろう。目覚めても手足ひとつ縛 られていなかっだのは、隣で護が見張り役につい ているからだけではなく、逃げ出して警察に駆け 込んだとしても、相手にされないこちらの立場を 知っているからだ。  平は「そうだ」とむっつり声で応じた。  「沖縄基地は、極東有事のためだけに置かれてる わけじゃない。第七艦隊と在沖海兵隊の守備範囲 がハワイからアフリカ、つまり地球のまる半分に 及んでることが証明しているようにな、在日基地 は連中にとって欠かすことのできない戦略的根拠 地になってるんだ。中でも沖縄は中国や北朝鮮、 その先のインドや中東にまで睨みを利かせられる 『太平洋の要石』だ。第三海兵師団だけの部分撤 退とはいえ、そう簡単に承服するはずがない。 ……だいたい、テロリストとの取引にはいっさい 応じずってのが、連中の政策じゃなかったの か?」  「どうかしら。第三海兵師団不要説は知ってるで しよう? 対中・対北を主眼に据えた安保共同宣 言やガイドラインの見直しにしても、空洞化する 日米安保の存在意義を場当たり的に繕ったものに しかならなかったし。もう軍事協定による外交秩 序の維持って時代じゃなくなりつつあるのよ。二 大イデオロギーの対立に代わって、民族や宗教問 題が紛争の主役になっている現在、しょせんは一 国家であるアメリカが主導権をもって対処するに は自ずと限界がある。『世界の警察』役は、平和 執行部隊への役割転換を成功させたNATOに任 せることにして、アメリカは現行のリアループレ ゼンスからバーチャループレゼンスに切り替える べし、つてね」  実際に全世界に軍を駐留、展開させてきたリア ループレゼンスから、偵察衛星をはじめとする情 報収集・監視機能を駆使して異常を察知し、米本 上から空軍機を飛ばして対処するバーチャループ レゼンスヘの移行。現在の軍事情勢を根本から塗 り替える軍縮計画が、他ならぬアメリカ自身から 上がっているという話は、平も防衛庁の機関誌の 記事で知っていた。現行の駐留兵力を死守するた めに、日米両国が新ガイドライン制定に血道を上 げている現在にあっては、火星の植民地化と同レ ベルの遠い未来の話でしかないと結ばれていたが、 深刻な財政赤字を抱えるアメリカ政府が、「世界 の警察」の看板に自らの首を絞められている現実 を直視し始めたのは確かで、目に見える装備・兵 力削減の他にも、体質変化と呼ぶべき方向転換が あらゆるレベルで行われていることは事実だった。  それまでは決して譲らなかったNATOの指揮 権限を二重にして、欧州司令官の地位をフランス に譲ったり、金ばかりかかるPKOをやりたくな いがために、実施に積極的だったガリ国連事務総 長の再任を拒絶したり。公表当初は「変更の余地 なし」とされていたボトムアップーレビュー(冷 戦後の米軍戦略及びその実現に必要な軍備目標)さえ もが、米議会によって四年次見直しとされること が決定している。そんな状況下、トウエルブによ る脅迫が始まって、マハン理論の最後の砦たる沖 縄も半ば手放す運びとなったI。  「渡りに船……だったってことか?」  「それは言い過ぎだと思うけど。ま、相手が出し てもいいと思える程度の物を要求するのが、上手 い脅迫の基本だし。勝てる見込みがなければ、 トウエルブは最初から動かなかったでしようね」  あっけらかんと言うと、由梨は端末に向き直っ てしまった。あらゆる状況を想定し、切り抜けら れる確信を得てから行動に移る。いかにも東馬ら しいやり方に納得する一方、この女は東馬のなん なのか、だいたい東馬は調別でどんな役職につき、 なにをしていたのかという疑問が立ち上がったが、 開け広げなようで、どこかに頑なな資質も宿した 由梨の背中は、もうこちらを振り向こうとはしな かった。平は、「でも、やっぱりわかんねえな」 と聞こえよがしに独りごちてみる。  「少しはおとなしい人質でいようって気ない の?」  「なんで東馬はそんなバカな真似を始めたんだ? そのアポトーシスがありや、それこそなんだって できるはずじやないか。証券会社や銀行をゆすっ たっていいし、中東あたりのテロ国家に売りつけ たっていい。なんで一文の得にもならない米軍の 追い出しなんか……」  無論、心当たりがないわけではない。あの晩、 東馬はすでに仄めかしていた。「あの時の約束を 忘れたことはない」「今もそのために働いている」。 調別がどこまでその真意を理解しているのか、確 かめるために吐いた質問だったが、由梨は「本人 に聞いてみることね」と素っ気なかった。  「ウルマと引き換えに、熨斗つけてトウエルブに 送り届けてあげるから」  「それもわからない。なんで東馬本人を捕まえよ うとはしないんだ? あんたらや公安はともかく、 アメリカはなにを措いても奴を始末したいはずだ。 どうしてあいつは平然と子連れで歩き同っていら れるんだ」  「だから言ったでしょう? 事情があんのよ。一 枚カードきったらそれで終わりなんてバカな取引、 東馬がするはずないでしょう。ちゃんと自分の足 場を固めるカードを持ってんのよ、あいつは」  「ようやく東馬って言つたな」  ムッと膨れる頬の音が聞こえるようだった。 「これだからパイロット上がりって嫌いなのよ。 いっつも人のあげ足狙ってんだから」  それは戦闘機乗りの気質だと思ったが、もう話 すつもりはないらしい由梨は、今度こそ背中を向 けて無視の構えに大ってしまった。仕方なく、平 はさっきから隣で石になっている護に視線を移し た。素早く動いた目が言葉を封じるように見返し てきたが、「話通り、大変な姉さんだな」と気に せずに話しかけると、一瞬物言いたげな色が宿っ た目はすぐに伏せられてしまった。  怜悧な一方、どこか一本抜けたところもある姉 にくっついて、常に気苦労を強いられている弟。 そんな想像を抱かせる二人は、姉弟ではないにし ても、上官と部下というだけでは割り切れないな にかで結ばれているように見える。「うるさい姉 貴」は本音だろう、と平は思った。彼らの組織が どんな採用・教育体系を取っているのかは定かで はないが、まだ保護者役が必要な年頃の護を、由 梨が面倒見ているということなのかもしれない。 玩具屋で見せた子供のような目も演技とは思えず、 なにかを思い詰めた横顔にその時の印象を重ねた 平は、「辻井護ってのは本名か?」と言葉を繋い でみた。やはりと言うべきか、返事はなかった。  「まだ若いのに……。なにが楽しくてこんな仕事 してんだ?」  「あんたに関係ない」  「ウルマつてのはなんだ? 特殊(生物・化学) 兵器かなにかか?」  つい相手をしてしまった自分を戒めるように、 いっそう堅くなった顔が背けられる。懲りずに 「この車はどこに向かってんだ? それぐらい教 えろよ」と重ねた平を、拳を出しかねない護の目 がしろと睨みつけてきた。  「ウルマを発見、回収する。それがおれたちの任 務だ。あんたはじっとしてればそれでいい。余計 な口挟むな」  「人をさらっといてなにが任務だ」  「あんだだって似たようなことしてんだろう」  ぐっと詰まる、とはこのことだった。一緒にす るなと平が腰を浮かしかけた途端、ブレーキの軋 む音が響き、急停車したトラックの床が大きく傾 いた。  手をつく間もなく転がった体に、飲みさしの缶 コーヒーや書類の束が降りかかる。なにごとだ、 と文句が口をついて出るより前に、素早く無線機 とモニターのスイッチを入れた由梨が「状況は」 とヘッドセットに吹き込むのが聞こえた。  抑揚のない声は、彼女が自衛官としてそれなり 以上の訓練を受けてきたことの証明だった。引き 締まった空気に緊迫の匂いが立ちこめ、椅子の背 もたれをつかんで身を起こした平は、スイッチが 切り換わったように硬くなった由梨の横顔は見ず に、外の様子を映し出す六面のモニターを覗き込 んだ。  デジタル無線特有のノイズをまとった声が、 (進路を塞がれました)とスピーカーごしに応答 する。フロント部に取り付けられた車載カメラが その通りの光景をモニターに映し出し、平は反射 的に状況確認の目を凝らした。  暗視装置特有の緑がかった映像に、高速の流人 口らしい一車線道路と、それを完全に塞いで停 まっているダンプの横腹が浮かび上がっている。 左手を高い防音壁、右手を植樹帯に挟まれた流入 口は拡張工事の最中らしく、植樹の切れ目にユン ボなどの工事用機材置き場が設けられていて、ダ ンプはそこから飛び出して来たらしい。運転手の 姿はなかった。木更津まで五十キロの標示板の下、 防音壁の手前数センチの所で止まった無人の大型 ダンプは、一瞬の沈黙後、その荷台を持ち上げて 満載した大量の土砂をばら撒き始めていた。  降り注ぐ上が植樹帯から道路上にまで縊れ、行 く手に壁を作ってゆく。相手がなにをしようとし ているのか、考えるまでもなかった。舌打ちした 由梨は、「後退。急いで」の指示を無線に飛ばし ていた。  ギアの入れ替わる音とともに、ディーゼルが唸 り声を上げる。午後十時、由梨たちがどこに向か おうとしていたのかは見当もつかないが、標識か らしてここは幕張近辺、おそらく湾岸道路から東 関東自動車道に合流する流入口上と平は当たりを つけた。開発途上で放棄された臨海副都心の夜は ゴーストタウンも同然で、ここから高速に乗り入 れる車もほとんどない。待ち伏せには理想的な場 所だと思い、まさか東馬が……冫・と考えかけた 途端、再び急ブレーキの悲鳴が響いて、平は今度 は後ろのドアに頭を打ちつける羽目になった。  鉄のこすれる音と震動が神経を脅かす。後方か ら密かに追尾してきた別のダンプが、急ハンドル をきって車体を横に向け、同じように退路を塞い だ音だった。後方車載の暗視カメラが、十メート ルほど先で停正したダンプの影と、そこから飛び 出し、植樹の闇に消えた運転手の影を一瞬だけ捉 える。同時に、台貫所の警官が見れば目を剥くほ どてんこ盛りになった荷台がせり上がり始め、怒 濤の表現そのままにばら撒かれた上の奔流が、土 砂崩れよろしく植樹の低木をなぎ倒していった。  前方のダンプとの距離は二十メートル。すぐ後 方につけていた不運なRV車とバイク共々、数十 トンの土の山とダンプによって仕切られた密室 −殺戮地帯に閉じ込められた現実が突きつけら れて、平は心臓がきゅっとすぼまる音を聞いた。  東馬は、先手を打って来たのだ。  「カスミ○一より全車。索敵警戒しつつ、応戦準 備。送れ」  すべてのモニターの電源を入れ、無線機の チューナーを手早くセットしながら、由梨が口前 に下ろしたマイクに吹き込む。ザッと走ったノイ ズの音は、使用チャンネル以外の波帯に向けて発 信された一種の妨害電波だろう。敵の通信はもち ろん、騒ぎを目撃した他のドライバーが携帯電話 で通報するのも阻正して、警察の到着をできるだ け遅らせる。(○三、了解)(○四、了解)の応答 がすぐに返り、後方カメラに映るRV車の左右の ドアが同時に開くと、各々ライフルらしき物体を 携えた四人の男が蝶番部に伏せる姿がそれに続 いていた。  不運な巻き込まれ役は、実は護衛だったらしい。 バイクの男も個人装備用の暗視ゴーグルを被って 合流し、レンズの目玉を飛び出させた異様な影た ちが、遭遇戦の陣形を素早く整えてゆく。理屈で はわかっても、なにが起こっているのか実感する ことはできず、ただこめかみが熱くなるような緊 張に、平が溜まった生唾を飲み下そうとした時 だった。遠くでコップの割れるような音が連続し て、モニターの映像が一瞬暗くなった。  すぐに光量が自動補正されたカメラをスクロー ルさせ、道路灯が潰されたことを確認した由梨の 顔が歪んだ。消音装置付きの銃で狙撃したとわか り、平は顔が青ざめるのを自覚した。オレンジの 憂鬱な光を落としていたナトリウム灯はどれも 粉々に砕けており、暗視装置がなければまったく 視界の利かない闇が高架の密室を包む。「索敵急 げ」と指揮官の声を出した後、目で合図した由梨 に頷いた護は、機器の片隅に設けられたロッカー から取り出した布の瑰を、棒立ちの平にほれと差 し出していた。  紺色のベストは、ケブラー繊維で織り込まれた 防弾チョッキだった。とりあえず銃弾の貫通だけ は防いでくれるゴワとした布地を着込んだ平は、 伏せていろと言わんばかりに護に肩を押しつけら れて、その場に膝をついた。左胸だけをカバーす る鉄板の感触を指先に確かめ、ようやく足がすく むような恐怖が這い上がってくるのを感じた。  実戦−自衛隊に身を置きながら、多分一生経 験することはないだろうと信じていた事態が、い ま始まろうとしている。ジーパンから覗く由梨の 足が、編み上げブーツであることに今さら気づき、 邪魔にならない隅に移動しようとした刹那。(い ました。前方、ダンプの上)と無線の声が響き渡 り、平は意外な顔とモニターごしに対面すること となった。   アップビームにされたトラックのヘッドランプ が闇を裂き、ダンプの屋根に仁王立ちする人の形 を浮き立たせる。光量の調節された暗視装置の映 像に、その顔は間違いようがなかった。  東馬理沙。東馬にひっそりと付き従っていた娘、 人形のような顔に圧倒的な格闘能力を秘めた少女 が、そこにいた。右手にサイレンサーを装着した 狙撃用ライフル、左手に同じく自動拳銃を携えて。  「ウルマ……I・」  由梨が呻く。ぎょっとその顔を振り返った平の 背後で、息を飲み込む気配が発した。冷静さにひ と筋のひびの入っだ護の顔が、モニターを食い入 るように見つめる姿があった。  理沙は動こうとしない。上野のバーで倒れた少 年たちを見下ろしていた時と同じように、じっと 立ち尽くしてこちらを睥睨している。市街戦用の 紺の戦闘服に身を包み、ひどく重そうに見える銃 を両手に無防備に体を開いているさまは、悪趣味 な冗談としか思えなかったが、それこそ彼女が発 していた違和感の核心なのかもしれない。そう感 じ、護を見た時に感じた既知感、由梨が肩にまと わせた緊張の正体もそこに重ね合わせた平は、理 沙が彼らの同類−東馬がアポトーシスHと共に 持ち出した「兵器」である現実を、本能的に理解 した。それを待っていたかのように、ライフルを 捨てた理沙−ウルマは、ヘッドライトの光の輪 からふっと姿を消していた。  ガラスの割れる音が再び間近に響く。ヘッドラ イトが狙撃されたとわかったのは、ろくに手入れ されず、半分野生化した植樹の薮にウルマが飛び 込み、暗視装置では判別できなくなってしまって からだった。植物と同じ光反射率の、特殊繊維で 織られた戦闘服を着ているらしい。すかさず 「FLIRに切り換えて」と指示を飛ばした由梨 は、モニターのチャンネルを変えてカメラの角度 をスティックで調整した。  FLIR−前方監視赤外線装置は、光量を増 幅するだけの暗視装置とは異なり、物体から輻射 される熱線を感知するものだ。温度の高い部分ほ ど自く映るホワイトーホットーモードの映像に、 薮の中を中腰で移動するウルマの姿が捉えられる。 装備一式が詰め込まれた背嚢は優に十キロはある はずだが、敏捷な動きにその負担は見えず、ト ラックの真横に伏せると、獲物に襲いかかる狼の ようにじっと攻撃の機会を窺う。ダンプの運転手 や伏兵の姿も見当たらず、ウルマの孤立無援を確 かめた由梨は、「いい覚悟だわ」と乾いた唇を舐 めたようだった。  「カスミ○一より全車。戦闘準備。○三は保全。 周辺警戒に当たれ」  了解の応答に、「ここでやるつもりか」と護の 声が重なる。ライフルを手にしたバイクの男が後 方の土山に向かって走って行く姿をモニターに確 かめつつ、由梨は「相手はひとりよ」と応じた。  「絶好のチャンスを逃す手はないわ。責任はあた しが取ります」  この指揮通信車、特殊部隊さながらの要員を擁 して、どこかで網を張るのが本来の作戦だったの だろう。だが敵は先手を打ってきた。耐弾装甲は もちろん、空気の代わりに泡を充垠したパンクし ないタイヤ、蜂の巣構造のフレームを持つ爆発し ないエンジンを備えた有蓋車とはいえ、ニメート ルあまりの土砂に前後を塞がれてしまってはどう にもならない。市街地という負い目はあるものの、 打って出ると決めた由梨の判断はやむを得ないも のと平にも思えたが、護は「迂闊だ」と呟いてい た。  本部の指示を仰ごうとしない性急さを言ってい るのか、ウルマの能力を過小評価していることを 言っているのかはわからなかった。いずれ、頑な な資質を前面に出した由梨は聞く耳を持たず、モ ニターにはH&K製の軽機関銃と擲弾銃を手にし た男たちが、ウルマの伏せた植樹に近づいて行く 映画さながらの光景が映し出されていた。  トラックから三人、RV車から四人。手信号を やりとりしつつ、即応射撃態勢の傘形を作って前 進する彼らの暗視装置はモニターと連動しており、 手持ちのビデオカメラのように揺れる複数の視点 映像が、壁一枚向こうの緊張をダイレクトに伝え る。赤外線映像を交互に見ながら無線誘導してい た由梨の声を退け、隊長らしき男が停止を意味す る左の拳を上げたのは、包囲が完了する直前のこ とだった。  (○二より○ストラップ確認。クレイモアで 玄  薮の中、ピアノ線のような細い糸が微かに反射 の光を宿してきらめいているさまがモニターに映 る。対人用地雷のワイヤーだ。迂闊に足をひっか ければ、安全装置が外れて数百個の鉄球に体を粉 砕されることになる。小さく舌打ちした由梨は、 「○一了解。CN準備。○二は後衛へ」と指示を 吹き込んだ。  隊列が動き、前方に布陣する三名の傘形が一歩 前に出ると、全員がガス用防護マスクを着用する。 CN弾−催涙弾を使うつもりらしい。自衛隊に ガス弾はないはずだが、それを言えば彼らが持つ MP‐5A軽機関銃も装備目録には載っていない。 今さら驚くには当たらず、それよりも目前に迫っ た敵を前にじっと伏せているウルマの方が、平に はよほど驚異だった。  退く気配を見せないどころか、攻撃の機会を 窺っているように見える。いったいどういう訓練 を受けて来たんだ? と思い、ちらと護を振り返 ると、モニターに釘付けになっている護の手が、 自くなるほど握りしめられているのが平の目に 映った。まるでなにかに耐えているかのように。  (○二、準備よし)(○四、準備よし)の声が続 く。「用意。……mfて」と短く詰まった由梨の声 と同時に、前方の三人が手にする連発式榔弾銃か らCN弾が放たれた。  野外使用時の原則通り、連続して薮の中に撃ち 込まれたガス弾の自い尾が、闇の高架を靄の幕で 閉ざしてゆく。防音壁に阻まれて滞留するとはい え、強烈な刺激を目や気管に与える暴動鎮圧用ガ スの散布は、高架近くの住人たちに異臭騒ぎを引 き起こすことは間違いない。赤外線映像に映った ウルマの体がのけぞり、喉を押さえてその場を離 れようとして、果たせずに膝をつく。うつ伏せに 倒れて数秒後、(目標、沈黙)の声がスピーカー から流れて、平は緊張の皮の何枚かが剥がれ落ち るのを感じた。  「無力化を確認。油断しないで」と由梨。ワイ ヤーを避けつつ、前方の三人が慎重に薮の中に足 を踏み入れてゆく。その視界がモニターされ、倒 れたウルマの華奢な背中が、揺れる画面に映し出 された。  ブーツの足から、背嚢を背負った背中。薮に 突っ込んだ頭から覗く、一本に束ねた肩までの髪。 ひとりがその手から転がり落ちたベレツタ拳銃を 脇に蹴飛ばし、銃の筒先で肩を押す。反応はない。 そのまま爪先を腹の下に差し入れ、表に返して顔 を確認しようとしたが、仰向けになったウルマの、 絆創膏を貼った頬を見ることはできなかったし、 男たちもそれは同じだった。  ガスマスク。いつの間に被ったのか、考える暇 は平にはなかった。昆虫を思わせるグロテスクな 丸い目がモニターに映り、それが鉄板で塞がれて いると気づいた瞬間、仰向けにされた手のひらか ら転がり落ちた拳大の物体が、暴力的な閃光を発 した。  すべてのモニターがブラックアウトし、轟音が ビリビリとコンテナの壁を振動させる。音と言う より、衝撃。打ち鳴らされる巨大な鐘の中に閉じ 込められたようで、平は両耳を押さえてうずく まっていた。  「状況ぽつり」と叫んだ由梨の声が、バカになり かけた耳に響く。ノイズの中に、(状況、F 弾……’・)の応答が辛うじて聞き取れたが、後は 呻き声しか聞こえなかった。F弾− 音響閃光手榴弾は、その閃光によって敵の目を潰 すばかりでなく、中耳に影響する大音響で筋肉を 麻痺させ、三十秒間完全に相手の動きを封じてし まう。直近にいた三名はもちろん、防音壁が災い して屋内効果に似た影響を被った残りの四人も、 一挙に無力化されたことは想像するまでもなかっ た。  マスクの目を塞ぎ、耳もなにかしらの方法で塞 いでいたウルマが、即座に反撃を開始する。モニ ターの目を失ったコンテナに、くぐもっだ悲鳴だ けが届き、それはすぐに銃弾の爆ぜる音に変わっ ていった。乱射されるサブマシンガン、防音壁や コンテナの装甲に爆ぜる金属音が、工事現場の騒 音のように連続する。  「総員、発砲は禁止。同士討ちになる。撤退して 態勢を立て直して」  由梨が叫ぶ。だが銃撃は始めるより止めさせる 方が難しい。目も耳も潰されている部下たちに伝 える場合は、なおさらだった。応答はなく、「言 わんことじゃない」という護の声だけが反応して いた。  由梨の背中は動かない。見えない、聞こえない 中での乱戦は続き、辛うじて機能を回復した暗視 ゴーグルのひとつが、その様子をモニターごしに 平に伝えた。  俊敏の言葉そのまま、自分よりはるかに大柄な 男たちの間を駆け抜けるウルマは、そのために作 られた機械のようだった。耐性訓練を受けている のか、マスクなしで散り始めたCNガスの中を縦 横に動き回り、体当たりで敵のマスクと暗視装置 をはぎとると、ブーツの踵やナイフの柄を急所に めり込ませてゆく。背嚢どころか、自分の体重も 感じていないかのような跳躍力で一気に距離を詰 め、瞬く間にモニターされていた暗視ゴーグルも 蹴り上げて、返した足を別の目標の鳩尾に叩き込 む。路上に転がり、九十度横に傾いた映像に、倒 れた男たちの背中と、猿のように中腰で走るウル マの背中が幻のように映し出され、平は「なんて やつだ……」と無意識に呟いていた。  多少なりと戦闘の基本を学んだ身には、その能 力が訓練や才能のみによって醸成されたものでな いとわかる。彼女は自分の死を恐れていないのだ。 だから強い。彼我兵力の差も問題にならないほど、 圧倒的に強いI。  「ここに来るわ。後ろにさがって」  硬質な声に、ガチャリと金属の音が続いた。コ ンソールの引き出しから自動拳銃グロツク17を取 り出した由梨が、スライドを引いて初弾を装垠し た音だった。  ウルマはコンテナの扉に取りつき、施錠された 把手部になにかの取り付けを開始している。C4 かセムテックス、プラスチック爆弾の類いで扉を 吹き飛ばそうとしていることは考えるまでもな かったが、後部車載カメラの映像とはいえ、それ を扉一枚向こうで起こっている現実と実感するこ とはできず、平は棒立ちのまま由梨を見返した。  「狙いはあなたね」と無理に微笑を見せた由梨は、 パーツのほとんどが強化プラスチックで構成され ているクロックのトリガーセーフに指をかけて、 床に膝をついた。護は動こうとしない。  「言ったでしょう? 善人なのよ、東馬は」  そう言われて、これが東馬の手配した襲撃だと 初めてのように思い出した平は、あらためて映像 の中の少女を見た。頬を赤くしてコンビニ袋を受 け取った理沙の横顔が、間違いなくそこにいた。 バーで自分を助けさせたように、東馬が彼女にこ の襲撃を命じた。人質にされた自分を奪還するた めに。本当の娘ではないにしても、あんな少女に 危険な仕事を押しつけた……。  その思いに塞がれた平は、由梨がリモコンのス イッチを手にしたことに気づかなかった。護が 「よせ’・」と声を上げた途端、それが聞こえたか のように、ウルマがコンテナから飛び退いていた。  爆破作業を終えたのではない、なにかの気配を 感じ取ったウルマが映像から消えた刹那、許容範 囲外の光量に曝された暗視装置の映像が途絶え、 間近に落ちた雷の爆音がコンテナを揺らした。  照明が明滅し、固定されていない事務用品が床 にばらまかれる。大きくスライドしたコンテナに 足を取られ、再び倒れそうになった平を片手で支 えた由梨は、リモコンを目の前にぶら下げて唇を 歪めて見せた。  「二手三手先を読むのが、指揮官の仕事で しよ?」  こうした事態を想定して、二重になったコンテ ナの扉の外側の一枚には、爆薬がセットされてい たらしい。感心するつもりにはなれず、すぐに体 を離してその目を見返した平は、まっすぐ瞳を逸 らさない由梨が、「○一より○三。実包装垠、狙 撃準備」と無線に吹き込むのを聞いた。  後方で周辺警戒に同っていたバイクの男が(了 解)と返す間に、立ち上がった由梨は回復した後 方カメラの映像に物を見る目を向けた。直前に気 配を察して離脱したとはいえ、間近に爆発の破片 を浴びて無事でいられるはずがない。うつ伏せに なったウルマの背嚢はずたずたに千切れ、吹き飛 んだ扉の破片に混じって、その姿はぼろ切れのよ うに路上に転がっていた。  死んだ……冫・ 思うより先にその手が動き、ア スファルトを掻くようにして上身を起こしかけた ウルマは、すぐに力尽きてもういちど頭を路上に 打ちつけていた。それでも機関銃を杖代りになん とか立ち上がろうとする。何度もくり返し、その 度に果たせず倒れてしまう。上下する背中が血を 吐く苦しみを伝え、平はそれまで衝撃に中和され ていた胸の危険物質が騒ぎ出し、恐怖を押し退け た怒りが立ち上がってくるのを自覚した。  いったいなんにそこまで駆り立てられているん だ? 両の拳を握りしめた平の背後で、「無傷で の回収が目的のはずだ」と、狙撃命令に食ってか かる護の声が弾けた。 「またグレネードを持っていたら? 今度もフ ラッシュであるという保証はないわ」  「越権行為だ」  「現場責任者の対応範囲内よ。これ以上、部下を 危険な目に遭わせるわけにはいきません」  互いに一歩も退かない二人は、言葉で粉飾して いるものの、明らかに感情の話をしている。任務 とは違う、不器用な想いを宿した護の声に、平は まったく異なるなにかが見えたような気がしたが、 (準備よし)と応答してきた狙撃班の声を聞けば、 考える時間はなくなっていた。  ウルマは動けずにいる。それを見据えて、由梨 は「射撃用意」と口を動かした。唇と拳をぐっと 結んでいた護が、不意に扉のロックを外し、飛び 出しだのはその瞬間だった。  硝煙を含んだ夜気が、コンテナに吹き込んでく る。リンゴに似たガスの匂いは爆風で弱まってい たが、ぴりぴりと剌すような痛みに平は咄嗟に目 と口を庇っていた。  「戻りなさいっ’・ 辻井二曹」  同じく(ンカチで口許を押さえた由梨が叫ぶ。 振り返ることなく、柢くした身で破片と煙の沈殿 する路上を駆けた護は、その中のひとつになって 動かないウルマの小さな背中に覆い被さるように していた。  「撃つなっ’・ ウルマはもう動けない」  全身を声にして叫び、護はウルマの上身を抱き 起こして脈を取った。なにか話しかけたようだっ たが、植樹と防音壁を挟んで走る東関東自動車道 の車の音に遮られて、聞き取ることはできなかっ た。そこから発した熱、人間そのものの匂いが渦 巻くガスと硝煙を彼方に押しやったように感じ、 平は目の痛みも忘れて護の横顔を凝視した。  腕に抱いた命に向けた、他のなにも映っていな い目は、どんな場所、どんな環境であっても育ち 得る感情がある、と雄弁に物語っている。二人の 間になにがあったにせよ、護の行動の理由は明白 だった。  「バカな真似はやめなさい’・ すぐにそこを離れ て」  由梨が叫ぶ。だが今の護を従わせることはでき ないと平は確信した。あいつはすでに別の命令に 従い、行動しているのだ。状況に直面した兵士は、 常に従うべき命令を搜す。ウルマの危機を目前に した瞬間、護は自分で自分に命令したのだ。彼女 を守れ、と。  由梨はコンテナの戸口に立ち尽くしている。護 を引き戻すことも、二人もろとも狙撃を命じるこ ともできず、握ったクロックの銃口を下に向けて ただ立っている。肩に漂わせた緊張が、孤独と人 れ代わったように見え、平はわけもなくどきりと した。ぎりぎりまで張り詰めた由梨の横顔を見つ め、動揺する自分の胸の中身を確かめようとした 時、(○三より○『PCが来ます。早く命令を』 の声が無線に流れた。  風に乗って、微かなパトカーのサイレン音が聞 こえてくる。(命令を、早く)とくり返した無線 にぎゅっと拳を握り、土砂山の向こうでライフル の照準に二人を捉えている部下を見た由梨は、 ヘッドセットのマイクに左手を添えた。意地を張 り続けてきた背中に、決断を予感した平は、それ を押し退けて外に飛び出していた。  なにをしているのか、自分でもわからなかった。 ただ胸で燻る熱い瑰、そこから漏れ出る蒸気に押 し出されて、破片の散らばるアスファルトを駆け た。「待って’・ 戻りなさい」と怒鳴る由梨を無 視して走った平は、咄嗟にウルマを抱き上げよう とした護を、「下手に動かすなっ’・」と怒鳴りつ けていた。  勢いにのまれたのか、一歩退いた護をどかして ウルマの肩口に耳を寄せた平は、ひと通り習った 救急法の手順を頭に呼び出して、まずは呼吸を確 かめた。荒いが、規則的。とりあえず問題なし。 額から出血しているが、打ちどころは悪くない。 空気塞栓の兆候もなし。背嚢がクッションになっ て、思ったほど怪我は負わずに済んだようだ。凝 固しつつある手足の傷は止血点を押さえる必要も なく、傷口を被覆すれば動かせると踏んだ平は、 呆然と突っ立っている護に「なにか布切れ寄越 せ」と呼びかけた。幾度か目を瞬かせた護は、す ぐにブルゾンの下のシャツを切り裂いて即席の包 帯を作り始めた。  隣接する高架の向こうで、夜の闇を薄紅に染め ている幕張のビル群が唯一の光源だった。いつ撃 たれてもおかしくない針の筵で、怪我の手当てを するのは奇妙で虚しい行為だったが、傷口に触れ ても呻き声ひとつたてず、じっと息を詰めている ウルマの姿は、そんな理屈を超越していた。しな やかな筋肉に確かな命の温かみを秘めて、ウルマ ではない、理沙という一個の人間の存在がここに ある。そしてそれを取り囲む暗い闇に、平は腹で 燻る熱が凝縮して、ひとつの物質になるのを感じ た。  東馬の独善。由梨の肩に載せられた組織の不可 知な思惑。なにより、これまでずっとそうだった ように、ただ引きずられるしかない自分の無力。 困難に背を向け、流れに身を任せ続けてきた弱気 は、若い二つの命を前にあまりにも醜悪だった。 最低限の手当てを終えた理沙を護に託して、平は コンテナの戸口に立つ由梨を正面に見据えた。  由梨も見返す。互いに退かない視線にパトラン プの赤色が差し込み始めた時、それまで沈黙して いた前方のダンプが不意に重いアイドリングの咆 哮を上げた。  すかさずズボンの背に挟んだクロックを抜いた 護が、引き金を引くことはなかった。土砂山に尻 を突っ込んだ後、防音壁に運転席をこすりつける ようにして転同したダンプは、テールランプを点 灯させてこちらにバックしてきたのだ。巨体の突 進にコンテナが弾かれ、戸口に立っていた由梨が 路上に転がったようだったが、すぐに目前を塞い だダンプに遮られて、安否を確かめることはでき なくなっていた。  ブレーキが油圧のため息を吐き出し、空の荷台 からガスマスクを被った男が顔を覗かせる。混乱 の極みにある頭で、襲撃グループのひとりかと思 考をまとめかけた平を待たずに、サイレンサーか ら放たれた弾丸が荷台のパタンコに弾けた。「早 く乗れ’・」と、くぐもっだ怒鳴り声がガスマスク の奥で弾け、平は意味もなく左右を見同した。  後方の土砂山からの火線に、男もサイレンサー を装着した拳銃サイズのサブマシンガン、イング ラムで応射する。排出された九ミリーパラベリウ ムの薬莢が荷台に転がってカラカラ音を立て、弾 着の火花がアスファルトや折り曲げたナンバープ レートに爆ぜるのを見れば、迷っている暇はなく なった。先に理沙と護を乗せて、平も土のこびり ついたダンプのバンパーに足をかけた。ガスマス クの男が手をつかんで引き上げてくれると同時に、 ダンプは排気の雄叫びを上げて急発進していった。  そのまま飛ばし、ダンプはほどなく東関東自動 車道に合流した。吹きつける風の中、名乗ろうと も顔を見せようともしない男が最初にしたことは、 護の拳銃の没収だった。じたばたしても始まらな いという思いは、護も同じだったのだろう。素直 に渡されたクロックを懐に収め、即席包帯を巻い た理沙の寝顔に無事を確かめた男は、パトカーの サイレンが後方に消え、排気ガスが硝煙の匂いに 取って代わったところで、ようやくガスマスクを 外した。   自分に負けない大柄だが、肉付きのいいまる顔 は人のよさそうな中年男だった。だがその目は険 しく、「あんたが平だな?」と言った声も堂に 大っだものと聞こえた。  聞きたいことは山ほどある。頷き、風に負けな い声を出そうとした平は、護に銃口を突きつけた 男の厳しい横顔に封じられた。「おまえは降りろ」 と続いた声に、護も微かに身構えたようだった。  「どういうことだ? こいつは……」  「ダイスの犬を一緒に連れてゆくわけにはいかな  い。命だけは助けてやる。降りろ」  ダイス。初めて聞いた護や由梨たちの勤め先の 名前に、胸がザワと鳴った気がしたが、今はそれ と向き合っている暇はなかった。最後通牒を匂わ せた男の声に、平はつかみかかる覚悟の目を向け た。  「いま降りたら殺されちまう’・ こいつは彼女を 助けたんだぞ」  「それも連中のシナリオかもしれん」  「冗談じやない’・ こいつを降ろすんなら、おれ も降りる’・」  意外なものを見つけた護の目が向けられたが、 構っている余裕はなかった。「あんたを連れ出す ために、どれだけリスクを払ったと思ってるん だ’・」と怒鳴り返した男に、平は言葉を詰まらせ た。  「こいつらは人を騙すプロだ。簡単に信用するわ けには……」  そこまで言って、ぎよっとした男の顔が背後を 見た。振り返った平は、意識を取り戻し、なんと か上身を起こした理沙の片手にナイフが握られて いるのを見て、目と口を全開にした。  護も振り向く。が、二人の目が合うより先に、 振り下ろされたナイフの柄がその首筋を直撃して いた。意識を失った護が倒れるのと、力を使い果 たした理沙が再び倒れ込んだのは、ほとんど同時 だった。  慌てて抱き止めた平の肩ごしに「理沙……’・」 と呼びかけ、男は身を乗り出してその顔を覗き込 むようにした。今まで見せていた態度とは別人の、 外見相応のやさしい目だった。ぐったり動かない 理沙をそっと荷台に寝かせた平は、「無茶しおっ て……」と呟いた男の声が、風に紛れるのを聞い た。  気絶させてしまえば安全を確保できると考え、 最後の気力で護を眠らせた理沙の行為は、護と同 じ、不器用で温かい生の人の情の発露だった。兵 器にできることではなく、それを無視する権利も ないと思い、男に振り向こうとした平は、同じ論 法で振り下ろされた銃把に首を一撃されて、土の 残る荷台に顔を押しつけることになった。  何度か車を乗り換える気配、パンツの中まで探 られる気配を夢うつつの中で感じたが、意識が浮 上することはなかった。眠りに落ちたまま、平は トウェルブと名乗る男の元に運ばれていった。  エレベーターの扉が開くと、生乾きの塗料や、 コンクリートが入り混じった匂いが体を包む。額 に貼った絆創膏をいじるのをやめて、夏生由梨は 細い通路を大股で歩き出した。  一昨年、市ヶ谷駐屯地を揺るがした火災の出火 元となった地下施設は、重要度の順に修復が進め られており、方面部長クラスの執務室が集まる地 下五階は、ようやく始まった内装工事の最中にあ る。塗り替えて間もない天井には、対物感知セン サーの豆ランプを点した監視カメラが剥き出しに 吊り下げられ、壁のパネルは取り付けにあたる施 設科隊員の手配かっかず、床に積まれたままに なっていた。調別という表の顔同様、地表にちん まりと構えたぼろビルから、ダイスの素顔を体現 するこの地下設備に至るまで、三重に設けられた セキュリティーチェックですでに苛立ちを倍加さ せられている由梨は、行く手を塞いで座峭してい る年配の警衛に弾倉を抜いたクロックを差し出す と、取り次ぎの電話を待たずに執務室のドアが並 ぶ廊下に足を踏み入れていった。  慌てて追いすがってきた警衛を無視して、ドア 上に据えられた監視カメラを「失礼します。夏生、 参りました」と睨み上げる。電子錠の解かれる小 さな音が廊下に響き、渋々引き下がった警衛の恨 み目を背にドアを開けた由梨は、無人の秘書室を ずかずか通り抜けて、ダイス東部方面内事部長の 狸面を正面に見据えた。  「回収作戦中止の理由をお聞かせ下さい」  すぐに動いた上層部が公安委経由のカーテンを 引き、全面通行止めになった道路上で怪我人の救 護、除染装置を持ち込んでのCNガス除去と、戦 闘の痕跡抹消に奔走していた由梨たちに、突然の 作戦中止命令が伝えられたのは午前三時を過ぎた 頃のことだった。  逃亡ダンプの手配依頼も却下され、その目は寝 不足以外の理由で赤く充血している。爆発を細糸  一本で繋ぎ止めた声に、しかめ面を見せた井島一 友は、「怪我はいいのか?」とため息交じりに応 じた。  「仕事に支障はありません」と由梨。ダイス (Defense Agency Information Service(防衛庁情報局)) にスカウトされて九年、捻挫程度の怪我は数え上 げたらきりがない。反共の砦となることで敗戦の 負債を償却した日本が、平和国家の建て前を維持 する一方、東西冷戦の暗闘に処してゆく方策とし て、自衛隊という巨大な傘の下に創設した非公開 情報機関。かつては治安情報局と呼ばれていた組 織は、冷戦終結とともに解体され、市ヶ谷には陸 幕調査部の形骸のみが残されたが、むしろ苛烈さ を増した冷戦後の国際情勢、いくつかの後ろめた い事件の経過が、息を吹き返した自民政権の力を して、彼らをより深い地下に再結晶させていた。  それから一年と少し。事実上活動を再開した情 報局にあって、井島は旧治安時代から国内事案を 所掌する内事部の要職を務め、古株幹部として永 田町からも一目置かれている男だ。笠を被せて一 升徳利を持たせれば、飲み屋の置物になる風貌は なにも考えていないように見えるが、内外の敵と 渡り合って定年間際の現在まで生き残ってきたし ぶとさは、それなりの用心深さと計算高さがあっ てのことには違いない。「そんなことより……」 と身を乗り出した由梨を制して、井島はへの字に した口を開いた。  「あれだけの騒ぎを起こした直後だ。当分はほと ぼりを冷ます」  負けずに充血した井島の目は、寝入りばなに緊 急呼び出しを食らった証明だった。由梨は「公安 委づてに、桜田門には轡をはめたと聞いておりま すが」と退かない声で続けた。  「だが現着したPCのビデオに映った君の顔は消 せん。テープは早晩桜の手に渡って、我々の関与 をサッチョウも九段も知ることになる」  硬い顔と声で言う一方、冷めたコーヒーを口に 含んだ井島は、仁王立ちの由梨に椅子を勧めた。  「局が今どういう状況にあるか、君も知らんわけ なかろう。今は息を潜めているのが利口なやり方 だ」  警察出身者で固められた公安調査庁や内閣調査 室とは根を異にし、「国益・治安を侵害する事態」 に対して、「国家公安委員会及び情報活動監視委 員会が認める範囲内」で「超法規的対処活動」が 許されているダイスは、当然多くの反感に哂され ている。行政改革で実現が有力視されている日本 版NSC(国家安全保障会議)直属の情報機関とし て、長年の夢だった公的機関化へ向けて動き出し ている現在、取られそうな足をあげたくないとい う思いは井島ひとりのものではなかった。  明日の保証のないこの世界のこと、行革の風向 き次第では防衛庁もどう転ぶかわかったものでは ない。旧来の内閣安全保障室に代わり、総合的な 安全対策と、省庁の枠組みを超えた危機対処を謳 い文句にしているNSCとの直結が、唯一最良の 生き残りの道であることは、冷や飯食いを続けて きたダイスの職員なら誰もが自覚している。が、 それで事なかれ主義が正当化されるのを見過すつ もりはない由梨は、「……トウェルブは、ダミー には目もくれませんでした」と沈黙を破った。  「上野のホテルから出発したトラックは三台。他 の二台はダミーを乗せてそれぞれ別の場所に向 かった。本命を乗せたあたしたちのトラックも、 桜や赤坂の尾行を半日がかりで撒いて、木更津の セーフハウスに向かったんです。にもかかわらず、 トウェルブはこちらの行動を読んでウルマに襲わ せた」勧められた椅子を無視して、由梨は執務机 にのせた両の拳に力を込めた。「情報が漏れてる んです、この市ヶ谷から。それでも放っておけと おっしやるんですか?」  「トウエルブは外事部の所掌事案だ。我々に挟め る口はない」  「ですがウルマはうちの管轄です。取り戻す権利 があります」  「そうだ。だから君の立てた回収作戦を許可した。 誰にも知られず、速やかに達成するという条件で な」  その結果はどうだ? と言っている井島の目に、 由梨は言葉が喉に貼りつくのを自覚した。   家族も友人もなく、計画に加わったメンバー以 外とはいっさい繋がりを絶っていたトウエルブが、 初めて監視要員の目前で接触した人物平貫太郎。 彼を人質に使い、ウルマを回収する作戦は確かに 由梨が発案したものだった。  個人的感情に裏打ちされた、急ぎすぎの作戦と 非難されても返す言葉はない。ただ自分には窺い 知れないレベルでノータッチの触れが徹底してい るトウエルブを、同じ舞台に引き出せるかもしれ ないと思いついた瞬間から、由梨は他のなにも目 に入らなくなっていたのだ。その結果が……。  「では、辻井二曹の件はどうなります? うちの 人間を二人も……」  「作戦要員の人選は君がしたはずだぞ」  子供の言い訳を封じる声で井島は言った。今度 こそ声をなくした由梨は、目の裏に焼きついた辻 井護の背中を胸中に追った。  ウルマのもとに走っていった護もまた、他のな にも目に入らなくなっていたのだろう。口も態度 も悪いが、誰よりも肌に馴染む補佐役の作戦参加 は、ごく当たり前のことだった。わかっていれば 最初に外していたのに、そんな想いを秘めていた ことなどおくびにも出さなかった。自分にだけは 心を開いていると信じていたのに、あの時、護の 目に自分は映っていなかった。自分を裏切り、捨 てて行く背中。その中のひとつになっていた。父 や、あの男と同じように……。  ふと、まったく別のものが胸に差し込んだ。平 の目。護とウルマの前に立ち塞がり、自分を見据 えた目は、少しの痛みと温かみを持って記憶の中 に刻まれていた。すべてに見放された闇の中で、 唯一自分に向けられた瞳は、ウルマの回収など最 初から二の次にしていた独善を責め、同時に、な ぜと尋ねていた。  無視するのでも、見捨てるのでもなく、必死に 解ろうと努めてくれている眼差し。どうし て……冫・ そんな想いが固まりかけた時、「夏生 くん」と呼びかけた井島の穏やかな声が、由梨を 沈思から掬い上げた。  「少し休んだらどうだ。最後に眠ったのはいつ だ? 四十八時間前か?」  トウエルブにこだわる事情を知り、その上で作 戦を任せてくれた男の目は、いつものように娘の 強情に手を焼く父親の温かみを宿していた。上意 下達が絶対の組織で、有無を言わせぬ中間管理職 の顔と、保護者の顔を使い分けようとして、結局 は生来の人のよさを覗かせてしまう目。張った肩 肘を和ませる視線だったが、それに身を委ねてし まっては負けだとわかっていた。負けた者に価値 はない。負けたら捨てられる。意識して背筋を伸 ばした由梨は、「ウルマと辻井を回収したら、寝 ます」と言って井島を退けた。  「……『BB文書』という爆弾を持っているトウ エルブには、あたしたちはもちろん、赤坂も手が 出せない。それはわかっています」  湿った空気をはね除け、飛び出してきた特級の 機密コードに、井島の狸面が一瞬に凍りつく。そ の反応を確かめてから、由梨はゆっくりと続けた。  「《キメラ》という暗号の下に、日米両政府の間 に沖縄に関する一定の合意が存在していること も」  「……君のSAR(機密接触資格)で言及すべき 事柄じゃない」  「問題は、この一週間のトウェルブの動きです。 在沖海兵隊撤退の合意を取り付けた後も、彼は在 日米軍基地へのテロをやめていない。それどころ か以前より悪質化しています。横須賀のオイルー ターミナル襲撃、由良通信所の発電所破壊。いず れも、それまでガードに使っていたウルマに直接 攻撃を仕掛けさせて、兵員に実害まで出している。 まるでなにかのデモンストレーションのように」  押し黙った井島は、腕を組んでパソコン画面に 目を逃がしている。一昨年の火事騒ぎを契機に バージョンーアップされたUNIXシステムの端 末は、各方面本部間に専用回線のネットワークを 構築しているものだ。逸らした視界に、由梨は強 引に割り込むようにした。  「電子的攻撃による恫喝から、物理的攻撃を織り 混ぜた実力行使へ。このトウェルブの方針転換が 意味するものはなんです? 沖縄の部分的解放が 達成された今、テロの続行自体、意味があること とは思えません。それとも他になにか目的がある んですか?」  「君が知る必要はない」  「それに合わせて、ノータッチを決め込んでいた 各情報機関の態度も変わった。それまではウォッ チも規制されていたのに、今は尾行がぞろぞろ。 その場でスパイの先進国サミットが開けるぐらい、 各国の監視要員がうろついてます。昨夜の騒ぎも 嗅ぎつけて、あたしたちより先にトウェルブのア ジトを捜し当ててるかもしれない」  椅子を回転させて視線から逃れた井島に、由梨 はとどめのひと言を吐き出した。  「今度の回収作戦にしても、一週間前なら絶対に 認可されなかったはずです。いったいどういうこ となんです? 『BB』の効力が突然消滅したと でもいうんですか?」  「『BB文書』の効力は絶対だ。なにを犠牲にし てでも流出は阻正しなければならん」  思わずというふうに口にした井島は、「……そ う、聞いている」と続けて口を閉じた。「米軍プ レゼンスを犠牲にしてでも守らなければならない 機密……ですか?」と言った皮肉には答えがなく、 由梨は椅子の背もたれを衝立にした井島からI歩 引き下がった。  ディスク、書類、マイクロフィルム。どんな形 であれ、自分の命の保証書である『BB文書』を、 枕許に置いておくほどトウェルブが間抜けである はずはなく、自分の身になにかがあれば直ちに文 書が公開される手筈が整えられていると見て間違 いない。国内のマスコミに流した程度なら打つ手 もあるが、ピョンヤンやバグダッド、あるいは世 界を殷にかける情報ブローカーの手に渡れば、強 力な外交カードを手にした彼らに、どんな譲歩を 迫られるかわかったものではない。余計なリスク を背負い込むなら、もともと不要説が出ていた在 沖第三海兵師団の撤退要求を呑んだ方が安いと、 政府お得意の算盤勘定が働いた結果がこの事件だ とする分析結果には、しかし、沖縄の放棄が米軍 世界戦略の崩壊を促し、テロに屈しないアメリカ の敗北を意味している現実がすっぽり抜け落ちて いた。  平も言っていたように、どんなカードで身を 守っていようと、アポトーシスHという国体を脅 かす病原菌の宿主をアメリカが放っておくはずが ない。なにかがある。《キメラ》というコードに 象徴される、底深い汚濁が……。  「今回の事態の責任は、すべて自分にあります」  しばらくの沈黙の後、二尉の声を出した由梨は 井島の太いうなじを見据えた。微かに動いた猪首 がそれに反応する。  「回収作戦の最中に、部下の反逆行為を許してし まった失態。機密接触資格のない非関係者を事件 に巻き込み、あげく奪われてしまった失態。他の 情報機関がトウェルブのアジトを急襲した場合、 ウルマと結託した辻井二曹が、結果的に反攻に出 る可能性は十分にあります。ダイスの存亡にかか る事態であることを鑑みて、これより自分は独自 の判断で行動いたします」  早い話が下克上、反逆宣言だった。「……[几談 はよせ]と振り向いた井島に、由梨はI気にたた みかけた。  「では中止命令を解除して、トウエルブを追わせ て下さい。それができないのであれば、《キメラ》 についてお教え下さい」  開きかけた井島の口を、まっすぐ向けた目で封 じる。「二つにひとつです。ここであたしを反逆 罪に問うか、先に進ませるか」と付け足した由梨 は、後は黙って直立不動の姿勢をとっだ。  しばらくは微動だにせず、腕を組んで柢く唸っ ていた井島は、やがて机の引き出しを開けた。拳 銃を突きつけて内務監査室に連行? ありえない とわかっていても、涌き出す不穏な想像に胃の鉛 が重量を増したが、立ち上がった井島が手にして いたのは、タオルと洗面用具だった。  気をつけのまま固まった由梨の脇を通り過ぎた 井島は、「叩き起こされて、顔を洗う間もなかっ たんでな」とぼそり呟いた。  「ちょっとシャワー室に行ってくる。二、三十分 かかると思うが、ここで待て。なにもいじるな よ」  IDをログオンしたままのパソコンをちらりと 目で示すと、「歳を取ると、記憶が悪くなってか なわん」と引き出しに視線を移す。察した由梨の 明るみの差した顔は見ずに、井島は部屋を出て いった。  ドアが閉まる音を待たずに、パソコンの前に座 る。いちばん上の引き出しを開けると、案の定、 今週のパスワードを記した付箋紙が底に貼りつけ てあった。井島の端末から、井島のパスワードを 使ってアクセスすれば、同等の機密接触資格を得 たも同然になる。狸寝入りで規則遵守の建て前と 感情をすり合わせる、いかにも井島らしい計らい に、「タヌキめ」と呟いた由梨は、早速ネット ワークの回線を開いて機密情報へのアクセスを開 始した。  狙いは《キメラ》。沖縄の将来に関する日米の 合意書と噂される、トウェルブを取り巻く黒い霧 の根源だった。  規則的な機械音が、ゆっくり意識を浮上させて ゆく。なんの音だろう? カシャン、カシャンと 連続する音は、板橋の実家でよく聞いたプレス機 械の音に似ている。朝から夕方まで、離れの仕事 場から途切れなく続いていた音は、その前で汗み ずくになっていた父の寡黙な作業着の背中ととも に、子供の頃の時間に盤石のリズムを刻んでいた。  土にまで染み込んだ油の匂いは、やがて味噌汁 や魚を焼く匂いと渾然一体になり、鳴り止んだ機 械の音に代わってナイター中継の密やかな音が漂 い始める。そこだけほんのりとやさしさに包まれ た家の記憶が明瞭に甦り、同時になにかが違う、 奇妙なずれを意識した時、眠りの薄皮が破けた。 目を開けた平は、木目の天井からぶら下がる蛍光 灯を見、ガラス戸の向こうで鳴り続けるプレス機 械の音、それに混じる微かな炊事の音を聞いた。  ぼんやりした頭を枕から離す気になれず、目だ けを動かして周囲の状況を探る。なんの変哲もな い茶の間に、壁のくすみに合わせてあつらえたよ うな年代物の箪笥が置かれ、その隣に仏壇と鏡台、 干支の置物を戴いたテレビがある。お膳は八畳間 の片隅に片付けられており、代わりに敷かれた布 団の上に平は寝かされているのだった。  茶の間を仕切るガラス戸の向こうでは機械の音 が続いていて、すリガラスごしにプレス機の太い 鉄の棒を上下させている大柄な影が見える。年代 を感じさせる柱にはダックスフントを模した布製 の葉書入れが掛かっており、見覚えのあるデフォ ルメされた犬の顔に目を細めると、上野の深夜喫 茶で見た、理沙のダウンパーカーの胸に刺繍され ていた絵柄が重なった。  それが引き金になった。爆発的に記憶が甦り、 平は布団をはね除ける勢いで上身を起こしていた。  開けっぱなしの襖の向こう、台所で料理をして いたらしい女の背中がびくりと振り向く。護、由 梨、ウルマ、トウェルブ、ダンプの男。切れ切れ の言葉と映像が頭の中に渦巻き、なにがどうなっ たのか考えようとしたが、ひどい頭痛に頭を抱え る方が先だった。その間に「あんた、起きたわ よ’・」と慌ててガラス戸の向こうに呼びかけた女 は、エプロンで手を拭いつつ、「ご気分、悪くな いですか?」と上がり框をまたいで近づいて来た。  四十代半ば、化粧気のないエプロン姿は生活感 の塊だったが、どこか清楚な顔立ちは「きれいな 人」の表現がぴたり当てはまる。一日に二度も気 絶させられて気分がいいはずもなかったが、いか にも心配げなその顔に、平は反射的に頷いてし まった。  壁時計は七時を同ろうとしている。台所の換気 窓から見える外は真っ暗で、昨夜からまる一日に 近い時間が経過したことを教えていた。追手を撒 いてここにたどり着くまで、睡眠薬を投与されて いたのだろう。口中の苦味とうなじのあたりに滞 留する鈍痛は、病院のベッドに縛りつけられてい た頃に何度も経験した不快感と同じものだ。  布団から出ようとして、あつらえたようにぴっ たりの浴衣を着ていることに気づいた平に、「う ちの人とサイズが一緒で……」と微笑んだ女は、 色の変わった畳の上で膝をそろえた。  「私、坂部優子と申します。坂部の妻です」  手をつき、頭を垂れた女に、平も思わず「どう も……」と頭を下げた。顔を上げた優子は、「こ んなことに巻き込んでしまって、ごめんなさい」 と言ってから、ガラス戸の向こうの気配を窺い、 思いきっだように平の耳元に口を近づけた。  「でもありがとう。理沙っちゃんを助けてくれ て」  囁いた声には、ふんわりしたやさしさが漂って いた。すぐに身を離し、立ち上がろうとした優子 に理沙や護の無事を聞こうとした平は、ガラリと 勢いよく開いた戸からこの家の主人が姿を現すの を見て、口を閉じた。  ダンプの男だった。首筋に銃把を打ち込んでく れた大柄は、ランニングに作業衣を羽織り、太い 首に手拭いを引っかけている。頑丈そうな顎には 最初に見た時にはなかった痣が浮き出ており、作 業着を(ンガーに吊す時に見せた背中は、ひきつ れたような古い火傷跡に覆われていた。  うなじから背中全体にかかる、かなり重度の火 傷跡だった。思わず見つめた平に「気づいたか」 と言うと、男はにこりともしない顔をこちらに向 けた。答えようとして、開いたガラス戸の向こう にある油の染みついたプレス機械と、スチール製 の棚に数台のパソコンとディスプレイが載せられ ているのを見てしまった平は、ざわめく胸を感じ て再び口を閉じた。  蝶番を山積みにしたプラスチックケース、機械 油の一斗缶。実家と同じ、個人経営の町工場その ものの体をなしている薄暗い仕事場で、カラー表 示の画面を光らせているパソコンたちのそぐわな さは、時代に取り残されたようなこの家と、電子 テロリストートウェルブを繋げるなにかの象徴 だった。目を凝らした平に気づいたのか、すぐに 戸を閉めた男は、背後で立ち尽くしている優子に 「着替え、持ってきてやれ」と言いつつ、台所の 方に歩いていってしまった。  きちんと畳まれた服は、襲撃騒ぎですりきれた 膝もちやんと修繕してあった。鏡台の脇に置かれ たミシン、買いそろえられた編み物デザインの雑 誌を見、理沙の胸の刺繍や葉書入れを縫う優子の 姿が思い浮かんだが、「飯は後だ。ちょっと出て くる」と台所の方から聞こえてきた声に、それも かき消された。  「あんた……」と不安げに応じた優子に、水道の 蛇口を閉めた男が、「なにもしない。東馬のとこ に連れてくだけだ」と苦笑を浮かべるのが見えた。  「理沙の命の恩人を、手荒に扱ったりはせんよ」  その言葉をどこまで信じていいのかはわからな かったが、逃亡をまったく警戒していない様子を 見れば、状況を知りたい欲求が先に立った。ノー タイのシャツに上着を羽織った平は、男について 外に出た。  一歩玄関から出ると、虫の声だけが響く闇が全 身を包んだ。簡単な家庭菜園と離れの倉庫が設け られた庭の外は、街灯もまばらな田舎道で、ビ ニール被覆された畑が延々と広がる向こうに、緩 やかな起伏を見せる山林がひときわ濃い闇を夜空 の下に凝縮させている。電車の音が風にのって微 かに聞こえ、いったいここはどこなんだと先を歩 く男に呼びかけようとした平は、作業場の入口に 貼られたプレートに「茨城県公害防止条例認可工 場」の文字を読んで、思いとどまっだ。  所在地の欄には稲敷郡茎崎町と記されている。 土浦の一歩手前、駅周辺がベッドタウンとして整 備されている他は、まだまだ開発の手が入ってい ない地方の一角ということらしい。距離的にはさ ほど離れていない東京よりはるかに星の多い空を 見上げ、満ちた月に目を細めた平の脇で、不意に 立ち上がったエンジンの息吹きが静寂を破った。  庭の中で転同した旧型ミゼットのドアが開き、 運転席に収まった男が顎をしやくってみせる。平 は、無言のまま助手席に乗り込んだ。  田畑に挟まれた道路は、人も車も通る気配がな かった。聞きたいことが多すぎて、なにから切り 出していいのかわからない平をよそに、坂部亨と 名乗った男は一方的に自己紹介を始めた。東馬に 協力している過激派くずれ、というのがその内容 だった。  「とは言え、組織は関係ない。おれば東馬の個人 的なファンでね。昔のコネを頼って活動を援助し たり、自宅をアジトに提供してるってだけの間柄 だ」  運転手を含むダンプ二台を手配し、自らサブマ シンガンを握って襲撃を為し遂げた坂部の行動は、 口で言うほど簡単なことではないはずだったが、 武骨な横顔はそれ以上東馬との関係に触れようと はせず、代わりに、優子の父親が起こした工場を 継ぎ、近くの家具メーカーに部品を納入して生計 を立てている経緯を語り出した。日常と非日常が 入り混じり、消化不良を起こした頭で、平は「隠 れ家にしちや、ずいぶんあけっぴろげだな」と 言ってやった。  「あんた、本当になにも知らんらしいな。たとえ 新宿のど真ん中にいても、東馬には誰も手が出せ んのさ。……(ワ同のことは、理沙をダシにして東 馬に近づこうとしたダイスの連中の先走りだ)  東馬本人には手出しできない事情があると語り、 本部の応援も待たず、手持ちの戦力で事態を収め ようとしていた由梨の顔が浮かんだ。そのバリ アーで自らはもちろん、協力者への干渉も防いで いる東馬に対して、埒外にあった平を餌に、連れ 出された理沙−ウルマの回収を図った由梨の目 論見は、しかしそのウルマの捨て身の襲撃によっ て打ち砕かれた……というところか。傷だらけの 姿を思い出し、平は「あの娘は無事なのか?」と 訊いてみた。  「あんたより先に気づいて、もう元気に動き同っ てるよ」  「あの、辻井とかって小僧は?」  「無事だ。起きるなり暴れたんで、もうひと眠り してもらったがね」  (ンドルから左手を離すと、坂部は顎の痣を摩 るようにした。  「おっかねえ小僧だよ。チャカもヤッパも取り上 げたのに、新聞紙ぎゆうぎゆうに折って、石みて えに硬くしたやつで殴りかかってきやかってな。 理沙がいなけりや殺られてるとこだった」  「彼女が止めたのか」  「ああ。一緒に逃げようって言ってたみてえだけ どな。あの野郎、見事にフラれちまって。なにや ら痛々しかったな。今頃はふて腐れて泣いてん じゃねえかな」  走り出して十分弱。坂部はブナの木が立ち並ぶ 林の前で車を止めた。「まっすぐ歩いてけば会え る」と言ったきり運転席を倒し、居眠りの態勢に 入っだ坂部を置いて、平は暗い口を開ける遊歩道 に足を踏み入れていった。  背の高い木々が覆い被さる林の中は、足もとも 満足に見えない闇だった。葉ずれの音や鳥の声に いちいちびくつきつつ、微かな月の明りを頼りに 歩いてゆくと、前方にぼんやりとした明るみが差 してきて、草いきれに水垢の饐えた匂いが混ざる ようになった。切れた木立ちの向こうに、月光を 宿した黒い水面が現れたのは、それからすぐのこ とだった。  対岸を走る電車の窓の光、東の夜空を薄紅に染 めた土浦の街の光が仄かに照らすだけの闇に、牛 久沼と呼ばれる泥深い水溜まりがひっそりと沈ん でいた。広大な水面は沼というより湖のそれで、 水草の密生するほとりに立った平は、パンクしそ うな頭を癒してくれる静謐にしばらくは身を預け た。  二本目の電車が走り去った頃、草を踏む微かな 音が背後にした。ゆっくり振り向いた平は、そこ に東馬の姿を認めて無意識に拳を握りしめた。  黒いジャケットは闇に紛れていたが、「やあ」 と微笑んだ顔の表情ははっきりと見える。突然、 制御しきれない感情が迸って、平はやはり無意識 のうちにその微笑に近づいていった。  青みがかった目をこちらに向けて、東馬は動か なかった。平はなにも言わず、その顔を殴りつけ た。  予期していたはずなのに、わずかに受け流した だけで避けなかった東馬は、よろけた体を木につ いた腕で支えた。口許の血を拭い、「……変わら ないな」と言った顔に、平はもう一歩を踏み出し ていた。  「あんたは変わった。おれの知ってる東馬は、 娘っ子を楯にしてこそこそ逃げ隠れするような男 じゃなかった……!・」  誰がなんと言おうと、平にとってあの襲撃が意 味するところはそれしかなかった。「あれは娘 じゃない。兵器だ。わたしがそのように作った」 と応じた東馬の声が火種に息を吹き込み、平は再 度、痛む拳を振り上げた。  瞬間、冷たい戦慄が首筋に走った。構えた拳が 凍りつき、目だけ動かして見えない背後を探ろう とすると、細い声が鼓膜を震わせた。  「トウエルブに手を出したら、あなたを殺す、 わ」  抑揚のない、トーク人形の声。音も気配も立て ず、背後に回り込んで頸動脈にぴたりとナイフを 当てた理沙が、少しのきっかけでためらいなく刃 先を動かす空気を感じ取った平は、ゆっくり拳を 下ろしていった。  東馬が微かに首を振ると、冷たい刃の感触は突 然に消え、理沙の気配も消えた。薮がざわめき、 平がぎょっとそちらを見た時には、息ひとつ切ら していない細身が手品のように東馬の横に立って いた。  上野で見た時と同じ、全身で東馬の楯を務めよ うとする少女の姿たった。癒えかけた頬の傷、手 足の包帯の自さは変わらず痛々しかったが、透明 な瞳の奥に宿る燐の光は安易な同情を受け付けず、 冷汗を拭うことも忘れた平の顔を見つめていた。 東馬が肩に手を置くと、すっと離れた小柄がほと りの方に歩いていってしまい、平はかける声もな くそれを見送った。  月光をちりばめた水面に、理沙の姿勢のよい後 ろ姿が浮かび上がる。「君と再会したのは、まっ たくの事故だった」と告白した東馬の声が、それ に重なっていた。  「巻き込んでしまってすまないと思っている」  向けられた目と声に、想像外の世界を戦い抜い てきた重みと疲れがあった。平は、「本当……な のか?」と東馬に向き直った。  「本当に米軍を脅して、沖縄海兵隊を……」  東馬は微笑を答えにした。平は「なぜだ?」と 続けた。  「君にはわかっているはずだ」  青い瞳が、水面の月の光を宿して揺れていた。 あの時に見たのと同じ目−それを触媒に、「あ の瞬間」の衝撃と痛みが平の中に再構成されて いった。  セットリングーウィズパワー。自らのブレード が作り出す気流の中に入り込み、ほぼ垂直に機 体が降下してしまう現象をそう呼ぶ。海兵旅団が 参加した最初で最後の野戦訓練の終盤、東馬たち を降下させた直後にヘリを襲った衝撃の正体が、 それだった。推力、揚力、抗力、重量。機体に働 く四つの力のバランスを取ることで飛行するヘリ は、その均衡を失えば引力の虜となる。それまで 機体を浮かせていた力が重量にのしかかり、抗力 を失ったヘリは糸が切れたように降下を始めた。  原因は明白だった。ダウンウオツシュの速度と、 ローターを通過する上向き気流の速度が偶然一致 し、五十メートルの柢空にあるという平の意識が、 瞬間の対処を誤らせたのだ。日下部が「戻 せっ’・」と叫んだ時には遅かった。揚力を下げて 前進速度をつけなければならないところを、降下 を止めようと咄嗟にコレクティブを上げてしまっ た結果、巨大な力学の手にはたき落とされたU H‐Iはススキの原に激突していった。緊急事態 を告げる間もない、一瞬の出来事だった。  吸収しきれない衝撃にスキッドが潰れ、テール が真っ二つに折れる。地面を削ったメインロー ターのブレードが、吹き上がった土と一緒にちぎ れ飛んでゆくのを見だのが平の最後の記憶だった。 突き上げる衝撃が(Iネスを引きちぎり、計器盤 が目前に迫る。自い火花が弾け、きな臭い匂いに 包まれると、なにもわからなくなっていった。  途切れた意識を引き戻したのは、電気系統の配 線が焼ける独特の剌激臭たった。パチパチと爆ぜ るショートの火花がキャビンを明滅させ、足もと に染みた黒い液体を浮かび上がらせる。血か、燃 料か。計器盤にめり込んだヘルメットの頭を上げ ようとして、首が折れそうな激痛に声にならない 悲鳴をあげた平は、目だけを動かして副操縦席の 状態を確かめた。  同じく計器盤にめり込んだ日下部の顔が、血に まみれ、もう瞬かない目をこちらに向けていた。 手を伸ばそうとしても、感覚の失せた腕はぴくり とも動かず、こみ上げる恐怖を堪えて垂れ下がっ た左手を見ると、自い骨が突き出した腕は奇妙な 方向にねじ曲がっていた。それ以上自分の体の状 態を確かめる勇気はなく、平は現実を拒絶するよ うに両方の目を閉じた。  遠くに人の声が聞こえた。亶]つ自に曇ったキャ ノピーの向こう、遠巻きにした降下部隊の面々が なにかを叫んでいる声だった。爆発を恐れて近づ けないのだろう。殺気立った無線のやりとりに、 東馬の声が混ざるのを聞いてから、平は感覚を閉 じ、考えるのをやめた。そのまま、爆発がすべて に片を付けてくれるのを待った。同乗者を殺し、 半身不随になった自分だけが生き残る。それなら この場で死んだ方がましだと、その時はなんの迷 いもなく思ったのだった。  切れかけた意識にさまざまな映像の断片が現れ ては消え、最後に母の顔が像を結んだ。台所に立 つ、母のエプロン姿。逆光の中に映ったそれは、 振り向くことなくなにかを刻んでいた。きっと大 根だろう。母が作る大根の味噌汁は、世界中のど んな料理よりも美味かった。トントンと規則的に 刻まれる音が深い眠りに誘い、その温かさに身を 委ねかけた時、なにかを打ちつける音がそれに重 なった。  「危険です’・ 戻って下さい’・」という声が遠く に弾け、すぐ耳元でガラスの割れる音が続いた。 さっと吹き込んだ新鮮な空気が焼けた配線の匂い を散らし、充満した死の気配も蹴散らしてゆく。 丸く砕けたキャノピーの破片が肩に降りかかり、 それに混じってなにかが落ちる音を聞いた平は、 重い瞼を開けた。  床に散らばったガラスの雫の中に、サングラス があった。目を上げ、コンソールにかけたブーツ の爪先を見た平は、その上の人の顔を見て小さく 息を飲んだ。  いつ爆発するかわからない機体に取りつき、小 銃のストックでキャノピーを叩き割って救いの手 を差し伸べてくれた東馬は、初めて見せた青い瞳 をこちらに注いでいた。放っておいてくれ、と声 にすることができず、平は上げかけた目を伏せた。  もう優秀なヘリパイはいない。罪の意識を道連 れに、寝たきりの余生を過ごす身を必要とする者 もいない。危険をおしてまで助ける価値のある人 間じゃないんだ、おれば。そう思い、目を閉じた。 感覚のなくなったはずの肩に、温もりが差し込ん だのはその瞬間だった。  そこから、冷え切った体全体にじわりと温かみ が拡がってゆくのが感じられた。思わず目を開け ると、肩に手を置き、機体に体を乗り入れた東馬 の顔がすぐ目前にあった。  「死ぬな。生きろ」  真摯な光を宿して、青い瞳はそう言っていた。 上官に命令された時のように、従わなければいけ ないという思いが湧き起こって、平は無意識に右 手の指先に力を込めていた。  神経をつきぬける太い痛みの針と一緒に、指が 動く。ゆっくり腕を上げようとすると、たちまち 額に汗の粒が浮き、計器盤まで上がったところで 力が尽きたが、東馬の手がそれをつかんでくれた。  死から引き上げる手。生き続ける価値と重さを 伝える手だった。そのまま東馬に引き上げられ、 平はこの世に再び生まれ出るように、潰れたヘリ の操縦席から脱け出したのだった。  その後、どのように事故が処理されたのかは定 かでない。骨折七、挫傷十二、打撲八に加え、脊 椎近くの裂傷。全身をギブスで固定され、防衛医 大病院の集中治療室に横たえられた身にできるの は、非公式部隊の事故は非公式に処理されたらし い、という憶測だけだった。臨床聴取に当たった 事故調査官は不幸な事故と言い、いちど顔を見せ た的場二佐も、これで旅団創設計画に支障が出る のではという心配を笑って否定してくれたが、そ れで日下部の死に顔を忘れられるものではなかっ た。養生だけを考えていろという言葉に頷きなが らも、一向に治療室から抜け出せない体に生涯寝 たきりの不安も去来し始め、ひとり鬱々とした時 を送っていた頃。新しいサングラスを片手に、東 馬がその姿を見せたのだった。  陸幕調査部別室付きの一等陸尉。初めて所属を 明らかにした東馬に、「スパイのS」と言った時 の顔が思い出されたが、彼はそれを自嘲混じりの 皮肉でしかないと苦笑した。マル秘のベールに包 まれた国防情報機関・調別の実態は、アメリカ 国家安全保障局の系列子会社に過ぎないのだとい う。飛び交う電波の傍受こそできるものの、肝心 の暗号解析はNSAの蓄積に頼るしかなく、その 記録もすべてアメリカの掌中に事実上握られてい る。そしてそれは、自衛隊の現実を端的に象徴し たものでもあると東馬は語った。  「規模からいえば、自衛隊は中規模国家レベルの 兵力でしかない。有事に際して、その名にふさわ しい活動ができるかどうかも疑問だ。だがその一 方で、最新の戦闘機とレーダーを備えた空自は世 界第三位の要撃密度を誇り、海自もアメリカに次 ぐ対潜水艦戦装備を保有している。陸自も、国内 での陣地構築能力が希薄な割には、水際での上陸 阻止戦でかなりの実力を見せる。この歪さが教え る現実は、ひとつ。自衛隊は米軍の槍ぶすまに過 ぎんということだ。アメリカは自身の世界戦略を 補完するものとして自衛隊を利用し、日本もそれ を念頭に置いて防衛力の整備を進めてきた。安保 条約に基づく協力と言えば聞こえはいいが、よう するに自衛隊は日本という国ではなく、在日基地 を守るためにのみ存在しているというわけだ。一 個の国防組織として自己完結していない。戦後の 日本は、ただの一度も固有の防衛政策を持ったた めしがないんだよ」  ベッドに縛りつけられた体に、東馬の言葉は清 んだ水のように染み渡っていった。その後もたび たび見舞いに訪れると、手付かずの荒れ野に鍬を 入れるように、東馬は様々な知識の種を平に与え ていった。  「自由や主権は、最初からそこにあるものじゃな い。歴史が教える通り、戦って勝ち取るのが本来 の自由民主だ。戦後の日本は、そのプロセスを経 ずにここまで来てしまった。その価値を知らずに、 戦勝国から投げ与えられた自由をただ享受してき た。高価な宝石を持だされた子供と同じだ。大事 にしまうことも知らなければ、守るために戦うこ とも知らない。それどころか、自分の涎と排泄物 にそれをまみれさせて涼しい顔だ。責任を取るこ とも、過ちを認めることもできないのっぺらぼう の子供。それが右だ左だと騒いだところで、なに も始まらんよ」  「なにも安保を破棄して、独立した国軍を作れと いうんじやない。ただ自立した一個の大人として、 最低限の体裁を整えればそれでいい。人に頼るの ではなく、自分で情報を取り、自分で考え、自分 で決める。過去に迷惑をかけた相手には率直に詫 び、卑屈になることなく、対等の人格として他者 とつきあう。それだけのことだ。だがアメリカや ソビエト、企業の利権代表者しかいない国会には それができない。共有するモラルも伝統もなく、 経済を唯一の価値観にしている国民には、自分の 代表を選出する能力もないというわけだ」  「それが続いている間はいい。だが右上がりの時 代はいずれ終わる。その時、空っぽの自分に気づ くのでは遅すぎるんだ。たとえ苛酷な道であって も、努力は続けてゆかなければならない。自己完 結した防衛力の保持、それを自他ともに認めさせ てゆく作業が、自我確立への最初の一歩になる。 海兵旅団構想は的場のものだが、思いは同じだと 信じている。だから無理を言って訓練に参加させ てもらった。最初の一歩の、その端緒となる場所 をこの目で確かめたくてね」  油断すれば死の願望に取り憑かれそうになる入 院生活で、それらの言葉は砂漠に生をもたらす雨 だった。その頃には勧められた何幵かの専門書も 読みこなし、拡がった視野で物事を計れるように なっていた平に、東馬は自身の属する組織の内実 も語って聞かせた。  「調別という張りぼての下で、日本もそれなりに 国益を維持するための手足を動かしてはいる。だ が国や人の形を見失った中で行われる諜報活動に は、飼い犬の惨めさしかない。一部の利権や面子 のために、内密に問題処理を行う便利屋だ。わた しもその一員だが、改革を指向し続ける者が内部 にいることで、少しでもましな方向に進めると信 じている。ひとりひとりが思い続ければ、今を変 えることも決して不可能じゃない。希望はあるん だ。だから君もあきらめるな。その場にある者と して、君にしかできない仕事がある。最後までそ の責任を果たせ。それが世界を変えることだって ある」  正誤の問題ではなかった。喪失感に埋められて いた体は、あるべき世界の理想を受け取ったこと で、もういちど生き続ける理由を取り戻したのか もしれなかった。「約束だ」と結ばれた声が内か ら力を湧き出させ、それからは医務官を驚嘆させ る勢いの回復を見せ始めた平は、拷問のようなリ (ビリの苦痛も乗り切り、半年後には歩行器から 離れ、自分の足で立てるまでになったのだった。  そして一年。晴れて退院した平を待っていたの は、しかし、海兵旅団廃設の報せだった。理由も 説明されず、直属士官に会うこともできず、隠す ようにあちこちの部署に飛ばされた同僚だちと話 すこともできずに、海兵旅団はその存在そのもの が根こそぎ消滅していた。噂では退官したらしい 的場とも、二度と会うことはなかった。  狐につままれた思いだった。予算オーバー。部 隊の私兵化傾向と、的場の思想・政界コネクショ ンにクーデターを危惧した統幕議会の思惑。自衛 隊の自己完結を快く思わなかった米の横槍。漏れ 聞こえる噂に廃設の理由を聞いても、その思いは 変わらなかった。  ぽっかり空いた胸の空白を埋めようとして、幾 度か東馬に連絡を取ってもみたが、出張すると言 い残して退院の三月ほど前から姿を見せなくなっ た男は、それきり平の前に現れることはなかった。 連絡先を尋ねても「部外者にはお教えできませ ん」の一点張りで、海兵旅団同様、東馬という人 間も幻のようにその存在を消してしまっていた。  日下部の墓に参り、遺族に頭を下げた後は、な にごともなかったかのような日常が戻ってきた。 平は宇都宮に戻り、陸曹航空操縦課程の残りの訓 練をこなすことになった。同期はとっくに卒業し た後で、平は年下の訓練生たちに混じって再び教 習用ヘリの前に立った。  飛行前の外部点検を終え、機内へ。教官と並ん で操縦席に座り、コントロール系統の作動チェッ クを指差点呼で行うところまではよかった。メカ ニックにエンジンスタートを合図し、イグニッ ションースイッチをスタート位置にした瞬間、ぽ たりと一滴の汗が飛行服の膝にしたたり落ちた。  顔に触れると、まるでシャワーを浴びた直後の ようにびっしより濡れていた。暑くもなければ、 汗をかいている自覚もないのに、滝のように流れ る水滴は目もあけていられないほどの量だった。 大丈夫かと尋ねる教官に頷き、ターボシャフトの 力強い律動が伝わるコレクテイブーレバーを握っ た時、平は初めて飛べなくなっている自分に気づ かされた。  感覚が伝わってこない。慣れ親しんだOH‐6 Dのレバーが、初めて握ったもののようによそよ そしい。墜落の瞬間と同様、ただの鉄の瑰となっ たヘリは、もう平に語りかけてくることはなかっ た。教官の声も耳に入らず、しばらくはじっと手 先の感覚に神経を凝らしたが、ぼたぼたと流れ落 ちる汗ば一向に止まらず、動悸も不規則になった 体は、満足に呼吸することもできないありさま だっだ。異変を感じた教官がエンジンを止め、肩 を揺すったようだったが、応える余裕はなかった。 引きちぎるように(Iネスを外すと、平は棒立ち のメカニックをつき飛ばして隊舎に逃げ帰って いった。  ヘルメットを脱ぎ、ようやく息を吐き出すこと ができた。びしょびしょの顔を何度も拭い、不協 和音をため込んだ胸を抱いて自室に戻ろうとした 平は、階段の踊り場に立つ人の姿に気づいて足を 止めた。  鏡だった。磨かれた全身鏡に、ヘルメットを片 手にした汗みどろの飛行服が映り、暗い洞窟のよ うな目がこちらを見つめていた。  旧軍からの脱却を目指し、常日頃から病的に他 人の目を気にする体質を反映したかのように、自 衛隊の施設にはやたらと鏡が多い。玄関、廊下、 階段の踊り場。それまでまったく気にならなかっ た光景が、たまらなくくだらない、作為の象徴の ように見え、そこに映る自分の顔もどうしようも なく醜いものに見えた。胸の圧迫を吐き出す大声 とともに、平はヘルメットを叩きつけて鏡を割っ ていた。  粉々に散った破片が、それまで積み上げてきた キャリアになった。音を聞いて駆けつけた教官た ちに取り押さえられ、その場から連れ出された平 は、それを最後に宇都宮分校から去った。  すべてに気力が失せた身には、進退を考えるこ とすら億劫だった。原隊に戻ってしばらく後、地 連への転属命令が出て、平は早々に錦糸町の雑居 ビルに構える墨田出張所に回された。  あからさまな厄介払いだったが、募集ノルマに 追われる生活に、気に病む暇もそうそうなくなっ た。瞬く間に十年という時間が積み重なってゆき、 「あるべき世界」への想いもその中に消えていっ た。  そうして、飛べない絶望、存在価値を失ってし まった絶望を機械的に仕事をこなすことでごまか し、辛うじて世間という川の水面から顔を出して 息継ぎしてきた自分に較べ、まったく衰えない東 馬の眼光だった。海兵旅団が存続していたら。東 馬が希望を説き続けてくれていたら。あるいは飛 行恐怖症も克服できたかもしれないという思いは、 独り善がりでしかないのだろう。しかしなにもな い絶望の中に自分を置き去りにしておきながら、 自身はあの時の「約束」とともに生き続け、爆発 寸前のヘリに飛び込んで来た時同様、死に急ぐか のように世直しの真似事を始めた男を、認める気 にもなれないのが今の平たった。  奥底の栓が抜け、長く詰め込んでいたものが滲 み出した目を伏せた平は、「こうしなければ、最 初の一歩も踏み出せなかった」と言った東馬の声 を、遠くに聞いた。  「沖縄から海兵隊が去り、極東の軍事プレゼンス が崩れれば、囗本の国防意識も変革せざるを得な くなる。槍ぶすまでしかなかった自衛隊の在り方 も変わるだろう。我々が望んだ、自己完結した防 衛力のありよう。戦前への回帰でも、いつか来た 道をくり返すのでもない。一個の人格として、最 低限必要な責任能力の獲得だ。それがなれば、言 い訳に満ちたこの国の体質も変わる」  十年前の言葉通り。東馬−トウエルブは、米 軍潰しや沖縄の解放を企図しているのではない。 在日米軍を叩き出し、日米安保に寄りかかってひ とり立ちを拒み続けてきた日本の基盤を揺さぶる ことで、変革を促そうとしているのだ。本気を確 かめた平は、感情の渦が収まるのを待ってから、 「……そんな単純な対症療法で、なにが変わると も思えんがね」と、月光に浮き立つ東馬の顔を見 た。  「おれらの世代は、天皇を頭に頂いてた時代を知 らない。アメリカさんみたいに、星条旗よ永遠な れって気分もわからない。そりゃ駐屯地にいる時 は、降旗ラッパが鳴りゃなにを措いても気をつけ するが、それだって条件反射みたいなもんだ。囗 の丸に心底敬意を払ってるわけじゃない。なにせ 小学校からずっと、囗の丸は軍国主義の象徴みた いに教えられてきたからな」  虫の声だけが響く静寂に、声が吸い込まれてゆ くようだった。東馬は黙ってこちらを見ていた。  「昔あんたが言った通りだよ。下手すりや毎月入 れ代わる総理大臣には、大統領みたいな重みもな い。議員は地域や企業の利権代表者で、官僚は夕 テ割り行政の権化。文化も伝統も、敗戦って歴史 のフィルターごしにすべてが白々しく、今とあま りにもかけ離れた別世界のものとしか映らない」  「あげく、軍国主義は産業主義に取って代わり、 本来国家が与えるべき帰属とプライドは、企業が 代替りして与えるようになった」後を引き取って、 東馬が続ける。「だが営利を根本に置く企業にモ ラルはない。闇市からの脱却を目指しながら、そ の貪欲さを核にしてひたすら右上がりに走り続け た経済活動は、半世紀を待たずに臨界点に達した。 働き過ぎ、儲け過ぎは、バブル崩壊の惨禍を目の 当たりにした今や徒労でしかない。国家、宗教、 思想の大論理に続いて、企業の小論理も帰属に値 するものではなくなってしまった」  「そうだ。なにも信頼できないし、共通の拠り所 もない。根っこのなさがこの国の弱さと情けなさ の源だ。それは愛国精神を強制したり、憲法を書 き換えたりしたって救えるもんじやない。人の心 の問題なんだ。米軍が出てったってなにも変わ りやしない。そのことはあんたもよくわかってる はずだ」  「だが、なにもしなければなにも変わらない。誰 かが痛みを実践してみせなければ、この国は永久 に子供のままだよ」  奇妙な切実を宿した言葉だった。青い目の後ろ には月の欠片を散らした黒い水面があり、対岸に 張りついた木々の影を背景に、理沙のすっとのび た背中がある。透徹した後ろ姿に、血まみれで道 路を這っていた姿が重なり、平は収めた感情が再 び頭を持ち上げてゆくのを感じた。  「……それでテロを起こしたってわけか。コン ピューターウイルスを盗み出して。あの娘を利用 して」  今にも闇に消え入りそうな背中を見つめて、平 は言った。柢い語気に主人の危険を察したのか、 理沙がわずかに注意の目を向けたようだったが、 正面に受け止めた東馬は動こうとしなかった。  「どう屁理屈をこねようが、ひとり勝手にひねく れた男が、鬱憤晴らしの自殺行為に走ったとしか おれには感じられない。どんな細工で身を守って いようと、このまま無事に済むなんてことは金輪 際ないんだ。調別も米軍も、死ぬまであんたを追 い続けるに決まってる。あんたの自己満足に、こ れ以上あの娘を巻き込むのはやめろ。あの護って 小僧と一緒に逃がしてやるんだ」  他のなにも目に入らず、コンテナを飛び出して いった護の背中が、瞼の裏を走っていた。あの背 中こそ、ウルマではない、理沙という少女を受け 止められるものと信じた甘さを笑って、東馬は 「いかにもこの国の人間らしい、無知で無責任な 言い分だな」と言っていた。  「あれは命令がなければ生きることができない。 日本が内奥に隠し持ってきた牙だ。平和という怠 惰に浸りきっていた者たちが、外界の冷たい空気 から身を守るために創り出した装置だよ。個人と して生きることを許されなかったあれにこそ、そ れをする権利がある」  微かに動かした顔に、合図を察した理沙が東馬 の横に並ぶ。寄り添った肩に手を置き、見下ろし た東馬の目には言葉とは裏腹な慈愛の含みがある ようで、平はあらためて立ち入れない自分を感じ た。  「痛みをもって、すべての人に真実を伝える。そ れを受け止め、乗り越えることができれば、この 国も一個の大人として自立できるだろう。……そ うすれば、なくしたものも取り戻せるかもしれな い」  その言葉には、まだ終わらない、むしろこれか ら始まるなにかのきな臭さが漂っていた。「なく したもの……冫・」と聞き返した声には返事がなく、 理沙の肩を抱いた東馬は水辺に歩いていってし まった。  「待てよ。……それならどうしておれを助けた。 見捨てることだってできたのに、なんで無関係の おれを助けたりしたんだ」  十年前から持ち越された質問だった。立ち止 まった東馬は、「さあ。……どうしてかな」と闇 夜をふり仰ぐようにした。  「もう一度、話をしたかったのかもしれないな」  わずかに振り向いた顔の、表情を読み取ること はできなかった。それを見た瞬間、なにか言わな ければならないことがある、自分にしか伝えられ ない言葉があると胸の中がざわめいたが、それが 形になるより前に、東馬は再び歩き出していた。  父娘そのものの背中が闇に消えてゆく。平は 黙ってそれを見送った。  (Iドディスクに記憶されている暗号解析のア ルゴリズムを呼び出し、アクセスしたファイルに かける。一文字ごとに暗号換字されるサイファー 方式でガードされた機密情報のファイルは、それ だけでは意味をなさない英数字と記号の羅列でし かないが、SAR‐AIの資格を持つ井島のパソ コンには、日々更新される解析用の無限乱数式が しっかリインストールされていた。本来の文字に 再構成され、《キメラ》の真実を語り始めたディ スプレイを走り読みした由梨は、想像以上の汚濁 に胸がむかつく思いを味わっていた。  ディスクの持ち出し・持ち込みは許可制、複写 機の使用から廃棄書類に至るまで管理が徹底され ている市ヶ谷本部だが、パソコンはパスワードで しか扱う人を判別できないものだ。SAR‐AI の者のみ黙読可−印刷や書き写すことはもちろ ん、声に出して読むことも禁じられ、最高幹部数 人にのみ閲覧が許される機密クラスーの文字の 下に綴られた《キメラ》の作戦計画書は、末端の 一士官には重すぎる現実に埋められていた。  アポトーシスHのデータが、すべてトウェルブ に盗まれた不自然な経緯。安保を根底から揺さぶ られているにもかかわらず、奇妙に落ち着いた日 本政府の態度。世界戦略の要をあっさり明け渡し たアメリカのあきらめのよさ。納得できなかった いくつかの事柄が、総理大臣の割り印や、大統領 補佐官の署名も画像データとして取り込んである ファイルの中に説明され、そうそうたる関係者の リストが後に続く。その気になればいくらでも改 竄可能なデジタル情報に証拠能力はないが、地下 施設最奥の金庫に保管されている原本が表に出れ ば、日米両政府がそろって転覆することは間違い ない飛び切りの爆弾だった。ひと通り読み終えた 資料を画面から消した由梨は、背もたれに体重を 預けてパンク寸前の頭から漏れ出る息を吐いた。  在学中からこの世界に足を突っ込み、足掛け九 年一線で働いて来た身には、報道よりはるかに多 くの人間が殺されている現実が染みついている。 複数の利害が一致し、その行為に関与した事実が 公に知られなければ、国家という利権集団はその 構成単位を抹殺することをためらわないものだが、 これはそんなレベルの話ではなかった。《キメラ》 が殺害を企図したのは人間ではなく、体面なのだ。 その重みで死に体になりながら、決して投げ出す ことができなかった体面を、彼らは《キメラ》と 呼ばれる計画−あるいは合意−を使って葬る 口実を捏造しようとした。子供が仮病を使って学 校を休もうとするかのように。  問題は、その実行者になぜトウェルブー東馬 が選ばれたかだった。彼が「善人」だからなどと いう冗談は聞けない。トウェルブでなければなら ない理由があるはずだ。それを解く鍵が『BB文 書』。東馬とセットで、絶対の効力を発揮する一 級の外交カード。決して触れることのできない日 米双方の国益の壁と、それに守られている男の存 在がなければ、米軍を脅して在沖海兵隊を撤退さ せるなどという荒唐無稽なシナリオもありえな かった。  それはどの機密、東馬という男の根幹に関わる 機密とはいったいなにかI。自分がなにをしよ うとしているのか、考える余裕はなかった。マウ スをつかんで手の震えをごまかし、『BB』の項 目にカーソルを合わせてクリックした由梨は、ホ ストから送り込まれる情報が端末の(Iドに読み 込まれるまでの数秒を、熱に浮かされた面持ちで 待った。  読み込み率を示すバーが百パーセントに達する。 暗号文書が自動的に解析プログラムにかけられ、 ディスプレイヘの表示が始まった瞬間だった。読 み込みエラーのメッセージが挿入され、すべての 画面が消えて削除の文字だけが点滅した。  井島のSARではアクセス不可? いや、そう なら最初から読み込まれなかったはずだ。となる と原因はひとつ。故障を疑うほどのんびりした人 生を送っていない由梨は、舌打ちと同時に椅子を 蹴って立ち上かっていた。  靴に仕込んだポリカーボネイト製のナイフを抜 いたのは、条件反射だった。不法アクセスが露見 して、内務監査の人間がなだれ込んで来ようとい う時に、ナイフ一本でなにができるはずもない。 不在時にのみ作動する、天井の片隅に据えられた 監視カメラが、いつの間にか動作ランプを点灯さ せていることに気づいた由梨は、手にしたナイフ の柄をギュッと握ってから、それをデスクの上に 置いて壁際まで後退した。案の定、すぐに殺気 立った足音が近づいてきて、警務隊の制服がノッ クもせずに執務室に踏み込んできた。  「両手を壁について。足を広げて下さい」と言っ た隊員の腰のホルスターの止め具は外され、自動 拳銃シグサワーの太いグリップがいつでも抜ける ように覗いている。慇懃無礼そのものの顔は見ず、 言われた通りにした由梨は、「誰もなににも触る な」と言いながら近づいてきた禿頭に、壁に向け た顔を伏せていった。  伏見内務監査室長は、二人の部下とともに部屋 に入ってきた。場合によっては法を破ることが許 されるダイスだからこそ、その服務規定違反者は 厳重に処罰されなければならないという信念に生 きる「市ヶ谷の警察長官」は、部下に証拠物件の 差押えを命じる一方、胸の間から股の内側までボ ディチェックされた由梨を、感情のない目で見据 えた。「理由はわかっているな? 夏生二尉」と 続けた伏見に、由梨は小さくすくめた肩で応じた。  「電算情報の許可外閲覧。服務規定三十七条違反 の現行犯だ。……。(カな真似をしたな。AI情報 にアクセスすれば、在室中であっても監視カメラ が作動することぐらい知っていただろうに」  そうだった。だがそれは内事方面部長の肩書き を持つ井島がひと声かければ、簡単に解除できる セキュリティ措置のはずだ。腹に力を入れて萎え そうな膝を律し、「好奇心には勝てませんで……」 と強がりを言った由梨は、ふと思いついた推測に 伏見を振り返った。  「聞くだけ野暮かもしれませんけど、これって夕 ヌキの差し金?」  自分の暴走を懸念した井島が、服務規定違反の お膳立てを整えて、内監に拘束を依頼した可能性 は否定できない。場合によっては刑事罰に粉飾さ れて刑務所送りになることもある内監検挙は、熱 冷ましの措置としてはあまりにも行き過ぎだった が、ほかに監視カメラを停止させなかった井島の 無神経を説明する理由もなかった。  伏見の眼鏡面に微かな動揺が走り、最悪の想像 が当たった絶望に胸が塞がるのを感じた由梨は、 まったく予想外の声が「それは違う」と答えるの を聞いて伏せかけた顔を上げた。  「井島部長はカメラを切っていた。わたしがそれ を元に戻したんだ」  振り向いた先にある顔を見て、飲み込んだ息を 吐き出すことができなくなった。悪びれる様子も なくドアの前に立っている長身に、由梨は「古 武……外事部長?」の声をどうにか絞り出した。  正確には外事統括本部長。対外諜報・工作の トップに立つ男は、政財界に一大閨閥を形成する 古武家の血筋を引き、公的機関化以後の局長候補 と目されていたが、それが七光りによるものでな いことは誰もが認めている。怜悧にして、冷血。 利害が一致すればなんでも取り込んで利用し、用 が済めば一片の躊躇もなくそれを捨てて恥じない 神経の太さで、ここまでの地位に這い上がってき たのだ。  現場を這いずり回っている一士官には雲上の人、 それも滅多に顔を見せない最高幹部が目前に現れ、 平然と自分を嵌めたと告白している。俄かには受 け入れられない現実は、「いったいなんの騒ぎだ」 と駆け寄ってきた井島によって、否応なく由梨の 中に取り込まれていった。  時間を潰し終えて帰ってきた部屋の主は、明ら かな動揺をまる顔に刻んでいた。そうした腹芸が できるタイプではないと知っている由梨は、井島 も嵌められた側であることを理解して口を閉じた。 ドアを塞いだ警務をかきわけ、古武の通った鼻筋 を見上げた井島は、「なんであなたがここにいる」 と押し殺した声で言っていた。  旧治安時代からの古株方面部長と、段抜かしで 出世コースを歩んできたエリート本部長の関係は、 階級の上下だけで計れるものではない。「うちの 所掌するAI情報に、接触資格のない者がアクセ スしたと聞きましたんでね。確認にまいった次第 です」と微笑混じりに答えた古武に、井島は荒い 鼻息がかかるほど顔を近づけた。  「こんなに早くバレるはずがない。網を張ってい たとしか思えんな」  「違反の教唆をお認めになるので?」  「ごまかすな……’・ 夏生二尉をどうするつもり だ」  「さあ。それはわたしの一存で決められることで はありません。あなた同様、わたしも宮仕えの身 ですからね」  公安委、監視委の承認と、局長からの権限一部 委譲。背後をすべて固めた上で、ここに立ってい ることを宣言する言葉だった。詰まった井島に、 一歩離れた古武は「部下のことより、自分の心配 をした方がいいのでは?」と続けた。  「あなたがうちに内密でウルマ回収作戦を強行し たために、《キメラ》の関係者は大変迷惑してい る。一部には更迭すべきとの意見も出ています。 今は局全体が神経過敏になっていることをお忘れ なく」  「聞いておく。だがな、あんたがまとめ役に就い ている《キメラ》。本当に計画書に記された通り のものか?」  長い経験から、資料の行間に潜む腐臭を嗅ぎ分 けた男の目と声たった。口許の微笑を消すと、古 武は伏見に頷き、由梨の連行を促した。井島は 「トウエルブを甘く見るな」とその背中に続けて いた。  「東馬は、あんたの手のひらで踊るようなタマ じゃないぞ」  一瞬立ち止まった後、すぐに歩き出した古武の 背中に伏見が続き、警務隊員に四方を固められた 由梨が続く。「すぐに出してやる。心配するな」 と言った声に精一杯の微笑を浮かべてから、由梨 は背筋を伸ばして拘置室に続く廊下を歩いていっ た。  坂部工業の看板がかかる家に戻ると、布団は片 付けられていて、代わりに置かれたお膳の上に夕 飯の支度が整いつつあった。台所と茶の間をぱた ぱたと往復している優子が、「もうじきできます から。よろしければ、先にお風呂どうぞ」と声を かけてきて、なんの屈託もない様子に気をそがれ た思いの平は、断る言葉も理由もないまま湯船に 体を沈めることになった。  自宅のアパート備え付けのものより、一・五倍 は大きい湯船だった。久々に足を伸ばして湯に浸 かり、湯気の向こうから届く包丁の音や鍋のこす れ合う音、坂部の柢い声や優子の笑い声が混然と なった生活の音を聞いていると、銃撃戦の記憶も 東馬の言葉も現実味を失って、思考や感情の垢が 落ちた頭が限りなく空白に近づいてゆくのが感じ られた。古い友人の家に泊まりに来たような感覚 に、おれはいったいなにをやっているんだという 思いが立ち上がりかけたが、首筋や体の節々に溜 め込んだ疲れが次々剥がれ落ちてゆく心地好さに、 それもすぐに霧散してしまった。  風呂からあがると、いつの間に帰ってきたのか、 理沙が夕食の支度を手伝っていた。東馬の姿はな い。ひとりにしてしまって大丈夫なのかと当然の 疑問がわいたが、新聞を畳に広げて鼻をほじって いる坂部にしろ、戦闘準備と同じ調子で黙々と配 膳を続けている理沙にしろ、まともに答えてくれ そうな雰囲気はどこにもなかった。虜囚の身の現 実がちくりと肌を刺し、平は無言のままお膳の前 に腰を下ろした。  が、それも冷えたビールを両手にした優子が笑 顔で近づいてくれば、忘れることができた。ブリ の照り焼きや野菜いための大皿、漬け物の器が並 ぶお膳をちらと見下ろし、「理沙っちゃん。お味 噌汁のお椀は、食べる人の向かって右側ね」と母 親のような声で言った優子は、手早く味噌汁の位 置を正した理沙が座り直すのを待ってから、「な にもありませんけど……」と、両手で携えたビー ル瓶を近づけてきた。  恐縮して酌を受けた平に、「お客さんが来るな んて、滅多にないもんですから……」と続けて、 優子は坂部のコップを満たし、自分のコップにも 半分ほど注いで、理沙にはオレンジジュースを注 いだ。全員に飲み物が行き渡ったところで、さて、 ここは乾杯しなければいけないような空気だが、 いったいなにに乾杯すればいいのか、襲撃・拉致 計画の成功でも祝うのかと気まずい沈黙が流れた が、それも一瞬のことだった。それまで無言だっ た理沙が、「いただきます」と大人たちの気まず さを無視する声を出して、つられるように全員が コップを傾け、箸を取った。そうして元左翼活動 家とその妻、秘密工作員とダメ自衛官が囲む夕食 は、密やかに始まった。  大量生産の食事に慣らされた舌には、すべてが この上なく美味だった。二十四時間なにも入れて いなかった腹にビールが染み渡り、しばらくは飯 をかきこむことに専念したが、そうして頭と体が 落ち着いてくると、やはり気になるのが坂部の背 中を覆う火傷跡や、茶碗を持つ理沙の手に巻かれ た包帯の痛々しさで、この家が普通であればある ほど際立ってしまうそれらの異質さに、平はまだ 飯の残る茶碗をお膳の上に戻してしまっていた。  「あの、お口にあいませんでした?」  敏感に気配を察した優子が言う。口に持ってい きかけたビールのコップを止めて、平は「いや、 とんでもない」と答えた。  「こんなうまいもん食っだのは久しぶりです。 ……ただ、まだちょっと頭の整理がつきませんで ね」  続けた言葉は、帰宅してからなにも話そうとし ない坂部に向けたつもりだった。すでに手酌で一 本空けてしまっているこの家の主人は、据わりか けた目をじろとこちらに寄越してきた。  「東馬は一緒に食わないのか?」  ようやく合わせた視線を逃さず、平は言ってみ た。返事はなく、亭主と客人の顔色をちらちらと 窺う優子の気まずさ、我関せずとばかりに飯を口 に運んでいる理沙の寡黙さだけが、八畳間の空間 に浮き立っていった。  得体の知れないバリアーで一切の追跡を封じて いる身に、常時のガードは必要ないというところ か。ひとり勝手に納得して、平は懲りずに「辻井 護は?」の質問を繰り出した。今度は理沙の反応 を期待してのことだったが、それを確かめるより 前に「ちゃんと食わせてるよ」の声が坂部の口か ら返ってきた。  「もっとも、当人は「ンスト決め込んでるみてえ だけどな」  「会わしてもらいたいもんだな」  「後でな」と言うと、坂部は漬け物を口にほうり 込んで視線を逸らしてしまった。再び舞い戻った 沈黙に、箸と茶碗がすり合う音、タクワンを噛む 音が奇妙に大きく響き、お膳から少し体を離した 平は、柱に掛けられたダックスフントの葉書入れ と、その脇で外の暗闇を覗かせているガラス戸の 隙間に目を据えた。  「……なにか、このままごちそうさんつて言って、 帰れそうな雰囲気だな」  どこかで厳重に監禁されているらしい護と、風 呂の上に食事まで振る舞われている自分とのあま りの落差に、平は横目で坂部と理沙の表情を窺い ながら探りを入れてみたが、ブリの切り身を箸で 割くことに余念のない二人は、目を上げようとも しなかった。地連の手配師が一匹、逃げようがど うしようが関係ないと思っているのか、あるいは 逃げられるわけがないと思っているのか。どちら にせよ完全にナメられているのは明白で、もうい ちど外の闇に目を戻した平は、「おれも、一応自 衛官のはしくれなんだがね」と無意味な虚勢を張 らずにいられなくなった。  「よせよ。当たり前の自衛官とダイスの工作員 じゃ、筋金の入り方が違う。わかってんだろ」  苦笑で応じると、坂部は「それに、あんたは東 馬の友達らしいからな」と付け加えた。子供をあ やすような調子の声に、平は「東馬のファンとし ちゃ、客としてもてなさないわけにはいかないっ てわけか」と憎まれ口を返した。  「いろいろ事情ってもんがある。おれと東馬の仲 を、他人に説明する気はない」  ぴしゃりとそれを遮って、坂部は残りのビール をコップに注いだ。わけもなく対抗心が頭をもた げ、負けずに自分も注いだ平は、それをひと息に あおってから「あんたら過激派はいつもそれだ」 と突っかかる声を出してしまっていた。  「仲間内だけでごそごそして、手前勝手な論理 ばっかり発達させて、外の人間にわかるよう説明 しようとしない。わからない連中がバカなんだっ て見下して……まったく不健康な連中だよ」  凍りつく優子の気配が伝わったが、坂部は存外 冷静たった。コップを置き、「ノンポリ自衛官が 知ったふうな口きくな」と充血気味の目をこちら に向けた。  「負け犬の美学に酔ってる奴よりはマシだと思う がね」  空き腹に染み渡ったビールが、開くべきでない 口を開かせてしまっているのはわかっていたが、 今さら後には退けなかった。ドン、とお膳を揺る がす勢いでコップを置いた坂部の顔が酔いとは別 の理由で紅潮し、対照的に青ざめた優子の横顔が それを見つめる。周囲の感情のうねりなどまった く無関心、マイペースで食事を続ける理沙の横で、 平も坂部を正面に見据えた。  「あんたも東馬もガキなんだ。いい歳して革命 ごっこなんて……。そりやいろいろ不満はあるだ ろうさ。おれなんかにや想像できない苦労だって してきたんだろうさ。でもな、誰だってそういう 思いを我慢して、毎日必死に生きてんだ。なのに あんたらは、この娘や奥さんを巻き添えにして I」  「黙れっ’・ なにも知らねえで、勝手な口だたく な!・」  古びた鉄筋を揺さぶって、その怒声は微かに聞 こえていた虫の囁きも消した。ためらいがちにの ばした優子の手を遮って背を向けた坂部は、「お れはな……」と柢くした声で続けた。  「若気の至りだろうがなんだろうが、してきたこ とのヶジメはつけてえ、つけなきやなんねえって 思ってるだけだ。いまだに爆弾闘争をほざいてる バカどもや、あの頃の思い出話を肴に酒くらって るヌヶサクどもとI緒にすんな……’・」  それまで不安に染まっていた優子の顔に一点の 悲哀が灯ると、それは長い忍従の時を過ごしてき た人の顔色になって、まるまった坂部の背中とと もに、自分には立ち入れない重い時間の幕を形成 したようだった。腹で燻っていた熱に水をかけら れたようで、平は返す言葉のなくなった唇を噛み 締めた。  「騒ぐだけ騒いで、負けも認めなければ、自分た ちの活動を総括しようともしなかった。大戦後の 日本と同じだよ。ある者は地下へ潜り、ある者は 涼しい顔で体制側に組み入れられていって……。 後に続く世代への橋渡しをしないで消えちまった 連中の無責任が、シラケつぱなしで、なにも考え ようとしない今の日本人を作ったんだ。おれたっ て……」  そう言って坂部がぎゅっと拳を握っだのと、う つむいた優子の頬をひとつ涙が伝わっだのは、同 時だった。火傷に覆われた肩がぴくりと動き、優 子をちらとだけ振り返った坂部は、すぐに色の変 わった畳に視線を戻していた。  「……右も左も関係ねえ。東馬は、そうして脳死 状態になっちまったこの国の頭を蹴飛ばして、刺 激するために行動を起こしてんだ。……手伝うの は当然だろうが」  締め括ると、坂部は残りわずかなビール瓶と夕 バコをつかんで、ガラス戸の向こうの工場に引っ 込んでしまった。再び鳴り始めた虫の声が苦い静 寂の間を行き来し、膝の上で両手を握り合わせた 優子ともども、なにを言ったらいいのかわからな い時間が続いたが、茶碗を置く小さな音がそれを 終わりにしてくれた。  「ごちそうさま」  終始無言、黙々と食事を続けていた理沙がそう 言い、食べ終わった皿とお椀をさっさとまとめる と、台所の流しに運んでゆく。あまりの傍若無人 ぶりが可笑しく、涙を拭った優子と微笑を交わし た平は、冷めかけた飯の残りを口に運び始めた。  風に乗って伝わる微かな電車の音も途絶え、茶 の間から聞こえるテレビの音と虫の声だけが耳に 入るすべてのものになった。東馬と坂部の言葉が 去来する頭を夜風に晒し、庭に置かれたドラム缶 に腰を下ろした平は、ぼんやりと縁側から見える 家の様子を眺めていた。  茶の間に落ち着き直した坂部は、ビールの残り を舐めつつプロ野球ニュースを眺めている。先ほ どの激情などケロリと忘れた風情で、こちらに注 意を向けようともせず、時おリランニングの胸も とを掻いたりしている。護に会わせてくれるよう 頼んだことを忘れているのか無視しているのか、 動く気配はない。  東馬の姿は相変わらずなかった。それが当然で あるかのように、誰も気にする様子もない。理沙 も変わらすのマイペースぶりで、風呂と歯磨きを 済ませると、茶の間の隣にある寝室で優子に髪を 梳いてもらっていた。  風呂上がりの体に大きめのトレーナーを着て、 鏡台の前にちよこんと座っているさまは、どこか ら見てもこの家の娘だった。後ろで膝をつき、大 事そうに理沙のストレートの髪を梳いていた優子 は、やがてやってごらんという風にブラシを渡す。 受け取った理沙は、少し戸惑った顔を見せながら も、優子の動きを真似て懸命に自分の髪を梳かす。 ぎこちない動きをじっと見つめていた優子の笑み は、理沙の手に巻かれた包帯を見て影を落とした ようだった。痛くない? と言った声に、理沙は 無言で頷く。こみ上げる感情を押し殺すように、 束の間目を閉じた優子は、次の瞬間には笑顔を取 り戻して、一本調子のブラッシングを矯正する。 密やかな虫の声、テレビの音だけが、闇の中に吸 い込まれてゆくI。  こうした家庭の安寧を置き去りにして、富国強 兵を叫んだ国家が敗北していった歴史を省みるこ となく、戦後のGHO、政策を甘受し、押しつけら れた西洋的価値観で否定された自己の空白を埋め。 GNPに形を変えただけの富国強兵政策で経済立 国の地位を築き上げたこの国は、それ以外に自分 を語る言葉を持てず、取り違えた自由の名のもと に倫理も殺してしまった。全共闘の衰退から四半 世紀、唯一の拠り所にしていた経済神話も融解を 始め、再び終戦直後の虚脱を迎えた現在、もう新 たな価値観を与えてくれる戦勝国の存在はなく、 半世紀以上の時の重みに死滅してしまった自己に 回帰する術もない。どこに行き、どこに帰ればい いのかわからない。自分を誇ることができない  かつて、自衛隊にこそ根無し草になった囗本の 状況が集約されていると語った東馬は、その時に 現在の危機も予測していた。戦力不所持を金言に した平和国家にあって、自衛力は別物だとした詭 弁の上に成り立ち、言葉の操作や解釈の手直し、 既成事実の積み重ねで暫定措置を永続させてきた 自衛隊の在り方は、確かに戦後という時間のひと つの象徴だった。  節目でのイェスーノーを有耶無耶にしてきた後 ろめたさは、米軍基地の借用期限切れという節目 を迎えた沖縄問題に、特措法というおためごかし で逃げを打った経緯にも如実に現れている。日米 安保を破棄する必要はないが、冷戦終結という曲 がり角を迎えた現在、上目使いで繋ぎ止める理屈 をこねるのではなく、それに頼りきっだ国防のあ り方を改めて、首尾一貫した自国の有りようを示 していかなければ、アメリカと対等につきあうこ とはもちろん、アジアの不審を拭い去ることもで きない。根底の部分での曖昧さ、わかり難さを払 わなければ、国際社会での孤立も、エゴに閉塞す る国民の風潮も改善できないと言った東馬は、し かし、ひとりひとりが思い続けることでそれを変 えられるはずだとも語っていた。希望はあるのだ、 と。この十年間の推移は、その希望さえも殺して しまったのだろうか。  取り戻すべき自己。それは皇国日本などという お仕着せへの回帰ではなく、もっと大らかで、 もっと闊達な自己の確立であるべきだ。国防の体 裁を整えることがその一歩になると信じ、行動を 起こした東馬だが、テロという手段を選んだ時点 でそれもお仕着せでしかなくなる。理沙を利用し、 坂部たちを巻き込み、トウェルブを名乗って巨大 な風車に撓みかかったドンーキホ上アは、そのこ とに気づいているはずだった。それでも、なにも しなければなにも始まらないと言いきり、その目 的を達成した東馬は、理沙とともに次の段階に進 もうとしている。痛みをもってすべての人に真実 を伝えると言ったその言葉は、いったいなにを意 味しているのか。なにが東馬をそこまで駆り立て ているのか。それほどに、現状は絶望に塞がれて いるということか……。  「ありがとう」  足もとに石ころが放られたように、不意にそん な言葉が投げかけられて、平は物思いに沈んでい た顔を上げた。いつの間に近づいたのか、理沙が すぐ目の前に立ってこちらを見つめていた。  わけがわからず、口を半開きにした平に、理沙 は「助けてくれたんでしよ。あたしのこと」と続 ける。あまりにも意外な言葉にすぐには応じる言 葉が出ず、口をもごもごさせていると、「……お ばさんがそう言えって。じゃ」と言ったぶっきら ぼうが離れる足を踏み出していた。  縁側に手をつき、様子を窺っていた優子は、目 が合うと間の悪い微笑を浮かべて頭を下げ、奥に 引っ込んでいった。所在をなくしてしまった客へ の、彼女なりの精一杯の気遣いなのだろう。いか にもらしい様子に苦笑した平は、「礼なら、あの 護って奴に言ってやんな」とだぶだぶのトレー ナーの背中に呼びかけた。  「あいつこそ、命がけで君を守ったんだ」  立ち止まり、振り向いた横顔は、梳かされた髪 と相まって少女の匂いを放っていた。「もう言っ たわ」と呟いた声が薄闇に溶け、再び歩き始めた 背中を「待ちなよ」と呼び止めた平は、ドラム缶 に下ろしていた腰を上げた。  トウェルブの付属品としてしか自己を示そうと しなかった理沙が、初めてその素顔を覗かせた瞬 間たった。素直に振り向いた目がまっすぐこちら を見、気押されそうな自分をなんとか取り繕った 平は、「これからも続けるのか? 東馬の手伝い を」と言ってみた。  「それがあたしの任務よ」  答えた声は、しかし他人の干渉を受け付けない いつもの冷徹だった。一瞬感じた身近な匂いを取 り払った目に、平は「反逆者を守ることがか?」 と続けた。目を背けて、理沙は答えようとはしな かった。  「あいつは、ダイスとかいう組織を裏切って勝手 にテロを起こしてんだ。一緒に連れ出した君を利 用してな。任務ったって、あいつが勝手に命じて るだけのもんだろう? そんなもんに命をかけて、 それがなんになるっていうんだ?」  砂利混じりの土に目を落として、理沙は立ち尽 くしている。従う命令がなければ生きられないと 言った東馬の言葉を踏みつけるように、平はそこ に近づいていった。  「もっとほかの……もっと普通に生きる道だって あるはずだろう? この家の人たちや、護と一緒 に……」  「あなた、パイロットだったんでしよ?」  不意に発した声に、続く言葉を飲み込んだ平を 見上げて、理沙は「トウェルブから聞いたわ」と 小さな口を開いた。  「事故に遭った時、そのまま死のうとしたって。 どうして?」  脆い部分に突き剌さる声だった。しばらくの沈 黙の後、「……怖かったから、かな」と答えた平 は、それで理沙に向けた質問にも答えてしまった 自分に気づいて、月の光に照らされた菜園に目を 落とした。  「それまで積み上げてきたものが全部崩れて、自 分が価値のない人間になっちまうような気がし て……。耐えられないってその時は思ったからか もしれない。でも……」  「あたしも、それと同じだと思う」  遮るように言うと、理沙は縁側の向こうにある 生活の光を見つめた。坂部の姿はなく、つけっ放 しのテレビが一人芝居を続けていた。  「……あたしの名前、理沙って、この家の人たち がつけてくれたの。トウェルブと一緒にここに住 むようになってから」  無言の間に、理沙が言っていた。平はその横顔 を見つめた。  「昔、おばさんが生むはずだった子供の名前。学 生運動していた頃に妊娠したんだけど、内ゲバで 殴られて、お腹の中で腐ってしまったんだって。 それでもう子供ができなくなったんだって、いつ かおじさんが言ってたわ」  淡々と語られる言葉に、想像外の凄惨が際立っ ていた。自分も殴られた痛みを感じて、平は無人 の茶の間に目をやった。  「おばさんの弟が、公安に騙されて内通者に仕立 て上げられて、それで巻き添えの制裁を受けたん だって。おじさん、すごく怒って仕返ししようと した。爆弾を積んだトラックに乗って、桜田門に 突っ込もうとしたんだって。でもそれを迷惑に 思った仲間たちは、山の中で準備している時に荷 台の火薬に火をつけて、トラックごとおじさんを 焼き殺そうとした」  なにかの抜け殼を張り合わせたような、乾いた 火傷跡が瞼の裏に浮かび上がった。平穏な風景の 下に潜む地獄、坂部の激情の根底にあるものを突 きつけられて、平は目を閉じた。  「火の熱さや、裏切られた悔しさでとても苦し かったって。早く死んで楽になりたいって思っだ けど、その時トウェルブが飛び込んできて、おじ さんを助けた。その頃はダイスじゃない、ほかの 組織にいて、爆弾テロを計画していたおじさんた ちを監視していた最中だったらしいけど、そんな ことは問題じゃない。いつ爆発するかわからない トラツクにとりついて、焼けたドアを開けてくれ たトウェルブに、おじさんは希望をもらったん だって言ってるわ」  聞いたような話だった。「希望……」と呟いた 平に、「そう。誰も、なにも信じられない世界で、 それがあるから生きてゆける希望」と続けた理沙 は、ブナの梢の上にある月を見上げた。  「でも、トウエルブはおじさんを助けたんじやな い。自分を助けようとしたんだって言ってる。価 値のある死を迎えることで、自分の命を意味のあ るものにしたかったんだって」  東馬という人間をひもとく言葉だった。死とい う終焉で生の絶望を救おうとしている男。トウエ ルブの行動は、そこに帰着するのかもしれない。 「君も、それにつきあうつもりか?」とかけた平 の声にちらとだけ振り返ると、理沙は無言の顔を 月に向け直した。  「君が死んだら、おばさんはきっと悲しむぞ。そ れでもいいのか」  「死は、結果のひとつでしかないわ。あたしの任 務はトウエルブを守ること。だからそうする。な んのため、なんて考える必要ないわ。そうしなけ れば、ここにいる意味がなくなってしまうんだか ら」  言いきっだ横顔は、単にこの家を指しているの ではなく、この世に在ること、生きることそのも のを言っているようだった。思わず「そりゃ違 う’・」と怒鳴ってしまった平は、後に続ける言葉 が思いつかず、振り向いた理沙の目から顔を逸ら すようにした。  「……一尨ゝつよ。そんなふうに考えんなよ。人間は 機械じゃない。なにかのためだけに生きて、それ がなくなりや価値がなくなるなんて、そんな単純 なもんじゃないんだ」  じっと見つめる理沙の顔は、絶望しているわけ ではないのだろう。最初からなにも期待しておら ず、それを当たり前にして生きてきた。純粋でI 途な資質を、こんな形でしか活かすことのできな い少女と、それを引き止める言葉を持てない自分、 この社会。その辛さ、情けなさが滲み出してきて、 平は耐えきれずに背を向けた。  「自分の価値は自分で決めるもんだ。そうでなけ りや……」  それができず、後ろ向きに紡いできた十年間が、 理沙の目を拒んでいた。背中に刺さっていた視線 は、「……わからない。あたし」の声とともに消 え、遠ざかる微かな足音がそれに続いた。  しばらくは伏せた顔を上げることができず、平 は借り物のサンダルを履いた自分の足を見つめた。 コオロギらしい影が跳ね、それを目で追った時、 別の視線が向けられていることに気づいた。  庭を囲む生け垣を背に、坂部が立っていた。ラ ンニングに作業着を羽織ったまる顔は、目が合う とニヤと頬を歪めて見せた。  「あの子が、こんなにたくさん話すとこ初めて見 たよ」  そう言うと、手招きした背中が歩き出す。理沙 のいない庭を振り返ってから、平は後に続いた。  坂部が案内したのは、家の裏手で雑草に埋もれ ている危険物貯蔵庫だった。数種類のガスボンベ を貯蔵していた小振りの倉庫は使われなくなって 久しいらしく、ブロック壁はところどころひび割 れて、錆びた鉄扉の上にある「火気厳禁」の赤文 字もほとんど消えかけていた。  「あの小僧を閉じ込めておくには打ってつけの場 所だろ?」と呑気な声を出した坂部は、扉に掛 かった南京錠を開けると数歩後退した。さりげな く後ろに回した手に、ズボンの腰に差し込んだ拳 銃の存在を察した平は、黙って赤錆びた鉄扉を開 けた。  「出たくなったら、こいつで呼びな」と言って無 線機を放ると、坂部はすぐに扉を閉め、錠もかけ てしまった。埃臭い倉庫の中は、明かり取りの小 さな窓から鉄格子ごしに月の光が差し込むだけの 闇だったが、目が慣れてくると打放しの床の上に 転がる空ボンベや油缶の類いが朧に見えてきた。  その中ほどに毛布が敷かれ、冷めきっだ夕飯が 手つかすのまま置かれている。毛布の膨らみに護 の存在を確かめ、一歩踏み出した平は、突然発し た気配に背後を取られていた。  振り向く間もなく後ろ手を捻り上げられ、冷た い床に押し倒される。イテテ、と呻くと「なんだ、 あんたか」と声がして、右の手首を捻っていた手 が外れ、背中に押しつけていた膝も外れて、ス ニーカーの踵が頭をまたいで毛布の方に歩いて いった。うつ伏せの顔を上げ、毛布の中に仕込ん だ一斗缶をどける辻井護の背中を見た平は、埃ま みれになった体をはたきながら身を起こした。  扉の陰に潜み、食事の差し入れに来た者を捕え て、脱出するつもりででもいたのか。謝る素振り もなく毛布の上に腰を下ろした背中に、平は「お れじや人質の役にも立だないってか?」と言って やった。  「なにしに来たんだ」  即座に言い返されて、答えに詰まった。そう言 われると自分でもわからない。ただ頑なな背中を 見て、ほっとしている自分の胸の内を確かめて、 平は「別に。生きてるかどうか、確かめに来ただ けだ」と返しておいた。  「じゃもう確かめただろう。帰れ」  「そうつれなくすんな。同じ囚われの身同士だ」  よっこらとあぐらをかいた平に苛立った目を返 すと、護は背中を向けて無視の構えに入っだよう だった。湯気の消えた豆腐の味噌汁を見下ろして、 平は「食わないのか?」と構わずに声をかけた。  石になった背中は答えない。「食っとかないと、 いざって時に力が出ないぞ」と続けた平に、うる さそうにした護の肩が少しだけ動いた。  「飢餓訓練で、自分の限界はわかってる。ほっと いてくれ」  「おれのいた部隊じゃ、その時にできる最善のこ とをしておけって習った。食うのも仕事のうちだ と思うがね」  「……袿XtEt味さ、もう。どうせ帰るところはない んだ」  捨て鉢な声がそう言い、空気の重みが増した。 「お陰で、彼女は死なずに済んだ」と言った平の 声も効果はなく、無言の背中は即身仏のようにぴ くりとも動かなかった。  反逆罪も顧みず、命がけで救出した理沙ににべ もなくフラれ、どうする当てもなく塞いでいる護 の背中は、坂部に聞くまでもなく痛々しい。手つ かすの食事も、警戒しているというよりは失恋の 痛手を示したものと見るのが正しいだろう。 「……少しは話したのか? 彼女と」と遠慮がち にかけた声も黙殺された平は、嘆息と一緒に壁に 背を預けていった。  虫の声だけが絶え間なく続く。明かり取りの鉄 格子越しに見える月は薄墨のような雲をまとって いて、それが光を遮るたびに、天井の片隅に張っ た蜘蛛の巣も見えなくなる。睡眠薬の余韻がぶり 返して来たのか、重くなってきた瞼が塞がりかけ た時、「……ありがとう、さよなら。そう言って た」と言った護の声が、沈黙の間を破った。  長い間を置いての答えに、すぐにはなにを言っ ているのかわからなかった。死にたくなるほど簡 潔な、理沙の言葉。思わず「それだけか?」と聞 き返してしまった平に、護は膝を抱く手の力を強 めたようだった。  「意地っ張りなんだ、あいつ。なにもかも自分ひ とりで背負い込んじまうんだ。今だってそうに決 まってる。東馬理沙なんて名前、あいつには似合 わないのに」  「ウルマよりはましだと思うがね」  「ウルマは伝説だ。誰にもできないことをやって のけたあいつに、おれたちが付けた名前なんだ」  振り返り、叫んだ声に、そのウルマが自分の手 の届かない場所に行ってしまった焦りと苛立ちが 覗いていた。見透かされることを嫌ったのか、す ぐに顔を背けた護は取り繕う口を開き始めた。  「聞いたんだろう? おれたちの組織……ダイス のこと」  「いや……」  「冷戦が終わって、いちど解体された組織を再編 した時に、いちばん問題になっだのは末端の工作 員がいなくなっちまってたことなんだそうだ。上 の幹部連中は、ほかの省庁に横滑りしてたのを引 き戻せばそれでいいけど、切り捨てた末端の連中 はそうはいかない。呼び戻そうとしても、もうご 免だって奴、捨てられたことを恨みに思って蹴る 奴がほとんどで、応じた連中も大半は鈍っちまっ てたり、年食ってたりで使い物にならない。それ で急きよ創設されたのが工作員養成特別プログラ ム。通称920部隊っていうおれたちのいた隊 だった」  「9`。亠O:::?」  「引退した工作員のコードらしい。詳しくは知ら ないけど、おれたちと同じくらいの歳でいろいろ 活躍して、伝説になってる奴さ。そいつのコード にあやかって作った部隊だけあって、集められた のはほとんどが二十歳前の連中ばっかり。施設に いた奴とか、組の下足番やってた奴とか、とにか く家族とか学校とかの後腐れがない奴らだ。適性 検査や体力検査を受けさせられて、素養ありと認 められれば即採用。小難しい書類に何枚もサイン させられて、富士の訓練キャンプに放り込まれる。 そこで教鞭を取っていたのが東馬三佐。今をとき めくトウェルブつてわけだ」  つまり、新人スパイの教育係。意外ともさもあ りなんとも思える東馬の役職だったが、それより も「後腐れがない」と自身を表現した言葉の方が、 平に重くのしかかっていた。両膝を抱えて、護は 堰を切っだの表現そのままに過去の述懐を続けた。  「訓練生の中には、研修を受けに来た解体前から の古株も混じってて、夏生由梨もその中にいた。 もっとも名前を知っだのはずっと後になってから のことだ。キャンプにいる間は全員数字でお互い を呼び合ってたからな。  規則ずくめの中で、いろんなことを教え込まれ た。一般教養から語学、鍵の構造、爆薬の種類。 音を出さずに対象に近づき、息の根を止める方法。 徹夜で野戦訓練やって、へとへとになってベッド に入ったら、一時間もせずに非常呼集で叩き起こ されるなんてこともしよっちゅうだった。脱落者 はある囗突然いなくなり、その後どうなったか誰 も知らないし、知ろうともしない。殺されてるん じやないかって噂だけが流れて、残った者はます ます必死になるしかなかった。だんだん空きベッ ドが増えてゆく大部屋で、毎晩誰かのすすり泣く 声を聞きながら眠りにつく。そんな毎日の最後の 仕上げが、沖縄でやったアメリカ海兵隊を敵に同 しての野戦訓練だった」  その言葉が教える現実は、国防問題を棚上げに する一方で、自身の権益と体面を守る暴力装置の 育成には惜しみなく金をかけ、人材を割いていた お上の腐りきっだ性根だった。「平和という怠惰 に浸りきっていた者たちが、外界の冷たい空気か ら身を守るために創り出した装置」と言った東馬 の言葉が、今は護の背中に重なって平には聞こえ た。  「VMEF(沖縄第三海兵師団)の歩兵連隊を相手 にした模擬戦。最低限の装備だけを持って、海兵 どもが待ち伏せてる北部訓練場を二人一組で縦断 突破する。捕まれば催涙ガスの洗礼が待ってるっ てんで、みんな必死だったけど、一年やそこらの 付け焼き刃が精鋭に敵うはずもない。最初の一日 で半数がやられて、二日目でさらにその半分。一 週間の日程を生き延びたのは、おれと夏生二尉の チームを含む三組だけ。ゴールにたどり着けたの は一組だけだった」  そこで言葉を切った護に、平は「彼女か」と続 けた。頷いた頭に、少しの誇らしさが漂ったよう に見えた。  「それも、途中で足をくじいた相棒を背負ってな。 ぼろぼろのありさまだっだけど、帰隊報告までぴ んと背筋を伸ばしてて、それが済んだ途端ばった り倒れた。自分よりずっと重たい男を担いで、飲 まず、食わず、眠らすの一週間を耐え抜いたんだ。 噂はVMEFにも広かって、あいつの名前は伝説 になった。沖縄のアテナ(知恵・戦術の女神)つて のが連中の付けたあだ名だったけど、誰かが珊 瑚って意味の沖縄言葉を持ち出してきてからは、 それがあいつの名前になった」  ウルマという記号が、理沙という少女と重なっ て不可分のイメージを形成した瞬間だった。「そ れがウルマ、か」と呟いた平に頷くと、護は少し だけこちらに顔を向けた。  「もっとも、当人はそれからしばらく起き上がれ ないほど衰弱してた。後で聞いた話じゃ、なけな しの水と食料もほとんど動けない相棒にやってた んだそうだ」  華奢な体に秘めた、母性のたくましさ。惚れる のも無理はないと思い、「やさしいんだな」と 言った平に「意地っ張りなんだよ」と返し、護は 向けかけた顔を背けてしまった。  「仲間を置き去りにするなって鉄則を、頑固に守 り通しただけだ。……そんなもの、現場じやなん の役にも立だないのに」  ぼそりと付け足した声に、地下水脈の湿りが あった。すぐ隣にありながら、まったく別の世界 を生きてきた護の背中が、薄闇の中で静かに浮き 立っていた。  「キャンプを卒業して、夏生二尉の下に配属され てからすぐにそれがわかった。おれたちは機械な んだ。国益っていう、見えない城を守るために作 られた機械。近づいてくる者を威嚇し、騙し、陥 れて、時には……」  そこで言い澱んだ護は、膝を抱いた手のひらを ジーパンで拭うようにした。そこに見えないなに かがこびりついてでもいるかのように。  「国家がその益に反すると見做せば、その者はも う国民ではなく、取り除くべき障害でしかなくな るって理屈だ。任務にはいちいち優先度がつけら れてて、自分や仲間の命は端から無視されてる。 捨て駒でしかないんだ。任務の遂行が唯一の価値 で、それが生き続ける理由になる。あてにできる のは自分だけ、誰も信じることができない。そん な中でも、ウルマはへこたれなかった。文句ひと つ言わずに任務をこなしてた。あいつがいる限り、 おれも負けずにやり抜こうってそう思ってた。  それを、東馬は盗み出した。確実に死ぬとわ かっている、バカな計画のために……’・」  拳を床に打ちつける鈍い音がした。石になって いる護の背中が、内奥でたぎる熱に押されて揺れ たようだった。  「一級の外交カードで身を守っている東馬…… トウエルブには誰も手が出せない。でも内事部の 資産であるウルマは、おれたちに取り戻す権利が ある。その理屈で、あんたを人質にした回収作戦 が始まった。ウルマは自分の意思で離反したわけ じゃない。教官だったトウエルブに言われるまま 動いてるだけだ。だからあいつを回収して、トウ エルブの情報を喋らせることができれば、処罰 だって免れるかもしれない。そう言った由梨を信 じて、おれも作戦に加わった。それなのに……あ いつはウルマを殺そうとした」  「現場指揮官としては、やむにやまれぬ選択だっ たんじやないか?」  あの騒ぎの中で由梨が束の間見せた、肩に宿る 孤独な色を思い出して言った平に、「そんな立派 なもんじやない」と護は吐き捨てた。  「あいつは、トウエルブに恨みがあるんだ。ウル マの回収なんて二の次。それを糸口に、トウエル ブに近づこうとしただけだ」  東馬の名を口にするたび、苦味を覗かせていた 由梨の顔が思い出された。まったく別のなにかを 示唆する言葉と思えたが、もういちど拳を床に打 ちつけた護に聞き返す気にはなれず、平は沈黙を 通した。  「ウルマを連れ戻す、それしか頭になかった。そ れで、気がついたらこうなってた。……もう局に は戻れないってことぐらいわかってる。でも、こ こにいたっていつかは殺されちまうんだ。だから おれは……」  理沙に脱出を呼びかけて、斷られた。東馬を守 るという使命で自らの空白を埋めている理沙に、 自分の立ち入る隙はないと思い知らされたI。 長い話を締め括った静寂に、平は息を吐いて天井 を仰いだ。  偏差値教育と競争社会の悪趣味な風刺圉を思わ せる生活の中、裏を返せば競争相手でしかない周 囲との間に壁を作り、家族もなく独り閉じこもっ ていた護の心を支えたのは、組織の保証などでは なく、理沙への想いだったのだろう。なにも信じ られない世界で、それがあるから生きてゆける希 望。護にとっての理沙。理沙にとっての東馬? では東馬にとってのそれはなんだ。由梨にとって は? おれにとっては……冫。  「先のことなんかわからない。一生逃げ続けるだ けかもしれない。でも、一緒ならなんとかなる。 してみせるって思ってた」  虚無に引き込まれそうな沈黙を破って、護が 言った。月の光を落とした肩が、かじかむ心を抱 えてすぼめられていた。  「でももうおしまいだ。あいつは東馬と行く道を 選んだ。おれには行くところも帰るところもない。 生きてる意味もない」  その渇きは、理沙や東馬、自分にもある渇きと 同種のものでありながら、前向きな癒しを知って いるという点で違っていた。得られずに苦しんだ としても、そこには間違いなく明日に繋がる希望 がある。平は「そいつはどうかな」と、独り言の ように口を開いていた。  「あのダンプの中で、彼女は無理に起き上がって おまえを眠らせた。放り出すことだってできたの に、わざわざここに連れて来る方を選んだんだ。 全然気のない男にすることじゃないと思うがね」  わずかに振り向いた護の顔は見ずに、平は軽く 埃を払った床に横になった。仄かに差し込んだ胸 の温かみに、冷たいコンクリートの感触も苦にな らなかった。  「信じようぜ。明日は今日よりいい日になるって な」  なにも絶望する必要はない。搜せば、希望はそ こにある。その思いを抱いて、平は目を閉じた。  いつもそうだった。悪戯をしては、暗い物置に 閉じ込められる。謝れば出してやると外から聞こ える声を無視して、頭の中に付けてある『いつか 殴ってやるリスト』をめくり、復讐計画を練って みたり、出世するものと決めていた将来を思い描 いてみたり。物置の暗闇は、誰にも邪魔されずに 自由に想像の翼を広げられる唯一の場所でもあっ た。ストレスだらけの施設暮らしの中、進んで規 則を破り続けたのは、疲れた心が孤独を求めてい たからなのかもしれない。今度もそう? と自問 して、由梨は苦笑と一緒にそれを否定した。  全然違う。機密資料の不法閲覧は、謝って許し てもらえる類いの罪ではない。もう出ていいよと 言ってくれるシスターはいないし、思い描ける明 日もないI。監視カメラのレンズが見下ろす高 い天井と、自傷防止用のマットで覆われた壁が四 方を囲む薄暗い拘置室の片隅で、由梨は抱いた膝 の上に顔を押しつけていった。  物心がついて間もなく預けられた施設は、カト リック系の教会に付設されたもので、大人たちは いつも修道服を着ていた。慈愛に満ちた子供たち の希望の家で、由梨が最初に学んだことは、自分 の持ち物からは決して目を離してはならないとい う鉄則だった。入った翌日に宝物だった熊のぬい ぐるみの首をもぎ取られ、それを学んだ由梨は、 新入りの反応を窺っていた子供たちのにやけ面に 殴りかかった後、有無を言わさず物置に放り込ま れて、この理不尽な世の中では誰も当てにはでき ないこと、そこで生き抜くためには強くならなけ ればならないことも同時に学んだ。  礼拝堂には十字架に碌にされた男の像が飾って あり、シスターたちは彼がすべての子供たちの 「父」であると説明して、どこにいても必ず見 守ってくれていること、最後には救いの手を差し 伸べてくれることを説いたが、由梨には信じられ る話ではなかった。由梨にとっての父とは、甘 酸っぱい銀杏の香りが漂う並木道で見上げた寡黙 な横顔であり、その時つないだ手のざらざらした 感触であり、自分を施設に預け、銀杏の葉が舞い 落ちる庭を振り向きもせずに消えていった背中の 印象でしかなかった。本当は追いすがりたかった のに、そうしなかっだのは、その背中があまりに も痩せて疲れていて、乗りかかったら壊れてしま うのではないかと想像したからだ。この像の男も 痩せ細っていて、おまけに重そうな十字架を背 負っている。自分を背負えるわけがないと思い、 由梨は最後までシスターたちの言葉を信じようと はしなかった。  そうして絶えず自分をけしかけ、上へ上へと指 向し続けることで精神のバランスを保ってきた 日々は、やがてこの市ヶ谷で結実することになる。 きっかけば単純だった。奨学金を得て進んだ国立 大学で、学生事務所のコンピュータに侵入して成 績データを改竄したことが露見した時、目付きの 悪い見知らぬ男たちが訪ねてきて、その才能を活 かせる職場を紹介すると言ったのだ。  別に成績が悪かったわけではない。ただ歪な人 生観を押しつける権威主義の教授と対立して、不 当に単位未修を言い渡されたことに腹を立ててし でかした(ツキングでしかなかったが、彼らは隷 属より抵抗を選んだ強情さを素質と呼び、そのた めに守衛の巡回シフトを調べ、事務所に忍び込ん でパスワードを盗み出し、手持ちのパソコンで大 学のホストコンピュータに侵入を果たした執念深 さを才能と呼んだ。奨学金が取り消される瀬戸際 とあっては斷る権利も理由もなく、実地研修で仕 事を学びながら卒業証書を手にした由梨は、第一 種国家公務員試験にもパスして、情報局の士官 コースを歩き始めた。  偽善もおためごかしもない、厳しい現実だけが 支配する地下のドブ川での生活は、彼らの言う通 り性に合っていた。ちょっとしたはずみで昨日ま での味方が敵になり、油断すればなにもかも盗み 尽くされる。そんな毎日は、施設のそれと変わる ところがなかった。誰の背中も当てにせず、ひた すら上昇するロケットのように自分を追い立て、 走り続けることが由梨の人生になった。  だが、冷戦終結と組織解体の嵐をどうにか生き 残り、誰もがそうしたようにふと自分の生き方を 振り返った由梨は、その時初めてロケットの燃料 には限界があり、それがなくなれば落ちるしかな い自分に気づいた。組織がダイスとして再編され、 以前と変わらない日々が戻ってきてもその不安は 消えなかった。  なにかが違ってしまっていた。墜落の恐怖が深 い所でしこり、すでにぼろぼろだった心を悪性の 腫瘍のように蝕んでいたのかもしれない。それを 癒し、支えたのは、再教育の訓練キャンプでふと 出会った背中たった。  没個性が前提のキャンプで、二人が人間として 向き合うようになったきっかけば単純だった。訓 練生のリストに「YURI」の名前を見つけた彼 が、いい名だと話しかけてきたのだ。  後で白状させたところによると、昔の恋人の名 前だったらしい。その時はなにも考えず、他人は すべて競争相手と考えている常で男を睨みつけた 由梨は、あたしは気に入ってませんとにべもなく 答えた。父親が付けた名前だからIそんな言葉 を付け足してしまったこと自体、すでに彼になに かを感じ取っていたのかもしれない。割れたガラ スの断面がぴったりと合わさったかのように、二 人は互いを補い合うものになった。年齢の差や立 場の違いはすぐに意味を失い、由梨はひとりの女 として彼に心を委ねるようになっていった。  奪られる心配も、墜ちる恐怖もない時間。生ま れて初めて得た安心と充足は、しかしまったく予 想外のところからのびた手に掠め取られ、ある囗 突然消えてしまった。再び置き去りにされた由梨 には、また奪られたという思いだけが残った。奪 られたものを奪り返す。そして奪った奴には思い 知らせてやる。その思いだけが膨れ上がり、ぬい ぐるみを壊された時のようにがむしやらに殴りか かっていった。その結果が、再び物置の暗闇を呼 び寄せることになるとは考えもせずにI。  電子錠の外れる軽い金属音が、物思いの時間を 終わりにした。顔を上げた由梨は、開ききったド アの向こうに逆光を背にした長身が立つのをぼん やりと見上げた。  「少しはクールダウンできたかな。夏生二尉」  影で塗り潰された表情は読み取れなくても、そ の声に含まれた冷気は十分に伝わってくる。背後 に大柄の部下二人を従えた古武正巳を見上げ、 『いつか殴ってやるリスト』の上位にその名前を 書き加えた由梨は、そのままの姿勢で「どう見え ます?」と言ってやった。  「君の噂は聞いている」微塵も揺るがない顔で続 けると、古武は部下を室外に残してドアを閉めた。 「資格・能力ともにトップレベル。少々独断専行 が過ぎる嫌いがあるが、それも才能の内だ。命令 がなければなにもできん者よりは、当てにでき る」  「光栄です。外事本部長直々にお褒めの言葉がい ただけるなんて」  検挙に立ち会っただけでは気が済まず、聴取ま で自分でやろうというのか。内務監査室も交えな い密室を見回し、怪訝な目を上げた由梨を無視し て、古武は床と一体成型されたベッドに腰を下ろ した。  「《キメラ》の存在に気づいた経緯を教えてもら いたい」  弛みかけた空気に突き立つ、刃の切っ先の声 だった。同時に瞬きしない古武の目が向けられ、 由梨は思わず顔を背けてしまっていた。  「……名前だけなら誰でも知ってます。この狭い 穴蔵で、あれだけの規模を持つ作戦を完全にシー ルするなんて不可能なことですから」  「だが君はそれを沖縄に関する日米共同の作戦と 見抜き、トウエルブの件と結びつけて考えた。な ぜだ?」  なにもかも知り抜いた古武の言葉に、自分の迂 闊さとあらためて向き合わされた由梨は、「…… マークされてたんですね。あたし」の声と一緒に すべてを納得した。そうでなければ、こうも早く 井島の端末を使用したことが露見するはずもない。 《キメラ》を嗅ぎ同っていた自分がいつかは尻尾 を出すことを見越して、古武はその情報を与え得 る井島の端末を密かに監視させていたのだ。無言 の古武を見上げ、飛んで火に入ってしまった自分 を嘆息した由梨は、仕方なくそれしか頭になかっ たこの半年あまりの時間を振り返った。  「不自然なことが多すぎたからです。トウェルブ が謀反を起こし、在日米軍へのテロを始めた経緯。 それを追っているうち、《キメラ》のコードにつ き当たりました」  「不自然と思う根拠は?」  「世界戦略の要である沖縄をあっさり投げ出し、 テロリストに膝を屈したアメリカの態度がひとつ。 これまでの彼らなら、要求をはねつけることはも ちろん、ダイスの一員であったトウェルブの犯行 は日本政府に責任があるとして、その攻撃によっ て被っだ損害の全額負担をつきつけてくるのが本 当のはずです」  腕と足を組み、音楽でも聞くように目を閉じた 古武を視界から外して、由梨は続けた。  「『BB文書』を握られているとはいえ、ろくに トウェルブヘの対策を考えなかった我々や赤坂の 無能もひとつ。監視や尾行を封じられていると いっても、偵察衛星も使わず、武器供給ルートも 追及しようとしないバカ正直さは納得できません。 それともうひとつ、これがいちばん納得いかない 点ですけど、アポトーシスHのデータが盗み出さ れ、トウェルブの武器になった不自然」  壁に背を預けた古武は、眠ってしまったかのよ うに動かない。言葉を切ってそちらを見ると、 「続けて」の声が静かな横顔から発した。掌中の 虫である自分を意識して、由梨は視線を壁に戻し た。  「アポトーシスHは、もともと我々がオリジナル に作製したものではありません。一昨年、うちの 所有するスパコンから防衛庁の基幹ネットワーク に侵入し、市ヶ谷を停電と火災の混乱に陥れたコ ンピューターウイルス、アポトーシスをバージョ ンーアップしたものです」  補修跡の残る壁が、当時の混乱の傷痕を物語っ ている。マスコミには送電ケーブルのショートが 誘発した火災と発表されたが、外部からのアクセ スはゼロ、ユーザーも極端に限定される情報局の ホストコンピュータにウイルスが侵入できた理由 については、ダイス関係者にも未だ明確な説明が なされていない。局の再興を目論んだ過激分子が、 在日の北朝鮮工作員を巻き込んで引き起こした事 件とする説が有力だったが、当時は訓練キャンプ にいた由梨に言及できる話ではなかった。薄く開 いた古武の目が注がれるのを感じつつ、由梨は言 葉を次いだ。  「取り憑いたプログラムとともに心中……つまり 自らを削除するよう設定されているアポトーシス ですが、火災でシステムの一部が停正しだのが幸 いして、ワークステーションに入り込んだ一匹を 消滅前に捕獲することができた。以後、コン ピュータに対する認識も改まって、防衛庁は米軍 のDDNの向こうを張ったIDDNの実用を本格 化。ダイスもインフォメーションーウォーを想定 して、捕獲したアポトーシスの研究・調査を進め てきた。そうして完成したのが、アポトーシスH。 核と同等の破壊力を秘めた究極のCVWです」  「そうだ。だからこそトウェルブはたったひとり で米軍に勝利することができた」  「問題はそこです。兵器として完成したのであれ ば、当然ワクチンープログラムも存在しているは ずです」  彫りの深い古武の顔に刻まれた微笑は、期待通 りの答案を受け取った教師のものだった。墓穴を 掘っている自分を感じながら、由梨は残りの口を 開いた。  「制御できないものは兵器とは言えません。アポ トーシスHが敵国の手に渡り、我々が感染の危機 に曝された時、なにも打つ手がないというのでは 冗談にもなりません。公表されていなくても、ダ イスにはワクチンが存在しているはずですし、各 方面本部のホストコンピュータにはすでにそれが 処方されていてしかるべきです。トウエルブがそ のすべてを盗み出せたとは到底考えられません。 ということは……」  「我々はアポトーシスHを無力化するワクチンを 持っている。それを供与すれば、米軍を救うこと ができる」  「……そうです。そしてそのことは、赤坂も気づ いているはずです」  これで古武の試験にパスしてしまったことを 知った由梨は、口を閉じて次の展開を待った。  ダイスー日本政府は救う手立てがありながら 米軍を見殺しにしていて、アメリカ政府もそれを 知りつつだんまりを決め込んでいる。納得できな かった構図は、《キメラ》の資料を読んだ今では すべて説明することができる。日米両政府−正 確にはその手足たるダイスとCIAが手を組み、 自身の首を絞めつける「体面」を殺すために仕掛 けた、大がかりな狂言計画。その発案者のひとり にして、利害調整の全権を担っている外事本部長 が、自ら網を張って深部に入り込んでしまった部 外者を捕えたのは、単なる気紛れではないだろう。 釈放を餌に、なにかの役目を押しつけるつもりで いると見るのが自然だった。バカでも利口すぎて も務まらない、いくらでも代替えのきく木端士官 だからこそさせられる、なんらかの汚れ役を。  沈黙を柢い笑いで破った古武は、「けっこうだ。 君は期待以上にきれる人のようだ」と言ってベッ ドから立ち上がった。  「調査というものは、情報収集力の問題ではなく、 認識力の問題だというのがわたしの持論だ。その 意味で、君は極めて優れた調査能力を持っている と言える。大所帯の弊害というべきか、近頃は想 像力の乏しい人間ばかりが増えてしまったから ね」  正面に立った古武の顔を見上げる気にはなれず、 由梨はよく磨かれたフェラガモの靴に「それはど うも」の声を返した。  「確かにその通りだ。《キメラ》の資料を読んだ 君にあらためて説明する無駄は省くが、これは囗 米両政府の相互利益、いや来世紀の世界展望をも 含む重要な作戦でね。東馬三佐も、そのことを承 知した上で要のパートを演じてくれていた」  物は言いようだった。要のパート。意味は同じ でも、人柱よりは聞こえがいい。「古武一族の栄 達のため……ではないのですか?」という皮肉を 苦笑で受け流し、古武は暗い穴のような瞳を由梨 に向けた。  「手厳しいな。作戦が予定通り進めば、確かに国 防族で鳴らした義父の株も上がるし、防衛産業に 食い込んでいる血筋も潤うことになる。だがそん なものは、連中に永田町を説得させるための餌で しかない。《キメラ》の本意はもっと別のところ にある。……でなければ、東馬ほどの男が手を貸 すはずはない。彼が金で動くような人間でないこ とは、君もよく知っているだろう?」  まだ出血の止まらない傷口を抉る言葉だった。 睨み上げた由梨の目を微笑で遮り、古武は壁に背 を預けた。  「自己完結した防衛力の整備。その部分において、 《キメラ》と東馬の利害は一致したということだ。 無論、危険な役目を演じてもらうための報酬は支 払ったがね」  「報酬……冫・」  「自由だよ」両目に穿たれた暗い穴が、底知れぬ 深みから発する微光を宿していた。「『BB文書』 とともに、長いあいだ暗い穴蔵に封じ込められて いた東馬にとって、それ以上の報酬はない。誰の 手も届かない第三国への出国許可と、監視措置の 永久解除。《キメラ》への協力を条件に、わたし は東馬に自由を与えると約束した。……簡単に聞 こえるかもしれんが、彼をこの国から出すという のは、それだけでも大変な手間隙がかかることで ね」  それはそうだろう。『BB文書』が単なる機密 書類ではなく、東馬とセットで初めて効力を発揮 するカードであることは、《キメラ》の資料から も類推できた。二つの国家を揺るがす爆弾ととも に、ダイス内部で飼い殺されてきた東馬は、存在 自体が一級の外交カードと見做されているのだ。 その不可侵性を《キメラ》に利用するため、古武 は自由を約束したと言うが、この地球上に彼が普 通の人間として生きられる場所があるとは思えな いし、温存していたカードを本気で手放すほど、 ダイスがお人好しであるとも思えない。「そんな 口約束を信じて、トウェルブになることを了承し たなんて……」と苦笑混じりに呟いた由梨に、古 武は初めて感情の一端を覗かせた。  「それは我々が与えた名ではない。行動を開始し た彼が、自分で使い始めた名だ」  硬質な怒りを孕んだ声に、思わず顔を上げた由 梨から目を逸らして、古武は停正している監視カ メラのレンズを見上げた。目を閉じ、破れかけた 感情の蓋を繕うようにしばらく沈黙すると、「本 題に入ろう」と冷静さを取り戻した声が言ってい た。  「《キメラ》が終了を間近に控えた今、トウエル ブは報酬に追加条項を付け加えてきた。そしてそ れが充たされるのであれば、『BB文書』を引き 渡してもよいとまで言ってきた」  電気を受けたようにぴくりと動いた肩を見下ろ して、古武の静かな声が続いた。  「自分の命の保証書を差し出しての頼みだ。ぜひ 叶えてやりたいところだが、問題はそれが到底、 実現不可能な点にある」  この状況下で自らの不可侵性を捨てるのは、真 空の宇宙空間で裸になるのと同じ、まったくの自 殺行為だった。そうまでして要求してきた、決し て実現できない追加報酬−。口を閉じることも 忘れた由梨に背を向け、古武はマットの壁を指で なぞるようにした。  「無論、彼もそれは承知している。にもかかわら ず、トウェルブはその追加条項が認められないの であればすべての取引を反故にすると通達してき た。《キメラ》の公表、アポトーシスHを使った 米軍基地へのテロ。切り札は依然、彼の手中にあ る」  ジョンーフイリップスをそつなく着こなした古 武の後ろ姿は、白人のように見える。意外ともや はりとも思える事実との直面に肌が粟立つ一方、 ふと自分を置き去りにしていった男の背中が古武 のそれに重なって、由梨は視線を逸らしていた。  「最初からそれが狙いだった。すべてのカードが 壬兀に集まる、この瞬間を彼は待っていた。利用 されていたのは我々の方だったということだ。 たったひとつの願いを叶えるために……」  沖縄海兵隊撤退の目的を果たした後も、トウェ ルブがテロをやめなかったわけ。それまでの電子 的攻撃に物理的攻撃を織り混ぜ、恫喝をエスカ レートさせていったわけ。手出し無用の防壁が崩 れ、各国の情報機関がトウエルブの周辺に徘徊し 始めたわけI。この一週間、急激な変化を迎え た事態の理由がそれですべて説明され、口中の舌 打ちと一緒に目を閉じた由梨は、複雑怪奇な、そ れでいて根は単純な事件の経緯を振り返っていっ た。  トウエルブは裏切ったのだ。自由と引き換えに 《キメラ》の実行者になることを了承した東馬は、 任務完了と同時に叛旗をひるがえし、古武たち 《キメラ》関係者に「追加報酬」の要求を突きつ けた。その「実現不可能」な追加報酬が何である にせよ、満を持して要求の口を開いた東馬が、最 初からそれを目的に《キメラ》に協力していたこ とは想像に難くない。密かに供与された武器弾薬、 アポトーシスH、そして『BB文書』。すべての 切り札が彼の手中にあるばかりでなく、《キメラ》 実行者としての役目を果たした今、その事実も巨 大な醜聞種となって、交渉を進める材料になり得 るのだから。  利用していた「触れられない」特性が両刃の剣 となって襲いかかってきた恐怖に、《キメラ》関 係者の間にも明らかな亀裂が生じ始め、それは手 出し無用の協定破棄という形になって現れている。 公安やCIAがそれぞれ監視を開始する一方、ダ イスも由梨の上申したウルマ回収作戦を強行して、 トウェルブヘのアプローチを始めたI。愚かの ひと言に尽きる事態の真相を理解し、目を開けた 由梨は、いつからかこちらを見下ろしていた古武 の顔を正面に見ることになった。  「この種の作戦は椅子取りゲームに似ている。音 楽が鳴っているうちはいいが、鳴り止む気配を感 じ取ると、誰もが他人を押しのけて座る椅子を確 保しようと躍起になる。複数の国と組織が乗り入 れている《キメラ》ではその傾向も一入だ。横須 賀のオイルーターミナル襲撃でトウェルブの本気 が証明されるや、『BB』の漏出も構わずに彼を 片付けてしまおうとする者までが出た」  そこで言葉を切ると、古武は秘密を独占する者 特有の笑みを口許に刻んだ。  「嘆かわしいことだ。最後のカードはこちらの手 中にあるというのに」  それぞれ命令系統の異なる情報機関が複数軒を 連ね、互いの縄張りや権益を巡って睨み合いを続 けているアメリカの事情は、囗本のそれと変わら ない。《キメラ》の箍が弛み、『BB文書』のバリ アー効果が薄れ始めている現在、それまでノー タッチを強いられてきた国防情報局や 国家安全保障局が動き出す可能性は、十分にあっ た。ペンタゴンの傘下で、軍隊出身者を多数抱え ている彼らが、軍の面目を丸潰れにする計画を快 く思っていないことは明白で、トウエルブの暴走 に焦ったホワイト(ウスが《キメラ》から手を引 く気配があれば、喜んで清算役を買って出ること は間違いない。軍に取ってば自身の権益維持が最 優先であり、『BB』流出による国益の失墜など は、二義的なものでしかないのだから。  彼らが非合法の手を動かせば、トウエルブの命 などは簡単に消し飛ぶ。決められたシナリオから はみ出し、「たったひとつの願い」を叶えるため の行動を開始したトウエルブは、当然それを予測 しているはずだったが、古武の言葉は、そのさら に上をゆくなにかの存在を暗示していた。ペンタ ゴンはもちろん、《キメラ》関係者も知らない、 古武だけが知る最後のカード。顔を上げた由梨に、 古武は「《キメラ》の語源を知っているか?」と 微笑してみせた。  「神話に出てくる怪物に因んで、組織単位で混ぜ 合わされた実験動物のことをそう呼ぶ。しばらく の間は生きていられるが、すぐに死んでしまうん だそうだ。別の生物から由来している免疫中枢に、 脳を破壊されてね」  背筋を這う声音は、単に怜悧というのではない、 この男の芯を形成する溶けない永の存在を想像さ せた。ゆっくリドアの前に移動すると、古武は由 梨の顔をぴたりと見据えて続けた。  「キメラは長生きできないと相場が決まっている。 自分の免疫で自分を殺してしまう哀れな合成生物、 それがトウエルブだ。……君には、その最期を見 届ける役を務めてもらいたい」  予想もしなかった衝撃が体を揺らした。いちど 跳びはねた後、猛烈な勢いで鼓動を始めた心臓の 音を聞きながら、由梨は「……なぜあたしに?」 の声をどうにか絞り出した。  「利害が一致するからだ。君には、東馬への恨み がある」見下ろした目を動かさず、古武は答えた。 「人に取り入り、騙し、裏切るのが我々の商売だ。 そんな連中に、国家や組織、友人への忠誠を期待 するのはナンセンスなことだと思わないか? そ の点、君は非常にわかりやすい動機を持ってい る」  この半年、ひたすらトウエルブを追い続けてき た理由、自分の胸にだけしまっておいたつもりの 感情を知り抜いている声だった。上昇する血圧が 呼吸を苦しくさせ、筋が浮き出るほど両の拳を握 りしめた由梨に、古武は最後の言葉を付け足した。  「わたしが唯一信頼するもの……それは怨念だ。 君にはそれがある」  そう言った古武の背後には、この暗い拘置室か ら抜け出すためのドアがあった。引き受ければ、 古武の道具として《キメラ》の後始末に組み込ま れる運命が待っており、断れば、これまでのキャ リアも自由も失われ、残る人生を敗残者として過 ごす運命が待っているI。  考えるまでもない。むしろトウェルブの追跡を 続けられるのは願ってもないことだ。立ち上がっ た由梨は、古武の申し出を受けることにした。  引き返せない一歩を踏み出した瞬間だった。そ の時点でただの二尉ではなくなり、特務士官とし て、臨時のSARも授けられると古武に聞かされ ながら、由梨は未知に続くドアだけを見据えた。  それがさらなる暗闇への入口であったとしても 構わない。奪られたものは、自分で奪り返すしか ないのだから。  そのプレ(ブ小屋は、家からIキロほど離れた 空き地の中にあった。造成途中で放棄された荒れ 地は、ゴルフ会員券が投資対象として注目され始 めた頃に建設が始まったカントリークラブで、施 工主の会社が倒産してからは、債権者同士で所有 権を巡る係争が続いている。「私有地につき立入 禁止」の文字が記された看板は倒れて久しく、一 度は削り取られたはずの雑草に覆われて、敷地を 囲む鉄線がなければ誰もその存在に気づかない。 午前五時、夜明け前の闇が包む空き地にたどり着 いた理沙は、暗視装置を外すと慣れた手つきで鉄 線をくぐり抜け、プレ(ブに近づいていった。  平屋作りのプレ(ブは二つ作られた工事事務所 のひとつで、撤去されずに放置してあったのを、 坂部が「別荘」と称して勝手に使っているものだ。 割れた窓ガラスが散乱する床に、事務机やカラー コーンが放り込まれ、壁際には吹き込んだ枯葉が 堆積している。月も姿を消した暗闇はのばした手 の先も見えないほどだったが、極限まで研ぎ澄ま された理沙の五官は、床の一端にある配線用(ツ チが度々の開閉を示して埃が払われているのを見、 その下で稼働する発電機が柢い振動音を立ててい るのを聞いていた。  いつもの符牒で合図すると、薄く開いた(ツチ から銃口と一緒に険しい目が覗き、ぽつねんと立 つ理沙の姿を確認した後、坂部が顔をつき出して いた。  「ご苦労さん。異常は?」と言ったまる顔に、 「ないわ」と短く答えると、理沙はいつもそうす るようにドアの脇に腰を下ろし、初弾を装垠した ベレツタF92自動拳銃を右手の脇に置いて、薄い 壁に背を預けた。  一日に数回行うパトロールの範囲は、坂部家を 中心に半径ニキロに及ぶ。止まっている車、枝に そって這わせた盗聴マイクやカメラのワイヤーの 有無を確かめ、襲撃時に移動しながら応戦できる よう、各所に隠した武器の作動を定期的に確かめ てゆく仕事は、特に夜の場合は無音行動という制 約が付くために三時間近くかかってしまう。家で 数時間仮眠を取ってからパトロールに出かけ、ひ と回りしてこのプレ(ブ小屋に戻ってくると、地 下で作業しているトウエルブと坂部を待って、夜 明けまで再び短い仮眠を取る。ここで暮らすよう になってから半年、一日も休まずにそのローテー ションを繰り返している理沙は、目を閉じて束の 間の休息に入っだ。  最初の頃は、トウエルブの抹殺を目論んだ米軍 傘下の情報部が、市ヶ谷や赤坂の目を盗んで入り 込んでくることもあったが、《キメラ》協定が徹 底されるに従ってそれもなくなった。その《キメ ラ》に真っ向から背いている現在、いつ敵が侵入 してきてもおかしくなく、いつも以上に慎重に見 回ったつもりだったが、少なくとも目に見える範 囲にそれらしい気配はなかった。  平を確保してしばらく、トウエルブが霞が関W ANに流した「警告」が効いているのかもしれな い。外務省を除くすべての省庁が乗り入れている 政府専用の情報ネットワーク回線に、トウェルブ は人名などの要所を塗り潰した《キメラ》の作戦 計画書を流し、今後自分とその周囲に干渉する動 きがあれば、無修正版をインターネットに流すと 市ヶ谷に通告したらしい。どれだけ効果があるか はわからないが、当座の時間が稼げれば問題はな いと理沙は思っていた。  じきにここでの生活も終わる。それまではトウ ェルブの命令を遂行していればいい……と思い、 浅い睡眠に落ちた理沙は、決して眠らない脳の一 部に、「……で、あの二人、どうする気なんだ?」 という坂部の声を捉えていた。  「まだ決めてない。頃合を見て放すつもりだが」 とトウェルブの声。平と護の話だろう。パソコン のキーボードを叩く休みない音が、人差し指だけ で器用にキーを操る坂部の姿を想像させる。プレ (ブの地下に掘られた手製の塹壕は、市ヶ谷や赤 坂から供与された武器の貯蔵庫であると同時に、 数台のパソコンが機能する簡易電算室としても使 われていて、トウェルブと坂部は夜中になるとそ こにこもり、米軍ネットワークのセキュリティを ブレイクするプログラム作りに熱中するのを常と している。家の作業場に並べてあるパソコンはダ ミーに過ぎない。大きな体を窮屈そうに折り曲げ、 膝の上にキーボードを乗せて「おれの指は太いか ら、この方がやりやすいんだ」と、人差し指を動 かす坂部の姿はどこか滑稽だったが、その打ち込 み速度はなまじのブラインドタッチの比ではない。 カタカタと続く音の中に、再びその柢い声が混 ざっていった。  「危険だな。『BB』の効果も切れかけてる。一 緒に連れてったらどうだ? 辻井って小僧は理沙 にまいってるようだし。あの平とかって男も、元 は海兵旅団にいたんだろう?」  トウエルブは答えない。代わりに「もう中革同 の援助も期待できない」と坂部の声が続いた。  「人手は多い方がいいと思うがね」  中革同−中央革命共産主義同盟は、坂部が所 属していた左翼セクトの名前だ。衰退一途の極左 暴力集団だが、坂部がどういう口利きをしたのか、 「「イサイーネット」という沖縄解放を求める市 民団体を隠れ蓑に、これまでなにかと支援活動を してくれていた。一昨日の作戦で使った二台のダ ンプと運転手も彼らが用意したもので、それが最 後の援助になるだろうことは、理沙もすでに聞か されていた。彼らには、トウェルブと心中する義 理もつもりもない。  「そうだが……」と歯切れの悪いトウェルブの声 が応じる。キーボードを叩く音が一瞬途絶え、 「巻き込みたくない、か」と微笑を含んだ坂部の 声が続く。少しの沈黙の後、「……ゝつまく走りそ うか?」と話題を変えたトウェルブの声が床の下 に響いていた。  「シミュレーションでは万全だ。問題は、こいつ を流し込み終えるまでサービストンネルに留まれ るかどうかだ。今までみたいな遊びじやないって ことは、連中もわかってるだろうからな」  米軍ネットワークのプロテクトを破るプログラ ムは、市ヶ谷から渡された情報を基に、坂部が独 力で組み上げたものだ。「たいしたものだな」と 言ったトウエルブに、坂部は得意気に鼻を鳴らし たようだった。  「知ってるか? (ツキングやウィルスの防止を 生業にしてるセキュリティーコンサルの連中は、 世界規模で情報交換やってんだ。今月はこんな ウィルスが発見されました、当方はこうしてプロ テクトをかけてますってな。それを盗み聞きして りゃ、大抵のセキュリティ技術は手に入れること ができる。米軍だって例外じゃない」  大型計算機と呼ばれていた頃からコンピュータ をいじっていた坂部は、公安のブラックリストに 名前を掲げられさえしなければ、その世界で十分 以上の成功を収められた男だ。いつかトウエルブ が言っていたことを思い出し、染み込んでくる肌 寒さにブルゾンの襟に顔を埋めた理沙は、「でも な……」と続いた坂部の声を遠くに聞いた。  「本当にいいのか? 『GUSOHの門』が開け ば、あの島は五十年前と同じ……いや、それ以上 の地獄を再現することになる。それは、世界全体 を収拾のつかない混乱に叩き込むことになるかも しれんぞ」  「彼らが要求を呑めば、そんなことにはならない さ」  「でもそれはあり得ないI」そこで言葉を飲み 込んだ坂部は、再びキーボードを打ち始めたよう だった。「……まあいいさ。ここからは《キメラ》 とは関係ない、正真正銘あんたの戦いだ。おれば 黙ってつきあわせてもらうよ」  「すまないな……」 「よせよ。思想だの理念だのって能書きは、背中 の皮と一緒に燃え尽きちまったがな。受けた恩義 には報いなければならないって真理だけは、忘れ てないつもりだ。優子もそれは了解してくれて る」  沈黙の間に、キーボードを叩く音だけが続く。 「……おれだって、けじめはつけたいしな」と締 め括ると、坂部は手を休めて立ち上がったよう だった。  床下から移動する気配が伝わり、梯子の軋む音 の後、その顔が(ツチから覗く。「理沙」とかけ られた声に目を開けると、「悪いな。寝てたのか」 と言った顔が微笑していた。  「おばさんに、朝飯こっちに運んでくれるよう頼 んできてくれないか? もうちょっとかかりそう なんだ」  五分に満たない睡眠でも、疲労の膜が一枚剥が れ落ちた体は軽くなっていた。頷いた理沙は、プ レ(ブ前の盛土を飛び越えるようにして家への道 をたどっていった。  黒一色たった空か、濃い群青色に移り変わって ゆく。午前五時半、優子はそろそろ目を覚まして いるはずだ。そう思うと自然に足も軽くなり、理 沙は五官のセンサーが異常をキャッチできるぎり ぎりの速さで、砂利敷きの間道を進んでいった。  湯沸かし器が唸り、野菜を切る規則的な音が聞 こえてくると、味噌汁の匂いが庭にまで漂い始め る朝のひと時。優子の人柄を表現しているように、 ふんわりと体を温めてくれる味噌汁の味は、初め て口にした時には真実驚かされたものだった。  宿舎で出されるものや、缶詰のものとまるで味 が違う。肉や魚料理も、使われている調味料は同 じなのに未知の料理のようで、ちょっとした火加 減なのよと聞かされても、すぐには納得すること ができなかった。味には人それぞれ好みがあるか ら、理沙っちゃんの舌がたまたまうちのと同じ だったのかもね。優子はそう言い、それまでは食 べられる草と食べられない草の見分けしかできな かった理沙に、いくつかの料理法も教えてくれた。 任務に必要なことではなかったが、トウエルブが 許可してくれたので、それからは暇があれば食事 の支度を手伝うようになった。  そうしていると、それまでなにもなかった空白 にもやもやしたものが染み出してきて、胸が苦し くなり、いたたまれない衝動に駆られることもあ るのだが、それが何なのかはわからない。ただ電 気釜の使い方も知らなかった理沙に根気よく料理 を教え、「理沙っちやん」と独特の呼び方をする 優子の声を聞いていると、安心することができた。 任務を達成した時の安息とは違う、もっと柔らか で、もっと温かい安心感。どう応えていいのかわ からず、黙りこくるしかない身に呆れることもな く、優子は嫌じゃなければと理沙の服に刺繍もし てくれた。  舌を出したダックスフントのワンポイントは、 いま着ているブルゾンの内ポケットにも付いてお り、触れるとカイロのような仄かな温かみが伝 わってくる。いつか赤外線を遮断する特殊繊維で 織られた戦闘服にもそれを付けようとして、坂部 に叱られていたこともあった。説教に殊勝な顔で 頷きながら、ちらりとこちらを見て舌を出した優 子の顔が、ひどくおかしかったのを覚えている。 あの時、初めて自分の笑い声を聞いた。自然に喉 を鳴らした笑い声は、まるで他人のもののように 聞こえたものだった。  そうして優子をたしなめる一方で、坂部も「内 緒だぞ」と言ってば、納品や買い出しに出かける 度にプレゼントを買ってきてくれる。ウルマに因 んでか、珊瑚のネックレスやイルカのイヤリング など、海に関係するアクセサリーばかり。光った り音を出したりする物を身につける気にはなれず、 それらは菓子の空き缶に入れて庭の一角にしまう ようにしている。優子にもトウェルブにも内緒で、 たまにそれを出して眺めると、タイレノールを飲 んだ時のように疲れが取れ、頭がすっきりするよ うな気がした。充足、高揚、それに胸苦しさI。 微かに湯沸かし器の音が聞こえ、百メートル先に ある家の二階の窓に明かりが灯っているのを見た 理沙は、その手前にある使われていない危険物貯 蔵庫も視界に入れて、ふと立ち止まっていた。  平と、それに護のいる場所。そう考えただけで 古びたブロック作りの小屋が特別なもののように 見え、胸が奇妙に痛んでくる。優子や坂部に感じ るのとは別種の、奥に入り込んでくる切実な痛み は、一緒にここを出ようと言った護の目を見た時 に感じた痛みと同じだった。自分を溶かし、別の ものに変えて、これから佳境に入る任務の遂行を 不可能にする痛み。それは恐怖以外のなにもので もないはずなのに、なにか拒んではいけないよう な気もする。空白の中に入り込み、もやもやを大 きくする平の目も思い出してしまった理沙は、貯 蔵庫から視線を外して足早に歩き始めた。  生け垣を過ぎて、門扉を開ける。薄い青に染め られた庭の草木はまだ眠りの中にあったが、台所 から聞こえる水道の音がすでに始まっている今日 を告げていた。ポストの朝刊を取ると、建付けの 悪い勝手口の開く音がして、鍋を手にした優子が 顔を覗かせた。  寝巻きにカーディガンを羽織り、理沙に気づく と「おはよう」とにっこり微笑む。サンダルを つっかけて、優子は庭の一雨で地下水を汲み上げ ている電動ポンプの所に歩いていった。生活には 水道水を使っているが、味噌汁やコーヒーを作る 時は地下水を沸かして使うようにしている。朝刊 を置いてから手伝うつもりで、玄関に向かった理 沙は、不意に目の端をよぎった黒い影に足を止め た。  振り向いた時、優子はポンプのスイッチを入れ るために腰を屈めようとしていた。その向こう、 生け垣の陰から音もなく立ち上がった黒い影は、 片手で優子の口を押さえて引き寄せると、その背 中にためらいなくナイフを差し込んでいた。  理沙の手から朝刊が落ちるのと、ぽとぽとと 滴った黒い液体が優子の足もとに落ちるのは同時 たった。一瞬のけぞり、硬直した優子の表情は黒 い手袋に隠されてほとんど見えなかったが、肺を 貫いて捻ったナイフがその命を奪ったことは間違 いなかった。手から滑り落ちた鍋が、悲鳴の代わ りに軽い金属音を立てたI。  奇妙な胸騒ぎに駆られて、平は目を開けた。  まだ暗い。目の前のガスボンベがぼんやりと見 え、腕時計に時間を確かめようとした平は、いつ の間にか毛布がかけられていたことに気づいた。 隣を振り返ると、寝ているはずの護の姿はなく、 毛布だけが床の上でまるまっていた。  ぎよっとして身を起こす。コンクリの上に直寝 した体がこわ張りきっていたが、構わずに狭い倉 庫を見回した平の目に、明かり取りの脇で外の様 子を窺っている護の横顔がすぐに見つかった。起 き上がったこちらを見ようともせず、壁に身を寄 せてじっと五官を澄ましている。おはようも毛布 の礼も言う気になれなかったのは、その顔に張り 詰めた緊張の色が浮かんでいたからだ。「……ど うした?」と押し殺した声で聞くと、「妙だ。静 かすぎる」の答えがすぐに返ってきた。  言われてみて、虫の声が途絶えていることに初 めて気づいた平は、犬の聴覚で気配を窺っている 護に並んで、明かり取りの鉄格子を覗き込んだ。 明けかけた空の下、濃紺に染められた外界は風の 揺らぎひとつなく静正している。すべてがじっと 息を潜めた静寂を破り、不意に走り寄ってくる人 の足音が近づいたのは、その直後のことだった。  南京錠の弾ける大きな音が扉の向こうに響く。 ほとんど同時に護が体当たりしてきて、床に伏せ させられた平は、扉を蹴破って飛び込んできた小 柄に心臓を跳ね上がらせていた。  「逃げて。早く」  そう言った理沙の頬にこびりついた血が、誰の ものなのかはわからなかった。片手に握ったべ レツタのサイレンサーからは硝煙が白い筋を引い ており、うつ伏せのまま口半開きの顔を上げた平 は、護に襟首をつかまれてすぐに引きずり起こさ れていた。  両手に構え直したベレツタの銃口を下に向け、 扉を楯に中腰になった理沙は、ウルマに戻ってし まっているように見えた。東馬や坂部、優子は? 警戒を漲らせた背中にそれだけ尋ねようとした途 端、小さな赤い光点がそこに浮かび上がり、平は 喉まで出かけた言葉が霧散するのを感じた。  レーザーサイトの光。明かり取りから差し込ん だ複数の光線は、自分と護の体にもつき刺さって いた。赤い光点の数だけ銃口が狙っているIそ の現実を理解した頭が真っ自になり、直後、鉄格 子の隙間から拳大の鉄の塊が放り込まれていた。  ころころと床の上を転がった物体が、ボンベに 当たって乾いた音を立てる。M67破砕手榴弾。ミ カンを連想させる潰れた球体は、闇の中でも奇妙 に黒光りして見えたが、それも一瞬だった。頭に 毛布が被せられ、なにも見えなくなったところに 再び体当たりを食らい、平は倉庫の外に押し出さ れていた。  階段三段分の高床から、雑草の茂る地面へ。毛 布を被ったまま宙を舞い、落下する直前、腹を揺 する震動が背後で弾けた。猛烈な熱と気流の渦が 鼻と口を塞ぎ、上も下もわからなくなる。ひどく 長い一瞬の後、骨まで達する衝撃が背中につき抜 け、全身の力が抜けた。  こめかみの熱さが遠のき、再び耳が痛くなるよ うな静寂が周囲を包んでゆく。じわりと湧き出し た闇に引きずり込まれて、平は意識を失っていっ た。  あたり一面に漂う煤が、風に運ばれて鼻に入っ たらしい。くしゃみと一緒に体を折り曲げた平は、 目脂で滲んだ視界に知った顔を捉えて、ぼやけた 意識を覚醒させた。  無表情にこちらを見下ろす夏生由梨の後ろに、 陰鬱な曇り空か広がっているのが見えた。そこに 黒い煤がちらほらと舞い、百メートルほどの高度 を旋回するヘリが通過してゆく。恐怖症がなけれ ば、今でも目をつぶって操縦できる陸自のマザー プレーン、OH‐6Dの卵形のシルエット。腹に 響くローター音が次第に大きくなり、バカになっ ていた耳が働くようになると、遠くで鳴るパト カーのサイレンの音、焼け焦げた瓦礫を踏みしだ く複数の足音も聞こえるようになって、平は担架 の上に横たえられていた体を起こす気になった。  黙っている由梨の顔を見返し、口を開こうとし て、頭の芯に届く剌激臭に盛大に咳き込んだ。生 活を支えるさまざまな物が焼け落ち、混然一体と なった火事場特有の陰惨な臭い。傷だらけの両腕 を見、とりあえず五体満足の自分を確かめてから、 平は惨劇の傷痕を留める周囲を見回していった。  すぐ横に土台の高床だけが残った危険物貯蔵庫 の焼け跡があり、粉々に砕けたブロック塀の周囲 で、紺色の作業服が写真撮影と破片の採取を続け ている。半ば倒れ、炭になった幹から煙をたなび かせているブナが爆発の凄まじさを物語る向こう で、坂部工業も鎮火して間もない白煙を立ち昇ら せており、煤に塗り固められた庇からぽたぽたと 消火液の滴を落としていた。荒れ果てた廃墟に昨 晩の温もりを見つけることはできず、すぐに目を 逸らした平は、割れたガラスやブロックの破片が 散乱する砂利道を悄然と見下ろした。  他にも数人の作業服が行き来する一帯は、遠目 には火災現場の検証風景としか見えないが、彼ら の背中に警察や消防の文字を読み取ることはでき ない。救急車や消防車の代わりにずらりと駐車し たコンテナ車、威嚇するように低空を飛び回って いるヘリと共に、「後始末」のために送り込まれ て来た連中だろう。不発弾処理か、有毒物質運搬 車の横転事故か。嘘で固めた力上アンの内側で、 ばら撒かれた空薬莢を拾い、流された血を拭き取 る掃除人たち。最後尾トラックの荷台に、ジッ パー付きの黒い袋が冷凍マクロのように並べられ ているのを見、声を出そうとしてもう一度むせ 返った平は、「悪運だけは強いのね」という声を 先に聞くことになった。  地面に置かれた担架の脇、作業ズボンの片膝を ついている由梨の傍らには救急キットがあり、そ の隣で焼け焦げた毛布がぼろきれ同然にまるまっ ていた。ひりひり痛む体のあちこちに消毒液が塗 られているのを確かめ、咄嗟に毛布をかけてつき 飛ばしてくれた護の機転に救われた自分を知った 平は、煤まみれの顔を拭いながら「護はどうし た」の声を絞り出した。  「生きてるわ。あなたよりは重傷だけど」と由梨。 「理沙や、東馬たちは」と続けると、苦味を宿し た顔が視線を逸らした。  「逃げられたわ。ひと足違いでね。残っていたの は坂部優子ただひとり」  由梨の目が、コンテナに積まれた黒い袋を指し て止まる。なんの個性もない、ただの物体として 並べられた四つの死体袋の中に、ひとつだけ膨ら みの小さいものが混じっていた。  「即死よ。苦しまなかったと思うわ」  冷静な声が、燻る火種に油をかけた。考えるよ り先に手が動き、由梨の胸倉をつかみかけた平は、 「勘違いしないで」と言ったまっすぐな声に動き を封じられた。  「あたしたちはこんな図々しいやり方はしない。 やっだのは彼らよ」  コンテナ脇でこちらの様子を窺っていた男に、 由梨は顎をしやくる。銃把を握っていた手を懐か ら出し、男は死体袋のひとつを引き寄せて無造作 にジッパーを開けた。  中に納められていた人の形が露になり、平は絶 句した。切断された喉の周囲に凝固した血を張り つかせている三十歳前後の白人は、閉じきらない 瞼から灰色の瞳を覗かせている。黒の戦闘服に部 隊章や国旗の袖章はなく、おそらくは首の認識票 も事前に外しているだろうが、その正体は考える までもなかった。電子テロリストに痛めつけられ てきた当人たちが、ついに仕返しに乗り出してき たということだ。米軍特殊部隊の襲撃と納得し、 上げかけた腰をもとに戻した平は、ジッパーの閉 じる音と一緒に、「確認できた死体は三つ」と 言った由梨の声を聞いていた。  「あたしたちが到着した時には、彼らはもう撤収 した後だった。トウエルブたちの所在は不明。た だ武器の隠匿場所に使っていたプレ「ブの地下で、 坂部亨のものと思われる血痕が採取された」  事務的に並べた後、「わかったら行くわよ」と 括って由梨は立ち上がった。一昨日会った時とは まるで別人の、堅い鎧を身にまとった態度に顔を 上げた平を、ちらと見下ろし、由梨はすぐに視線 を逸らした。  「今のあなたは、国家機密っていう悪質な伝染病 のキャリアよ。当分のあいた隔離させてもらいま す」  「ずいぶん勝手な言い草だな。そっちの都合で巻 き込んどいて……」  鎮まりかけた火が、再び腹の中を焦がし始めた。 よろける足で立ち上がった平は、逸らした由梨の 視線に強引に割り込んだ。  「なにがトウエルブには誰も手出しができない、 だ。これを見ろ。特殊部隊が乗り込んで来て、東 馬の代わりになんの罪もない人間を殺していきや がっだ。いったいどういうことだ。やっぱり消し ましようって話が安保理事会でまとまったの か……りI」  由梨はなにも言わなかった。見えない鎧が言葉 を弾いてしまうようで、平は焦燥に駆られるまま、 そのジャケットの襟元をつかんでぐいと引き寄せ ていた。  「答えろ’・ いったいなにが起こってる。東馬は この上なにをやろうとしてんだ。おまえら は……」  瞬間、棒の先端が腹に押し当てられた。いつの 間に抜いたのか、由梨の手にクロックが握られて いた。「袋に入って行く?」と言った本気の目に、 平は襟をつかんだ手の力が抜けていくのを感じた。  同じ目付きが、いつでも抜ける銃口とともに周 囲を取り囲んでいた。由梨の無表情と数秒睨み 合った後、足もとの救急キットに八つ当たりした 平は、蹴散らかした包帯や消毒液を背にトラック の車列に歩いていった。  指定されたトラックのコンテナに乗り込むと、 護がいた。据え付けの長椅子にぽつんと座り、包 帯で被覆した上身にぼろぼろのブルゾンを羽織っ た護は、平が入ってきてもうつむけた顔を上げよ うとしなかった。  額に巻いた包帯の下の目は暗く、じっと一点を 見つめて動かない。話しかけようとして、すり切 れた手首に手錠が嵌められていることに気づいた 平は、口を閉じて向かい合う椅子に座った。  外で見張りについていた男二人が乗り込み、由 梨がそれに続いてから、トラックは走り出した。 由梨と護の顔を見ながら車に揺られるのは二度目 のことだったが、前回とはすべてが一変していた。 誰もなにも話さない沈黙の間にエンジンの音だけ が降り積もり、優子と、いずれその後を追うこと になる東馬や理沙、坂部の顔が浮かんでは消えた。  ブレーキを踏む回数が多くなり、車が信号の多 い市街地に入ったことを伝えた頃、無線連絡とと もに後続車輛から荷物が届けられた。古びたクッ キーの空き缶たった。坂部家の庭に埋められてい たもので、仕掛け爆弾の検査が済んだところだと 言う。蓋を開けた由梨の顔に苦いものが走り、中 を覗き込んだ平は、安手のアクセサリーがいくつ か、ビニールに包まれてしまってあるのを見て、 胸がしめっけられる感覚を味わった。  イルカをかたどったイヤリング、珊瑚のネック レス。どれも優子が身につけるようなものではな い。あの家にあった温もりの断片が不意につきつ けられ、すぐに目を逸らした平は、護が顔を上げ ていることに気づいた。  そこに理沙の匂いを嗅ぎ取ったかのように、さ まざまな感情の入り混じった目をアクセサリーの 輝きに向けていた護は、平と目線を合わせると再 びうつむいてしまった。缶の蓋も閉じられ、前以 上に殺伐とした空気がコンテナの中を支配した。  一時間も過ぎると、ひどく間近な飛行機の音が コンテナ内に響くようになった。ひやりとしたも のを感じ、押し黙っている由梨の顔を見たが、冷 たい無表情は目を合わそうともしない。その間に ジェットの爆音はどんどん近くなり、ついには聞 き慣れたターボシヤフトーエンジンのアイドリン グ音が、壁を揺らす勢いで轟き始めた。  停車したコンテナの後部扉が開き、嫌な予感は 現実になった。駐機スポットのマーキングが施さ れたアスファルトの上で、すでにエンジンの立ち 上がった海自の対潜哨戒ヘリ、SH‐60Jの白い 機体が、側面のカーゴドアを開けて待ち構えてい たのだった。  滑走路の向こうには管制塔や格納庫が建ち並び、 その前を紺やオレンジの繋ぎ姿が行き来している。 移動時間から考えて、下総の海自航空基地だろう。 両脇を抱えられた護が先に乗り込み、「早く乗っ て」と言った由梨がそれに続く。平は「冗談だ ろ?」とそれを呼び止めた。  「おれがなんでヘリパイ辞めたか、知ってんだろ う。飛ぶのはダメだ。断じてダメだ」  「しようがないでしよ、ヘリじゃないと行けない ところに行くんだから。操縦しろとは言わないか ら、さっさと乗って」  「そういう問題じゃない’・ 操縦だけじゃなくて、 もう飛ぶものはいっさい体が受け付けないんだ」  駄々つ児さながら、椅子にしがみついての抵抗 は、二人の護衛に引き剥がされて終わった。「な んならまた気絶する?」という由梨の声もあれば おとなしくするしかなく、電子装置に埋められた 後部キャビンにうずくまった平は、双発エンジン が唸りを上げるのを間近で聞く羽目になった。  離陸のふわりとした感覚に、吐き気がこみ上げ てくる。水たまりを作る勢いで汗が滴り始め、頭 に袋を被せられたように息が苦しくなってくる。 胸のエンジンが異常振動を起こし、それが本物の エンジンの轟音に飲み込まれた後は、スライディ ングードアを開けて外に飛び出したい衝動を堪え るので精一杯になった。雲間から覗いた太陽が半 球状にせり出したバブルキヤノピーをかすめ、針 路を西北西に取ったことを平に伝えてから、S H‐60Jは巡航速度に向けて容赦なく加速して いった。  コンピュータ制御のフィンースタビライザーが 作動すると、ローリングは五度以内に軽減され、 護衛艦のスマートな船体は波間に固定される。後 部飛行甲板を映す監視カメラには、機体下部から メッセンジャーケーブルを垂らしたSH‐60Jが 徐々に高度を下げてゆく姿が映し出されており、 格納庫上の水平燈と誘導燈、発着管制官の声に導 かれたパイロットが甲板上空に機体を固定すると ともに、走り出た青色の作業服がケーブルを手繰 り寄せて、急速拘束装置から伸ばしたホールダウ ンケーブルとの連結作業を開始していた。  吹き下ろすローター風に吹き飛ばされないよう、 帽子を顎紐で固定した作業服が見えなくなると、 ウインチの巻き取りが始まり、ケーブル一本で艦 に繋がれ、凧のように引っ張られていたヘリの機 体がゆっくり甲板に引き寄せられてゆく。《あさ ぎり》の狭い飛行甲板に、対潜哨戒ヘリのラン デイングーギアが接地し、機体底面のメインプ ローブがベアトラップに固定されると同時に、 テールプローブもリテーニングレールにしっかり とくわえ込まれる。強制着艦、状況終了。隣に 立っていた哨戒長が安堵の息を吐く気配を感じな がら、井島はCG処理された海図を映す別のモ ニターに、北緯三十六度・東経百三十四度の位置 と、十五時二十分の時間を確かめていた。  鳥取沖五十キロ、すべてはスケジュール通り。 機体側面のカーゴドアを開き、飛行甲板に降り 立った夏生由梨の姿がそれを証明していた。セミ ロングの髪を片手で押さえ、まだ回転の余韻が残 るローターから吹きつける風の中を歩いた由梨は、 迎えに出た飛行長になにごとか話しかけているよ うだ。二人の局員に両脇を抱え込まれた辻井護が、 その後ろを通って格納庫のシヤッターをくぐり、 最後に大柄な男が、航空士の肩を借りてヘリから 降りてくる様子がモニターに映し出された。  よろけたところを二人の作業員に支えられ、引 きずられるように甲板を歩き出した青い顔は、平 陸曹長だろう。資料にあった飛行恐怖症の文字は 誇張ではなかったらしい。こちらのミスで、この 薄汚い事態に巻き込まれることになった純然たる 被害者。その思いを噛みしめ、薄汚い事態が今も 目前で進行している現実に顔をしかめた井島は、 モニターから目を離して薄暗い室内を見回して いった。  艦橋構造部の真下、ちょうど艦の中央に位置す るこの戦闘情報指揮所は、《あさぎり》の心臓部 とも呼べる場所だ。防衛機密区画の文字が記され た鉄扉の中には、司令部や僚艦との情報通信を行 う端末、ミサイル及び魚雷の射撃指揮装置、対潜 哨戒ヘリのセンサーと連動する潜水艦探知レー ダーなどの電子機器がぎっしりと詰め込まれてお り、立ち働く人の顔も判然としない薄闇の中、無 数のディスプレイやモニターの光に染められた顔 が、それぞれの監視盤に向き合ってオペレートを 続けている。C‐Iシステムの優劣が勝敗を決め る現代戦においては、護衛艦も海上に配置された エレクトロニクス装置のひとつであり、CICに は関係者以外の立入りは厳しく制限されているは ずだったが、《あさぎり》では昨日からその原則 が無視されていた。  日本海全体の状況図を映し出すメインパネルか ら少し離れて、コンソールをまるまるひとつ占有 している幾人かのスーツの背中がある。一週間前 に佐世保を出港し、個艦訓練を実施していたくあ さぎり》にいきなリヘリで乗り込んできて、自衛 艦隊司令部からの直命を盾に艦を実質その指揮下 に収めてしまった一団は、古武外事本部長とその 部下たちだった。  マスト上の衛星アンテナの一つを借り切り、昨 夜から続けられていたダイス保有の偵察衛星「L 3」との同調作業もほぼ完了して、CRTにはこ れから赴く「問題の島」の鳥瞰映像がリアルタイ ムで映し出されている。満足げにディスプレイか ら顔を離した古武は、後部甲板の監視映像に平の 姿を認めて、「……まったく、とんだ荷物を持ち 込んでくれたものだ」と吐き捨てていた。  聞こえよがしの声は、および腰の内事本部長を 焚きつけ、強引に一団に同行した井島に向けられ た露骨な皮肉だった。ふんと鼻を鳴らした井島は、 「すまんな。優雅な船旅の邪魔をして」と応じて やった。  「義父殿のコネを利用して、局長の頭ごしに海幕 僚長に直談判。……ダイス広しといえど、護衛艦 をレンタルできるのはあんたぐらいのもんだ」  トウェルブの暴走によって破綻の危機に哂され た《キメラ》を清算するため、直接陣頭指揮を執 ると言い出した古武が、拠点に選んだ場所がこの くあさぎり》のCICたった。東馬が指示した 「追加報酬」の受け取り場所に応じた選択とはい え、一朝一夕に自衛隊装備を借り切り、そこに関 係したすべての人間を集めて機密の集中管理を施 した素早さは、古武一族の後ろ楯があったればこ その話に違いなかった。古武は「公務ですよ。正 当なね」と言って井島を煙に巻いた。  「確かにな。《キメラ》清算の作戦指揮所として は、ここは最適だ。横槍を入れようにも、海の上 では手の出しようがない」  同時に、その素早さは、これらの事態があらか じめ定められていたものなのではないかという疑 いも抱かせる。古武が仕組み、古武だけが知るも うひとつの真実。底意を見透かした井島の目に、 古武は「あなたを招待した憶えはありませんが」 と嘆息混じりの声を返した。  「夏生二尉は内事部の所属だ。自分に監督権限が ある。あんたの好きにさせるつもりはない」  「局長の承認は受けている」  「誰がなんと言おうとも、だ」  「困った人だ。《キメラ》の重要性については、 あなたもよくご存じのはずだが」  「ああ。計画書には書かれてない『裏』があるこ ともな」  そうでなければ、井島も不法アクセスの横紙破 りを黙認したりはしなかった。由梨に《キメラ》 の作戦資料を見せたのは、中間の束ねとして組織 に埋め込まれ、体の自由が利かなくなってしまっ た自分にはできないことが、彼女にはできると信 じたからだ。  自由に考え、行動できる若さに真実を伝えるこ とで、どこかで進むべき道を間違えてしまった組 織に内省のきっかけが生じることを期待した。結 局すべてが裏目に出てしまった自責の念を抱いて、 この艦に乗り込んでいる井島は、冷たい一瞥をく れた古武に噛みつく目を向け続けた。  「『BB』の内容を知っていれば、東馬の謀反は 事前に予測できたはずだ。にもかかわらず、あん たは《キメラ》の実行役を東馬に託した。なぜ だ?」  「適任だと思ったからですよ。自由を約束すれば、 彼も協力するだろうと思った。アメリカに依存し きっだ国防体制の改革という点においては、目的 も一致していましたから」  「東馬が求めたのは自由でも改革でもない。復讐 だ。それに気づかんほど、あんたが間抜けたった とは思えんな」  電子機器の光が点灯する暗闇に、遠く機関の音 だけが響く。井島は古武の立つコンソールにゆっ くり歩み寄った。  「『12』と名乗り出した時から、《キメラ》が彼 の怨念に取り憑かれたことはわかっていたはずだ。 なのにあんたはそれを止めようとしなかった。最 初から東馬の暴走を企図していたとしか思えん」  座標軸で碁盤状に区切られた画面には、問題の 島−東馬が『BB文書』と交換に追加報酬を受 け取るべく指定してきた場所−の衛星画像が映 し出されている。しばらく井島の横顔を凝視して いた古武は、背を向けると柢く苦笑の喉を鳴らし た。  「それが『裏』ですか。局長に直訴なさったらい かがです」  「今の局長には、政府とのパイプ役を斬って捨て るような度胸はない。古武家のご機嫌を損ねると わかれば、大概のことには目をつぶるだろう」  古武を放任する一方、暴走を始めた東馬の動向 を探るためにウルマ回収作戦を黙認し、ルール違 反のツケを自分ひとりに押しつけた上層部の姑息 が、それを証明していた。ディスプレイの光に浮 き立つ古武の背中を睨んで、井島は最後のひと言 を付け足した。  「だがな、わたしの目はそう簡単には閉じんぞ。 大事な部下を巻き込んでくれたからには、特に な」  不器用な直情を、すらりとした背中が嘲笑って いた。「確か、同じ年頃の娘さんがいらっしやる んでしたね」と応じると、古武は子供の駄々をた しなめる目を井島に向けた。  「井島さん。そろそろ引退なさったらどうです? 同期の方はみんな勇退なすってるじやありません か」  これ以上首を突っ込めば、嫌でもそうなると宣 言する声だった。井島は、「いちど辞める機会を 逃すとな、往生際が悪くなるんだ」と返して冷笑 を睨み上げた。  「あんたに引導を渡すまで辞めるつもりはない」  揺るがない目に嘆息して、古武は再びコンソー ルに向き直ってしまった。オペレーターの肩ごし に赤外線処理された問題の島−沖縄本島の鳥瞰 映像がちらりと見え、赤く染まった島の形に血を 連想してしまった井島は、しかめっぱなしの顔を 逸らしていった。  全長百三十七メートル、基準排水量三千五百ト ンのくあさぎり》は、護衛艦としては中型規模の ものでしかないが、六階建てビルに相当する体積 の中に、幾層もの甲板と狭い通路が入り組んでい る艦内は、外見よりずっと広大なものに感じられ る。ひっきりなしに往来する水兵たちの好奇の目 をすり抜け、ワックスと塗粧ペンキの匂いが立ち 込める通路を歩いた由梨は、三段ベッドが蚕棚の ように並ぶ第三居住区の下、梯子を降りてすぐの ところにある倉庫の前で立ち止まった。  見張りについていた局員が鍵を開ける。CIC と一緒に古武が借り切った資材倉庫の片隅で、ダ ンボールに寄りかかってへたりこんでいる平の姿 があった。手にした缶コーヒーを後ろ手にした由 梨は、ドアの閉じる音を背にそこに近づいていっ た。  「これほど重症だとは思わなかったわ」と言った 呆れ声にも反応せず、平は血の気の失せた顔をう つむけている。同乗した航空士が失禁を疑ったほ ど、大量の汗をヘリの床に滴らせた元ヘリパイは、 それきり口を開く気配もなくこうして静正してい るのだった。コーヒーを置き、床に手をついて平 の顔を覗き込むようにした由梨は、なぜと問いか け続けていた目が固く閉じられているのを確かめ て、小さく息を吐いた。  「……亜tいと思ってるわ。でもね、もうじきすべ てにけりがつく。それまで、少しの間ここで我慢 していて」  他に言うべき言葉もない。独り言のように言い、 そのために汚れ役を請け負った自分の現在を再確 認して立ち上がろうとした由梨は、ふと言いそび れていたことを口にするつもりになった。  「それと……。ありがとう。辻井二曹を助けてく れて」  自分が古武から与えられた任務を果たせば、護 の罪も帳消しになる。そのことを説明しようとし て、詮ないことだと思い直した由梨は背を向けた。 足首に強い衝撃が走っだのは、その瞬間たった。  前に出るべき足を失い、咄嗟に床に手をついた 由梨は、足首をつかんだ平がそのままのしかかっ てくる気配を察して、身を捻りながら懐のナイフ を抜いた。鉄板も貫くポリカーボネイトーナイフ の切っ先が、硬い怒りに塗り固められた男の顛動 脈にぴたりと当てられる。上身だけ起こした由梨 につかみかかろうとして、直前で動きを封じられ た平は、無言の睨み合いの後、「……やれよ」と 呻いていた。  「おれが消えたところで、困る奴も悲しむ奴もい ないってことぐらい調査済みだろ。さっさとバラ しちまった方がさっぱりするぜ」  「……。「カな真似はやめて」  「おれはいま最高に頭に来てんだ。なにもかも話 せ。できないなら殺せ。でなきやおれがおまえを 殺す」  鬼瓦の顔がぐっと前に出る。一瞬のチャンスを 逃さずに襲いかかり、まだ死んでいない海兵旅団 員の力量を示した男の顔たった。ナイフを握る由 梨の手に力が入り、破れた表皮から血の玉が滲み 出してきたが、黒い碁石のような平の目はぴくり とも動かず、こちらを凝視していた。本気を感じ 取った由梨は、目を伏せてゆっくリナイフを離し ていった。  「……一一一一にってたでしよ。『渡りに船』だって」  ナイフを納め、座り込んだ体を立て直しながら、 口を開いた。沖縄海兵隊不要説と、「世界の警察」 の看板に財政の首を絞められているアメリカの現 実。そこに起こったトウェルブの脅迫は、彼らに とって「渡りに船」だったのではないかと推測し た当人は、その声に目を細めた。  「そうなのよ。狂言なの。在日米軍を脅して、沖 縄から海兵隊を撤退させた一連の事件は、すべて 日米両政府が自分たちで仕掛けたものなのよ。 トウェルブを使ってね。それが《キメラ》という 作戦」  細められた平の目が、大きく見開かれた。かば うつもりも、言い訳するつもりもない。ただあり のままの真実を話す覚悟を決めた由梨は、「なん で……どうして東馬に……」と呻いた平を正面に 見つめた。  「言い訳が立つからよ。彼には誰も触れることが できない。だから殺すことも、捕まえることもで きない。軍は要求を呑むしかない」  「なんなんだ、それは。あいつはいったい何者な んだ!・」  「『BB文書』。……そゝつ呼ばれている機密、その ものよ」  愚直そのものの顔をさらす平を、正視すること ができなかった。「ダブルビー……文書?」と聞 き返した平から目を逸らして、由梨はそれを説明 するもっとも適切な表現を口にした。  「……恥よ。アメリカと囗本の間に生まれた、濯 ぎようのない恥」  ぼんやりと拡散していた痛みが、じわじわ収束 してゆく。モルヒネが切れかけているのだろう。 右の太股の一点に凝縮したそれは、鉄の棒で串刺 しにされたような根太い痛みだ。虚無を漂ってい た意識が、潮の匂いのこびりついた船倉の床に横 たわっている体に落ち着き、坂部は汗まみれの顔 を動かして包帯巻きの右足を見た。  腿の肉を貫いた九ミリ弾が、パソコンのディス プレイに当たって派手に火花を上げたのを覚えて いる。貫通して幸いだった、と東馬は言っていた。 こんな時に幸いというのも奇妙な話だったが、フ ル装備の強襲偵察海兵一小隊の急襲を受けて、貫 通銃創ひとつで助かった経緯を、他に表現する言 葉もなかった。  事前に準備しておいた逃走経路に従い、舞鶴港 で待機していた小型貨物船に乗り込んだのがその 日の深夜。あれからどれだけの時間が経ったのだ ろう。窓から差し込み、薄暗い船倉を照らしてい る茜色の光は、船の針路からして朝日ではないは ずだ。身を起こそうとして、突き立った棒が揺り 動かされる痛みに呻いた坂部は、「痛むか?」と かけられた声にきつく閉じた目を開いた。  丸い船窓の前で、木箱に腰を下ろしている東馬 の顔がオレンジの逆光に縁取られていた。「まる 焼きにされかかった時に較べりや、どうってこと ねえさ」と無理に頬を歪めた坂部は、錆落としの ペンキが重ね塗りされている壁を見回して、「理 沙は?」と続けた。  「上で見張りについている」と東馬。船を用意し た釜山のブローカーは東馬の知り合いで、信用で きる男という話だったが、『BB文書』のバリ アー効果が弱まっている今、船が予定の針路を外 れて在韓米軍の待ち受ける釜山港に向かう可能性 もないとは言えない。居室にあてがわれた船長室 の使用も、盗聴を警戒して辞退した東馬は、ブ リッジに理沙を置いて船長の動向を監視すること も忘れていないようだった。「そうか」と言って 東馬から目を外した坂部は、壁沿いに並べられた 大小の木箱の山をぼんやり見つめた。  それぞれ野菜や果物の銘柄が記されている箱の 中には、使い捨てロケットランチャーや対ヘリコ プター地雷などの武器弾薬が、おが屑に包まれて 詰まっている。枕許に置かれたジャンパーの懐を 探り、持ち出した二枚のフロッピーディスクの無 事を確かめた坂部は、すべてが予定通りの帰着を 迎えつつあることに納得して、ディスクのラベル シールにこびりついた血を指で削り取るようにし た。  アポトーシスHと、『GUSOHの門』のセ キュリティをブレイクするためのプログラムを記 録したディスク。これさえあれば、足を撃たれて 身動きできない自分はもう必要ないはずだったが、 現物にアクセスした時にどんなトラブルが生じる かは予測しきれず、それに対処できるのは自分し かいない。その思いで心臓を動かし、呼吸してい る今の自分を自覚している坂部は、まだどくどく と血を流し続けているもうひとつの傷を見つめて、 重い口を開いた。  「なあ……。回収された遺体は、どうなるんだろ うな」  まな板を叩く包丁の音、食器を洗う音とともに、 優子の笑い声が聞こえてきた。ブラックリストと いう十字架を背負い、狭められた世間で辛酸を舐 め続けた二十数年間、絶え間なく聞こえ続けたそ れらの音が自分を生かし、前に向かって歩くこと を教えてくれた。他のなに物もその代わりにはな り得ないし、抉られた胸から縊れる血も、生き続 ける限り止まることはないだろう。「……身寄り がなければ、本籍地にある寺に送られて丁重に葬 られるはずだ」と答えた東馬は、押し黙った坂部 の背中から目を逸らして、立ち上がったようだっ た。  「もっと休んでいた方がいい。向こうに着くまで、 まだ聞かある」  そのまま船倉から甲板に上がる階段を上ろうと した東馬が、自分に感傷と向き合う時間をくれよ うとしていることを察した坂部は、多少慌ててそ の背中を呼び止めていた。  いま独りにされれば、狂ってしまう。その恐怖 に駆られて、坂部は思いついたことを口にした。  「あのな……。答えたくなけりや別にいいんだが、 その、『BB文書』な。本当のところ、どこに隠 してんだ?」  十年前、その所有者である東馬によって隠匿さ れ、世界中の情報機関が血眼になって搜しても、 ついに見つけることができなかった一大スキャン ダルの証明書。どんな籠絡や脅迫にも応じず、そ の所在を隠し続けた東馬は、自分の死と同時に文 書が公開される手筈が整っていることを宣言した 瞬間から、自らが爆弾となったI。その経緯や 文書の中身は知っていても、隠匿場所については 坂部もいっさい知らされていない。知るつもりも なかったが、『BB文書』の引き渡しを条件に 「ある要求」をアメリカ政府に突きつけ、その取 引場所に向かっている現在、殺された優子への供 養も含めて、自分には聞いておく権利があるはず だった。  思わず口にした後でそう納得した坂部は、「理 沙が持っている」とあっさり答えた東馬の顔を、 まじまじと見つめてしまっていた。  「彼らが要求を呑めば、その場で引き渡す約束だ。 用意はしてある」  『……y』れまでは?」  「市ヶ谷の地下資料庫」苦笑と一緒に、東馬は答 えた。「電算化が進んでからは、入室する者もな く埃を被っている場所だ。わたしが死ねば公開さ れるなんて話は、はったりだ」  しばらくは口を閉じることも忘れ、悪戯を告白 した子供のような東馬の微笑を見つめた坂部は、 わき上がってくる可笑しさに喉を鳴らした。自分 のポケットに忍ばされていたとも知らず、公開 云々のはったりに怯えて、東馬を腫れ物扱いして いたとは。「なんとまあ……。ダイスもCIAも 一杯食わされてたってわけか」と独りごちた坂部 は、「ダイスは気づいていたよ」と言った東馬に 笑いを消した。  「気づかないふりで利用していた。日米交渉の切 り札に役立てて、永田町に自分たちの存在価値を 知らしめるために」  夕日に塗り潰されて、その顔はひどく怖いもの に見えた。そうなのかもしれない、と坂部は思い 直した。東馬のはったりにつきあっていれば、彼 を飼い殺しにしている理由が成立し、外交カード として利用し続けることもできる。苦々しく思い ながらも、「はったりではない」確証が得られな いアメリカ政府から、保管料として時々の譲歩を 引き出すことができる。「ひと握りの者しかその 内容を知らなかったことが、神経過敏に拍車をか けた」と続けた東馬は、船窓から凪いだ海面を見 渡すようにした。  「アメリカの根幹を揺るがすスキャンダル……そ の噂だけがひとり歩きをして、『BB』流出阻止 のマニュアルが、各情報機関の中にできあかって しまった。それがなんであるかもわからず、そう 決まっているからという理由だけで、核兵器であ るかのように恐れてきた。亶]相を知る者も、秘密 が漏れなければいいとそれを黙認して……。  バカな話だ。そんな価値など、どこにもありは しないのに」  「だが彼らはそれを《キメラ》に利用した。実態 はどうあれ、『BB文書』は依然一級の外交カー ドで、あんたの不可侵性を証明する命の保証書だ。 ……それを理沙に託したのか?」  オレンジに縁取られた肩が微かに動く。「…… いちばん安全な金庫だ」と答えた東馬に、坂部は もういちど苦笑した。  「素直じやねえな、おまえさんも。それだけ信用 してるってことだろ? あの子を」  口では兵器と言いながら、理沙に向ける眼差し がほかの誰に向けるものよりやさしいことは、優 子も気づいていた。無言を返した東馬の背中に、 坂部は「……(ワのおれには、よくわかる)と言葉 を繋いだ。  「あんたと理沙は、お互いを支えあってるんだ。 互いに守りあうことで、死に向かおうとする魂を この世に引き止めてる。……。(カに聞こえるかも しれねえけど、おれば嬉しいんだ、それが。いつ も彼岸の彼方に行っちまってるようなあんたが、 初めて同じ世界に降りて来てくれたような気がし てな」  てらいなくそんな言葉が出てきたのは、自分で も意外なことだった。ゆったリピッチングする船 に身を任せ、沈黙していた東馬は、しばらくして から意外な言葉を返してきた。  「……おまえには、魂がない。わたしの父はそう 言った」  その言葉になにかの扉を開けられてしまったか のように、東馬は静かに言った。驚きを皮の下に 収めて、坂部は「アメリカさんらしい言い回しだ な」と努めて軽い声を出した。  「……彼らの理想は確かに美しい。自由を尊び、 それを守るためにはどんな犠牲も厭わない」青い 瞳に夕日の茜を宿して、東馬は続けた。「しかし その理想が世界を救うと信じ、反抗する者は容赦 なく力でねじ伏せ、正義を謳って恥じない傲慢も 併せ持つのが、彼らだ」  「いいじやねえか。それが必要な時だってある。 軍国日本があの戦争に勝ってたらって思うと、お れはぞっとするね。やろうと思えばできたのに、 日本を植民地にすることもしなかった」  「彼らの理想が許さなかったからだ。日本をアメ リカの州に加えれば、人口の三分の一が日本人に なって、白人種の優位性が崩れることを恐れたか らだという意見もある」  自らの半分を占める血を否定するかのように、 その言葉は辛辣だった。坂部は黙って東馬の横顔 を見つめた。  「代わりに、彼らは日本を改造した。その精神を ゼロに還元し、彼らの理想に賛同する国家を造ろ うと試みた」 「アメリカの民主主義を受け入れることが、囗本 の救いであり、将来の平和と幸福を約束するもの である。……マッカーサーだな」  「GHO、にとっては、軍事解体と同時に、それを 生み出した精神的土壌の改革も急務だった。敗戦 世代のコントロールだけでなく、次の世代に対し ても有効な精神改革。……そのために使われた手 段のひとつに、キリスト教の伝道があった」  沈みかけた囗の光を散らして、海が燃えていた。 船窓から顔を離した東馬は、木箱に腰を下ろして 埃のつもっだ床を見つめた。  「それ自身の中に、戦争を嫌悪する精神を持って いるとされたキリスト教の伝道。急きよ刷られた 一千万部の日本語訳聖書とともに、宣教師を含む 使節団が来日した。わたしの父も、その中にい た……」  沖縄フリーゾーン構想に、冷え切った経済の起 死回生を夢見た日本政府。軍備改編を断行し、赤 字財政の立て直しを為し遂げたいアメリカ政府。 両者の思惑が「沖縄海兵隊を撤退させなければな らない状況を作り出す」作戦、《キメラ》を生み 出した。荒唐無稽な、子供の仮病にも劣る浅薄な 自己欺瞞が罷り通った背景には、急激な変革を迎 えた冷戦後の世界情勢、複雑に絡み合った各国利 権の存在がある。全県無税を実施し、沖縄を香港 に代わる自由貿易都市にしようとするフリーゾー ン構想にしても、囗本のみならず、台湾の思惑が 深く関与していた。  香港返還によって大陸との貿易中継地点を失っ てしまっただけではなく、一国二制度の前例を作 り上げた中国が、同様の論理で台湾の併合に動き 出した場合、両者間には武力衝突の可能性も出て くる。その際、台湾経済界のマスを占める外省人 (巾国本土から逃げのびた国民党の末裔)たちの懸案 事項は、住み着いて半世紀にも満たない祖国の自 治独立ではなく、自らの資産の移転先確保となる。  沖縄はその条件を十分に満たしており、フリー ゾーン構想によって種々の制約や課税から同県が 解放され、「第二の香港」として機能するように なれば、そこは彼らにとって新たな「約束の地」 となり得る。そのためにすでに五十億ドルもの投 資を行っている潤沢な台湾資本の取り込みは、日 本経済を活性化する逆転の目であると同時に、ア ジアでの孤立を防ぐ護符にもなり、中国の巨大化 を懸念するアメリカにとっても、台湾経済の中国 圈離脱という点において大きな益となる。「沖縄 フリーゾーン構想」は、閉塞しつつある資本主義 社会が二十一世紀に架ける希望の橋であり、沖縄 経済界はもとより、本土政財界も実現に目の色を 変えていたのだが、そこに立ち塞がったのが米軍 基地の問題。国土の〇・六パーセントに過ぎない 土地に、全在日米軍基地の七割を引き受けている 沖縄の歪みは、自由貿易都市という明るい言葉の 響きとは対極に位置するものだった。  使用できる土地の少なさが税控除に歯止めをか け、いたるところで島を区切っている基地フェン スに象徴される閉鎖性が、投資家たちの腰を重く させている。これではまずい。なんとか基地問題 を解決しなければならないが、米軍プレゼンスの 壁はそう簡単には崩れない。頼みの綱の行革もお ぼつかず、刻一刻と崩壊に近づく経済の足音を聞 きながら頭を抱えていた日本政府は、ふと甘い囁 きを耳にした。そのアメリカが、世界戦略を根底 から見直し、「世界の警察」をやめたかっている という囁きを。  軍備の縮小が権益の減少に繋がる国防総省と、 それに連なる軍産複合企業体、国防族議員はとも かく、アメリカ政府のマスは自分たちの首を絞め つけているものがなんであるかに気づいており、 それを外すための手段を模索している。縮小では なく、改編。「世界の警察」であるがゆえに削減 できなかった軍備は、その看板を下ろしさえすれ ば、大幅に減量させることができる。すでにNA TO参加国でも余剰戦力の叩き売りが始まってい る今、アメリカはより精度の高いバーチャループ レゼンスに切り替え、拡げきった腕の凝りを揉み ほぐすべき時が来ているのだ、と。彼ら革新勢力 は、「体面」に固執する保守勢力から沖縄という 世界戦略の象徴を取り上げることができれば、そ れを蟻の一穴として改編作業を進めることができ ると考えた。そこに沖縄フリーゾーン構想を推進 する日本政府との利害の共有が成立し、《キメラ》 がその産声をあげた。  政府の暗黙の意思を汲み取り、一大狂言計画を 実施しだのはダイスとCIA。実行を任されたの はトウェルブこと東馬修一−『BB文書』に よって身の安全が保証され、殺すことも捕えるこ ともできないとされている男。ダイスは彼にコン ピューターウィルス「アポトーシスH」を託して 在日米軍基地への電子テロを実行させ、CIAと もども、在日米軍が痛めつけられるさまを黙視し 続けた。偵察衛星や、GPSを搭載した戦艦、戦 闘機、ミサイル、兵士。それらが一時に無力化さ れる恐怖を突きつけられた国防総省は、見殺しに されている気配を察しながらも、やむなくトウェ ルブの要求を受け入れるよう政府に勧告。ホワイ ト(ウスは予定通りそれを承諾して、沖縄海兵隊 の撤退が実現した。 《キメラ》は所期の目標を達成したのだ。後は東 馬が約束通りアポトーシスHのオリジナループロ グラムを米軍に渡し、第三国に脱出すればすべて が終わるはずだったが……。  「でもトウェルブは裏切った。《キメラ》の目的 を達成すると同時に、追加報酬を要求してきたの よ。応じなければ《キメラ》を全世界に公表して、 米軍基地へのテロを続行するって脅し文句と一緒 にね。《キメラ》の関係者たちは大慌て。もう 『BB文書』の流出を恐れている場合じゃない、 トウェルブを即刻始末しなければって言い出す者 も出てきて、その動揺はすぐにペンタゴンと国防 産業にも伝わった。彼らにとっては巻き返しの チャンス。アポトーシスHのオリジナループログ ラムを手に入れるだけでなく、《キメラ》の証拠 となる資料も入手することができれば、それを カードにして軍備削減に歯止めをかけることがで きる。事と次第によっては、一度手放した沖縄も 取り返せるかもしれない……。襲撃に海兵偵察隊 が使われたのは、そうした任務に慣れているから だけじゃないわ。彼らにとって、トウェルブは自 分たちの居場所を奪った憎い敵。仕返ししたのよ。 強い米軍の面子を守るためにね」  由梨が続ける。すべては仕組まれていたこと。 囗本に国家としての顔を持だせようとした東馬の 行動は、正面から困難にぶつかることを避け、く だらない狂言で逃げを打とうとした、政府の思惑 に裏打ちされたものでしかなかった。『BB文書』 という、正体不明の機密を内包しているがために その役目を与えられた男は、しかし最後の局面で 本性を現し、今は『BB』のバリアーも失って、 殺意の目を一身に集めている。  すべては、追加報酬を手に入れるためにI。 飽和寸前の頭で、平は立ち上がった由梨の顔を見 上げた。  「トウエルブはそれを予測していた。それでも、 こうなることをすべて覚悟した上で、彼は《キメ ラ》の実行者となり、それを利用したのよ。自分 の望みを叶えるために」  「それは……その、追加報酬ってのはなんなん だ」  「復讐よ。……彼を捨てて遠くへ行ってしまった、 父親への」  そこに東馬が立っているように、由梨は壁の一 点を見据えて答えた。『BB文書』の扉を開き、 暗黒に誘う声と目たった。  囗本の降伏は、単に軍事的敗北を意味したもの ではない。英雄主義と民族的犠牲に支えられ、自 らを「神国」と称した国家の信仰の崩壊でもある。 精神的・道徳的に空白になった国民たちに、民主 主義という心血を注ぎ込むことによって、日本は 新しい国家として再生し得るI。その論法で、 GHO、は瓦礫の山と化した日本の改造に着手した。 東洋的土壌は歴史としてのみ温存し、精神は西洋 的価値観と合理主義に基づいて近代化−すなわ ち「アメリカ化」する。その方策のひとつに、 「アメリカの家庭のもっとも高度な教養を真に反 映したもの」とマッカーサーが信じたキリスト教 の布教があった。  が、日本人のキリスト教帰依率は一向に上がら なかった。マッカーサーの思いとは裏腹に、多く の日本人が聖書を受け取っだのは、タバコ紙やト イレットペーパーの代用品として使うためだった。  「紙が薄くて、ちょうど使いやすかったんだそう だ。母も最初はそのつもりでもらってきたらしい。 だが破り取ったページをなにげなく読んでいるう ち、すっかり夢中になってしまって……ヨ(ネ伝 第八章、キリストが不義の罪を犯した女を許すく だりだが、もう父親がタバコ紙に使ってしまった 結末部分をどうしても知りたくて、もう一冊もら いに行ったんだそうだ。そこで新しい聖書を手渡 しだのが、わたしの父たった」  最後の光が、水平線の向こうに消えようとして いた。半分闇に溶け込んだ東馬の顔は、穏やかに 微笑しているように坂部には見えた。  「軍から派遣されて、宣教師たちの助手役を務め ていたと言うが、今にして思えば将来に備えた研 修だったんだろう。父は母の顔を憶えていて、ど うして二幵もいるのかと尋ねた。母は正直に答え た。それを聞いて、父はとても喜んだんだそうだ。 自分だちとはまったく違う価値観を生きる人間た ちに囲まれて、疲れきっていた時に、初めて共感 できる心にめぐりあえて……。父は新しい聖書と  一緒に、片言の日本語で自分の心も伝えようとし た。母もそれを理解しようと努めた。後は、男と 女の話だ。それでわたしが生まれた」  時間が、見えないなにかに塗り固められていた。 「東馬って名は、お袋さんの姓か?」と言った坂 部に頷くと、青い目は言葉を次いだ。  「単に慰めあったわけじゃない。そこには魂の交 わりがあった。母はそう言っていたが、わたしが 生まれた時、父はすでに囗本にはいなかった。軍 からも身を退き、わたしが生まれたことさえ知ら ずに、まったく違う人生を歩き始めていた。母は 窮乏の中に取り残された。実家からも勘当され、 生きるために身を粉にして働き続けた。恨み言も、 泣き言もいっさい口にしなかった。自分の運命を 正面から受け止めて、わたしには親としてできる 最善のことをしてくれた。  この目のせいで友達もできず、よくいじめられ て泣いていたわたしに言っていたよ。みなと違う ことを恥じてはいけない。おまえの父さんは立派 な人だ。今は遠い国にいるけど、いつも私たちの ことを見守ってくれている。だから胸を張って生 きろ……とね。  父からもらった、ぼろぼろの聖書を大事に持っ ていて、子守歌代わりによく読んで聞かせてくれ た。キリストの挿し絵を見せて、父さんはこんな 人だって大真面目な顔で言っていた。……朝鮮戦 争が始まって、冷戦が本格化。GHQの占領政策 は中断されて、復興熱が敗戦の空白を満たすよう になった頃の話だ。周りを見回してもキリストを 信じている家なんてどこにもなかったし、それは 自分も同じだった。母の信仰が、絶望をごまかす ための自己欺瞞でしかないことはわかっていたが、 宗教とはもともとそういったものだろう。聖書を 読む母の声は好きだったし、それを聞いていると 心が落ち着くような気もした。だが結局、誰に救 われることもなく母は死んだ」  そこで言葉を切ると、東馬は立ち上がった。東 から押し寄せた群青色が、船窓を覆っていた。  「苦労して進ませてくれた高校もじき卒業して、 ようやく楽をさせられると思った矢先のことだっ た。頼れる身寄りもなく、わたしはひとり借家に 残された。そんな時、突然知らない男が家にやっ て来て、会わせたい人がいると言ってきた。  言われるままついて行ったホテルの一室で、わ たしは父と初めて会った。キリストには全然似て いなかったが、背が高くて目付きの鋭い男たった。 結婚して子供もいる身だったが、母のことを忘れ たわけではないと言い、今までなにもできなかっ たことを率直に詫びた。立場上手を差し伸べられ ず、仕事で来日したのを機会にこっそり消息を調 べさせて、初めて母の死とわたしの存在を知った のだと言った。急に言われても信じられることで はなかったし、信じたとしても、とても父と呼ぶ つもりにはなれなかった。事情はどうあれ、自分 と母を捨てていった事実に変わりはないと思った。  だが……母の墓の前で涙を見せ、わたしを抱き しめた男の顔を見た時、不意にそれが父であるこ とを実感した。同じ青い目を見て、すべてを許す 気になれた。自分でも意外だったが、血っていう のはそういうものなのかもしれない。  これからの面倒は見させてくれと言った父の勧 めで、わたしは大学に進んだ。学園闘争が、安保 闘争と融合して最後の盛況を見せていた頃だ。バ リヶIドの張り巡らされた校舎ではすることも見 つからず、父から学ぶことの方が多かったわたし は、いつしかその仕事を手伝うようになってい た」  そこからは、坂部のそれと重なる混沌の時代の 記憶だった。目を閉じた坂部は、ディーゼルの単 調な音に東馬の声が混ざるのを聞いた。  「激化する冷戦の中、反共の防波堤として位置づ けられた囗本に、密かに張り巡らされた諜報の網。 父はその結び目のひとつたった。専属の現地工作 員として、学生運動に身を投じたわたしは、父に セクトの情報を送るようになった。会合場所、資 金源、背後に見え隠れする囗共幹部や、ソビエト 外交官の名前……。わたしには父譲りの才能が あったらしい。ひとつ仕事をこなすたびに難易度 が上がり、重要度も増してゆく。連鎖の中に組み 込まれて、気づいた時には深みにはまっていた。 流した情報のひとつひとつが自分を信頼している 仲間たちを苦しめ、時には命を奪うさまを直視し ても、わたしはスパイをやめられなくなっていた。 ほかに自分を示す術を見失っていたんだ。ラング レー(CIA本部所在地)のためじやない、父のた めにやっているんだという思いだけが、唯一の拠 り所たった。  それが、結果的に父を追い詰めていることには 気づかなかった。昇進のワンステップとして極東 に派遣されている父にとって、わたしの存在は両 刃の剣だった。それで活動成果が上がると同時に、 妾腹の子の存在が競争相手たちに注目される。彼 らの国では、それは致命的なスキャンダルだ。  だが当時のわたしにはそれがわからなかった。 次第に離れてゆく父の心を知りながら、より仕事 に没頭するようになっていった。そうすればそう するほど溝が深まるとわかっていても、わたしに できることは他になにもなかった。その理由も必 然性も失ったまま、機械的に情報を取り、仲間を 売り続けた」  「……おれを助けたのは、その罪滅ぼしか?」  少しの迷いと一緒に、坂部は聞いてみた。しば らくの間をおいて、薄闇に浮かぶ東馬の目が「そ うかもしれない」と答えた。  「だがそれも終わる時が来た。セクトから日共、 神谷町(旧ソ連大使館所在地)に攻め上って、日本 企業を含む人と金の水脈図をつきとめた時のこと だ。好機が重なって、上の許可を取る間もなく入 手した情報だったが、一読した父は顔色を変えた。 なぜ勝手にこんな真似をしたのかと責めた。あな たのためだ、とはさすがに言えなかった。それが 自分の仕事だと答えると、おまえには魂がないと いう言葉が返ってきた。  マッカーサーは、帰国後の公聴会で日本を『十 二歳の子供』と評したが、それと同じだ。忠誠を 誓う理想も国家もないまま、おまえは与えられた 知識と技術を乱用している。秩序を乱し、自分だ けでなくわたしをも貶めている。わたしを父と思 うなら、善く在るよう努めろ。わたしは、人を騙 し、裏切ることに悦びを感じるような人間を息子 とは思わない……」  「言い返さなかったのか?」  「言い返せなかった」微かに苦笑すると、東馬は 再び船窓に顔を向けた。  「確かにその通りだ。わたしには、忠誠を誓う理 想も国もない……。父の気持ちもわかる。わたし の存在がラングレーに注目されるようになって、 針の筵に座らされているところに、追い打ちをか けるような真似をしてしまったんだ。一時の感情 に押されて、辛辣な口をきいてしまったとしても 無理はない。  だが、父とはそれきりだった。わたしは赤坂と の縁を切り、父も間もなく本国に戻っていった。 再びひとりになったわたしは、市ヶ谷に拾われ た」  光は、もう消えていた。青から黒に塗り潰され てゆく世界の色が、空と海の境界線さえも曖昧に していた。  「彼らはわたしのことを調べ抜いていた。誰の子 で、なにをしてきたか。父の子であることを証明 する『文書』が、わたしの手の中にあることも 知っていた」  「……『BB文書』か」  「当時はそんな陰謀めいた名前では呼ばれていな かった。ラングレーで着実に出世街道を歩いてい る父のアキレス腱を握り、いざという時のカード として保管しておく。その程度のものでしかな かった。  わたしは彼らに囲われ、新人養成の教官を務め るようになった。自棄になっていた時だったし、 これまで赤坂の下働きをしていた罪の帳消しを条 件に出されれば、断る権利もなかった。まともな 国防能力を持だない日本にあって、非公式ながら 自己完結した対処能力を謳っていた市ヶ谷……治 安情報局に、多少の興味もあった」  彼方で小さな灯を瞬かせているのは、五島列島 の最南端、福江島の生活の光だろう。船が日本海 を抜け、東シナ海に入りつつあることを教える光 景だったが、周囲は前と変わらない闇が覆うだけ だった。そこになにかを見出そうとするかのよう に、微かな灯に視線を注いでいた東馬は、「…… 善く在れ、と言った父の言葉に取り憑かれていた のかもしれない」と言葉を繋いだ。  「でもそれがなんなのかはわからなかった。復興 の熱も冷め、なにもかもが中途半端なままに経済 大国の地位を手に入れたこの国。モラルを見失い、 企業倫理を美徳に置き換えたこの国で、善悪を語 ることは難しい。歴史を否定され、その精神を伝 えきれないままに自由の器だけを与えられた日本 は、確かに十二歳の子供だ。節度を欠いた資本主 義で世界に君臨する一方で、自分の身を守ること さえ知らない。……そんな体質を改善することで、 自分の魂も取り戻せると思ったのかもしれない。 自衛隊の足もとで運営される情報局に身を置きな がら、いつかわたしはその改革を指向するように なっていた」  「……その頃、平と出会ったんだな」  坂部が言う。頷きながら、その頃の記憶に刻ま れたもうひとつの名前も思い出してしまった東馬 は、闇に向けた目を微かに細めた。  三条弓里。技術情報部に所属していた彼女は、 忌み嫌われてきた青い目を好きだと言ってくれた。 その奥にあるものを知りたいと言い、屈託なく鳶 色の瞳を近づけてきた。東馬も、そこに映った自 分の顔を見るのが好きだった。女を抱くのも仕事 と割り切っていた工作員時代の垢を落とし、忘れ ていた人の愛し方をIから教えてくれる瞳。そこ に自分を映し続けることができたなら、あるい は……。  「だが海兵旅団構想は潰え、創設者の的場も敗残 の道をたどった」ふと弛みかけた感情の栓を元に 戻して、東馬は続けた。「莫大な金を投じて、わ ざわざ内外の非難の目を集める必要はないという のが上の出した結論だ。宣]の国防機関を謳いなが ら、実態は永田町の御用聞きでしかなかった市ヶ 谷も、自民政権の凋落とともにあっさり解体され た。冷戦終結で存在意義を失ったと言えば聞こえ はいいが、実際はやはり金の問題だ。バブル崩壊 の財政難で、水増し防衛費や機密費のやりくりが 難しくなって、日替りの連立政権には、それを乗 り切るだけの知恵も胆力もなかったというだけの ことだ。結局、すべては幻影でしかなかっ た……」  「でもあんたは牙を剥いた」闇に溶け込んだ声に、 坂部は言っていた。「『BB文書』を市ヶ谷から取 り返し、隠して、自らが爆弾となった。《キメラ》 実行者の役を引き受けて、日本の防衛体制に強制 的な変革を促した」  「結果論だよ。ラングレーがわたしに干渉してく るようなことがなければ、こうはならなかった」  微笑で答えると、東馬は「……皮肉なものだ」 と付け足した。  「父と自分……まったく異なるものになってし まった二つの世界が、あんな形で再び交わること になるとは……」  「……長官に就任して、CIAとしてのキャリア に頂点を極めた彼の父親は、それから間もなく政 界に進出したわ。もともと毛並みのいい東部エス タブリッシュメントで、六つの学位も修めている 秀才は、CIAで得た豊富な人脈を足掛かりに、 みるみる頭角を現していった。そしてその存在が アメリカの『国益』になった時、東馬修一という 彼個人のスキャンダルは、合衆国のそれと同義に なった」  誘われるまま入り込んだ『BB文書』の暗闇が、 その最深部に差しかかったところだった。「国 益ってのは……」と呟いた平を見つめ、由梨は沈 黙を肯定の返事にした。アメリカの「国益」を体 現する者と言えば、ひとりしかいない。そう、数 年前に世界中の新聞の一面を飾った『彼』の顔写 真の下には、確かに中央情報局長官という経歴の 記述があった……。  「まさか……」  「長い間隠されてきた東馬の存在を知ったCIA は、『彼』の当選が間違いのないものになると、 市ヶ谷に東馬の引き渡しを要求してきたわ。一介 の議員ならともかく、今の『彼』はアメリカその もの。囗本に隠し子がいて、CIA時代に工作員 をやらせていたなんてことが表に出たら、取り返 しのつかないスキャンダルになる。ソビエトや中 東、他の情報機関が嗅ぎつけて外交カードにされ るより前に、彼らは自分たちの手でそれを始末し ようとした」  驚くには当たらない、地下水脈の行動論理だっ た。先駆けて東馬を押さえていたダイスの株が上 がり、一気に価値の向上したカードを切れば、あ らゆる外交的譲歩を引き出せただろうと平は想像 したが、由梨が続けた言葉は「……局は彼を売っ たわ」というものだった。  「彼の父親がそんなことになるなんて、誰が予想 できたと思う? 下手をすればアメリカとの全面 戦争にもなりかねない。東馬は、すでに日本には 使いきれないカードになっていたのよ。それ で……」  暗殺計画が実行された。セッティングは日本、 手を下すのはアメリカ。ちょうど海兵旅団の解散 が噂され始め、病院で寝たきりだった平が回復の 兆しを見せ始めた頃たった。突然任務を言い渡さ れた東馬は、臨時に与えられた二人の部下ととも に北海道へ飛んだ。  それまで決して表に出さず、教官として飼い殺 しを続けてきた東馬を現場に出した理由を、市ヶ 谷は「ほとぼり冷まし」のためと説明していた。 彼の父親が予想外の形でそのキャリアを結実させ つつある現在、赤坂が万難を排して醜聞種の抹消 に乗り出してくることは想像に難くない。中央か ら離れ、現場に紛れ込んでいた方が無難だとした 本部の言い分を、疑うことなく信じてしまった背 景には、孤独以外の時間の過ごし方を知るように なったその頃の東馬の生活があった。  平の真摯な目や、三条弓里の明るい声に彩られ た日々は、ただ流れるだけだった時間を意味のあ るものに変え、今日とは異なる明日が存在し得る ことを東馬に教えた。「善く在る」ことを意識せ ずとも、ただそこにいるだけで自分の生か肯定さ れる時間。それが、作動するべきセンサーを作動 させなかったのかもしれない。道東の港町でソビ エトの亡命工作員を回収する任務に就いた東馬は、 町外れに用意されたセーフ(ウスに到着した時、 それを思い知ることになった。  気配を察した時には、二人の部下はすでに車に 乗って遁走していた。杉の木立ちに囲まれた一軒 家は、その瞬間キルーソーンと化した。咄嗟に身 を翻し、伏せ手の裏をかいて家屋の裏側に走った 東馬は、想像外の光景を目の端に捉えて立ち止 まってしまっていた。  家の窓ガラスの向こうにあっだのは、緊張で青 白くなっている三条弓里の顔たった。彼女がどん な経緯で暗殺計画を知り得たのかは、今も定かで はない。確かなことは、彼女が東馬に危機を知ら せようと単独でセーフ(ウスに先回りしていたこ とと、それが彼女自身の死を決定してしまったと いうこと。鳶色の瞳が青い瞳を見、弓里は逃げて と唇を動かした。すぐに家から出るよう手振りで 示し、裏手に回ろうとした東馬は、目立だないよ う軒下に這わせたりIド線がプロパンガスのボン ベと窓枠を繋いでいることに気づき、窓から外に 出ようと把手に手をかけた弓里を振り返った。  絶叫は、自分の耳にさえ届かなかった。閃光が 目を塞ぎ、爆音が耳を塞いだ。膨脹した空気が体 を包み込み、背中に衝撃が走ると、土砂と破片が 口や耳の中にまで入り込んで来て、意識そのもの が塞がれていった。  軽い火傷と打撲だけで済んだのは、奇跡だった。 永遠のような数分の後、杉の木の根元で再び目を 開いた東馬は、サブマシンガンのストラップを肩 にかけた三人の男が、瓦礫の山をひっくり返して いる姿を薮の向こうに見た。  日本人であっても、独特の身のこなしには赤坂 の常雇いの臭いが漂っていた。なにが起きたのか を理解した東馬は、自分の命を救ってしまった薮 から這い出た。  搜していた死体が、目前に立ち上がったことに 驚愕する間もなく、最初のひとりの首が折れた。 異変に気づいた残りの二人が即座に銃口を上げた が、サイレンサーから放たれた銃弾は楯にされた 仲間の死体にめり込むだけで、東馬を射抜くこと はなかった。奪ったヘックラーの引き金を引き、 ひとりの頭が砕け、残るひとりの膝が弾けるのを 無感情に見つめた東馬は、ぼろぼろの血袋になっ た死体を捨ててそちらに近づいていった。  血まみれの足を引きずり地べたを這っていた男 は、充血した目を向けて、逃げられないぞと言っ た。そのつもりはないと東馬は答えた。生き残っ たわけでも、死んだわけでもない。今の自分は、 その狭間に在る。男の顔面に三発の九ミリ弾を撃 ち込んでから、東馬は瓦礫のひとつになって横た わる弓里の方に歩いていった。  赤黒く爛れた手足には焼け焦げた木片がはりつ いていて、取ろうとすると皮膚も一緒に剥がれた。 髪はなく、ほとんど削り取られてしまった顔には 鳶色の瞳を見つけることもできない。もうそこに 映る自分はいなかった。ただそこにいるだけで充 足できた時間の流れもない。正気をなくしたかっ たが、失っだのではない、あるべき場所にすべて が納まったのだと言うもうひとりの自分が、それ を許さなかった。弓里たったものを抱き上げて、 東馬はその場を離れた。  工作員たちが乗ってきた車には、毛布が積んで あった。それで弓里の亡骸をくるみ、助手席に乗 せた東馬は、彼女と最初で最後のドライブに出か けた。どこまでもまっすぐな道東の道路を走り、 なにかが変わってしまった世界を見て回った。  その後十年間、一時も休まずに燻り続けること になる火が、胸の中に灯った瞬間たった。会わな ければならない。父に会わなければならない。 まったく別のものになってしまった二つの世界を、 いま一度ひとつにしなければならない。その思い だけが、思考の渦の中にゆっくり立ち上かって いった。  その晩、中標津のドライブインで、自分を陥れ た二人の部下の車と遭遇したのは僥倖だった。凍 てついた暗闇にぽつんと灯った人工の光の下、ひ とりは倒した助手席で仮眠を取っており、ひとり は公衆電話のボックスで受話器を握っていた。  無音で近づき、寝ている男を二度と目覚めない ようにした東馬は、電話ボックスの扉を開けてワ ルザーPPKの引き金を引いた。首を貫いた銃弾 はボックスのガラスに蜘蛛の巣を張り、飛び散っ た血はぶら下がった受話器にも降りかかった。そ れを耳に当てて、東馬はひと言「ダミーだ」と呟 いていた。  防諜回線の向こう、事の首尾を確かめていた 市ヶ谷本部の声は、動揺を隠さなかった。なんの ことだと聞き返した声に、東馬は自分と父の関係 を証明する文書の話だと答えた。  嘘ではなかった。彼らに渡してある「文書」は 精巧なダミー。東馬と、アメリカの国益になりつ つある男が父子であることを証明する文書は、依 然彼の手の内にある。慌てふだめく声を無視して 受話器を置いた東馬は、それを最後に姿を消した。  地下水脈を沸騰させる必死の捜索劇も、その痕 跡さえ発見することはできなかった。地上から拭 い去られたかのごとく、東馬は完全にその存在を 消したのだった。  半年後、彼の父が晴れてアメリカそのものに なった当日。東馬はなにごともなかったかのよう に都内に姿を現した。殺到した局員たちに取り押 さえられ、市ヶ谷に連行された東馬は、精神・肉 体のいずれであっても、予告なしに自分の死亡が 確認された場合、直ちに「文書」が公開される手 筈が整っていることを宣言して、石になった。  CIA工作員時代からの豊富な人脈を駆使すれ ば、そうした安全措置の敷設も決して不可能なこ とではない。その正体を知る者だちから、後に 『BB文書』の略号で呼ばれるようになる文書に は、彼の父親の直筆サインも記されている。クレ ムリン、北京、ピョンヤン。もっとも知られたく ない相手にそれを見られた場合、東馬を巡って演 じられたこの半年間の無様ともども、囗米はそ ろって取り返しのつかない醜聞種を握られること になる。最初は東馬を監禁し、自白剤を使って文 書の所在を聞き出そうとした市ヶ谷の強気は、そ の囗のうちに文書を模した一冊の本がソビエト大 使館に届けられた現実を前に、萎えていった。世 界中に張り巡らせた情報網をフル稼働させ、赤坂 も文書の行方を追ったが、隠匿場所はおろか、安 全措置の概要さえつかむことができず、日米が必 死に追い求めたがゆえに「パンドラの箱」のイ メージだけがひとり歩きをした『BB文書』は、 その実情に関わりなく、各国の情報機関から「世 界を覆す」重要機密として認識されるようになっ ていった。  清算は一部の者が独断で行ったもので、実行者 は処分した。貴君の生命は合衆国の威信にかけて 保証すると言ったCIA長官の懇願も、このさき 永遠に見張られ続けることになるぞと脅した治安 情報局長の言葉にも耳を貸さず、あらゆる外圧を はね除けて黙秘を通した東馬は、再び市ヶ谷で飼 い殺しの日々を送るようになった。生きるに値し なくなった世界で、内奥に宿った火だけがその存 在を現世に繋ぎ止めていた。  父と会わなければならない。会って、示さなけ ればならない。彼の息子にも魂があるのだという ことを。十二歳の子供ではなく、対等な人格とし て向き合える可能性があるのだということをI。 父の任期終了と同時に狂乱は去ったが、『BB文 書』の効果がなくなったわけでも、東馬の中の火 が消えたわけでもない。十年後、《キメラ》がそ の炎に呼び寄せられてくるとともに、すべては定 められた結末に向かって走り始めたのだった。  それは、運命の歯車が紡いだ縮図だった。互い によかれと信じ、わかりあおうと努めながら、ど こかでその距離を縮めることができず、警戒と恐 怖を募らせていった二つの国の縮図。揺るぎない 価値観と力を持つ父は、空白の中に取り残された 息子に同じものを与えようと試み、力だけを身に つけてしまった息子を恐れるようになった。他に 自分を示す術を知らない息子は、加減を知らずに 力を振い続け、それを失うと同時に自分の存在価 値も見失っていった。  両者の相剋は、魂のない息子が自我を確立し、 対等な人間として父親と向き合う以外、解けるこ とはない。保身に走った父親に捨てられ、困難か ら逃げ続けた祖国にも裏切られ、すべての帰属を 失ってしまった東馬は、根無し草になった自分と、 この国とを同一視したのかもしれない。「十二歳 の子供」のまま閉塞してしまった国を成長させる ことで、なくしたものI自分の魂も取り戻せる と信じた。それゆえ、彼は在日米軍を中心に据え た国防体制を改革し、日本に責任能力を持たせる 計画《キメラ》の人柱役を、受け入れなければな らなかったのだろうか?  違うだろう。そんなことでこの国の体質は変わ りはしないし、彼の魂が救われることもない。東 馬は、自分を捨てたすべての者に復讐するため、 《キメラ》を利用したのだ。  合成生物キメラが自己の免疫で死に至るように、 相容れない二つの血に苦しめられ続けた男は、そ の死をもって身勝手な「父」と、欲得勘定にばか り長けた「十二歳の子供」たちに苛酷な現実を示 そうとしている。痛みをもってすべての人に真実 を伝えると言った言葉通り、無視することも先送 りすることもできない、忘れ得ぬ何らかの「痛 み」を実践することで、強制的にこの国を幼年期 から引き上げ、父の国と向き合わせようとしてい るのだ。  価値ある死によってしか、生の意味を見出せな かった青い瞳。死という終焉のみが、絶望を救え ると信じて……。  「……自分の要求を呑めば、彼は『BB文書』を 引き渡してもいいと言ったわ。期日は四日後の晩、 午前零時。取引場所は沖縄、在日米軍辺野古弾薬 基地。……そこに、彼の父親を呼んでおくこと」  由梨が言う。もう驚く理由も気力もなく、平は その顔を見つめた。  「ただそれだけ。ほかにはなにもない。命の保証 も、自由の要求も。斷れば、《キメラ》と『BB』 を公表して、在日米軍基地への直接攻撃を実行す る。……脅しじゃないわ。そのための道具は、す でに日米双方が渡してしまってるんだから」  情けなさに笑うしかないといった声たった。沸 騰した蒸気が縊れ出すのを感じながら、平は拳を 握りしめていった。  「無論、要求は受け入れられないわ。アメリカの 『国益』を、彼の手にかけさせるわけにはいかな いもの。……ダイスは《キメラ》清算の特別権限 をもって、辺野古基地に米軍との共同防衛ライン を敷設。トウェルブの侵攻に備えて、これを殲滅 するわ」  この護衛艦が、その前線基地になる。士官の声 で言った後、不意に歪んだ由梨の顔が、「米軍な んかに殺させはしない。トウェルブは、あたしが この手で始末する」と続けていた。  あいつは、東馬に個人的な恨みを持っている。 護の言葉を証明するように繰り出された本音が、 胸の危険物に火をつけた。「ふざけるなっ’・」と 吠えた平は、その襟首をつかんで壁に押しつけて いた。  「誰がそうさせた。誰があいつをここまで追い詰 めたと思ってるんだ’・」  抵抗する気配もなく、由梨は無表情な顔をこち らに向けている。平は「答えろっ’・」と怒鳴って その体を揺するようにした。  「《キメラ》の責任者は誰だ。誰がこんな汚いこ とを思いついた……’・」  人形のようにされるままになっていた由梨は、 顔を伏せ、「……あたしたちよ」と口許を弛めた。 壊れた笑い声にぞっとなり、思わずつかんだ襟を 放すと、笑いを消した目がまっすぐに平を射た。  「あたしたちみんなよ。国の形も人の形も見失っ て、主権とエゴの区別さえできなくなった日本人 全員がさせたことよ’・ 沖縄の大たちは気の毒だ けど、基地が自分の家の隣にくるのはイヤ。だか らって安保を捨てて世界の中でひとり立ちする勇 気もない。イヤなことから目を背けて、都合のい い平和主義を唱えて、傷つくことを恐れ続けたこ の国が、小さな輪の中の平穏を守るためにしたこ とよ……!・」  血を吐く言葉、と聞こえた。胸の火がかき消え、 平はぶつける相手のなくなった拳を下ろしていっ た。  「あたしたちの仕事なのよ、それが。でも東馬は 裏切った。作戦を、自分の復讐のお膳立てに利用 した」  襟を正し、情報士官の顔を取り戻して、由梨は 離れる足を踏み出した。平はそれを見ることがで きなかった。  「だから消すのよ。なにもかも。それがあたしの 役目。《キメラ》、そしてトウエルブの清算……。 あたしにしかそれはできない」  水密扉の開閉機構が大きな音を立て、閉まると、 由梨の気配は消えた。その場に立ち尽くしたまま、 平はのしかかってくる絶望が全身の毛穴を埋めて ゆくのを感じた。  島影もなくなり、月だけが唯一の光源になった 頃、食事と救急箱を持った理沙が船倉に降りてき た。  船は問題なく沖縄本島に向かっているらしい。 裸電球が照らし出す船倉の片隅で、新たに投与し たモルヒネのために感覚のなくなった足を見、 黙々と包帯を替える理沙の顔を見た坂部は、その 胸に優子の刺繍を見つけて、目を逸らしていた。  「あんたに《キメラ》を持ちかけたお偉いさ ん……古武とかって男は、『BB』の中身を知つ てるんだろ?」  光が漏れないよう厚布が掛けられた船窓の下に 腰かけ、愛用のワルザーPPKを分解整備してい る東馬が「そのはずだ」と応じる。坂部は「じや あ、こうなるつてこともわかっていたはずだな」 と続けてみた。  「ああ。だがほかにこの役目を演じられる者はい ない。この国に国家としての顔を持たせたいとい う思いは、あの男も同じだ」  フランネルでワルザーのバレルを磨いていた手 を止め、東馬は「……出自も似ているしな」と付 け足した。らしくない歯切れの悪さに片方の眉を 吊り上げた坂部と少しだけ目を合わせ、東馬は苦 笑顔で再び手を動かし始めた。  「なんにしろ、もう関係ないことだ。しきすべて に決着がつく。否応のない現実との対面が、半世 紀続いたこの国の幼年期を終わらせる」  「そうだがな……。そいつは、祈りみたいなもん だ。在沖海兵隊の撤退にどんな意味があるか、何 人の国民が理解してると思う? この国はとっく に瀕死なんだ。自分の出したゴミの始末もできず、 窒息しかけてるような連中だ。……おれたちのや ろうとしていることは、その死期を早める結果に しかならないかもしれない」  『GUSOH』と呼ばれる冥界の門の開放が、過 去のどんな犯罪よりも悪質な無差別テロであるこ とは、坂部も自覚していた。まだ決まったわけで はない、最後の希望は残っていると東馬は言うが、 彼らが要求を呑み、東馬の父を呼ぶ可能性がゼロ に近いことは、間違いのない事実だった。  父親との対面、『GUSOHの門』の開放。東 馬が本当に望むのはどちらなのか。治療を終え、 次の指示を求める目を向けた理沙に微笑を返した 東馬は、ただ見つめるしかない坂部に「わかって いる」と答えた。  「それでも、なにもしなければ我々は緩やかに死 んでゆくだけだ。十二歳の先にある成熟を迎えな ければ、次の世紀をこの国が生き延びることはで きない」  照れたように顔をうつむけ、理沙は使い終わっ た包帯や薬をまとめてビニール袋に入れる。それ を見つめる東馬の目を見て、坂部はふと頭をもた げた迷いを捨てる覚悟を決めた。信じよう。二つ の国の血を受けた者として、「善く在る」ために 行動を起こした男を。こんな目で他人を見られる ようになった男の判断を。立ち上がり、組み立て たワルザーのスライドを戻した東馬は、それを 知っているかのように最後に言っていた。  「トウエルブY.0.……。十二歳の時代は、わ たしとともに終わるんだ」  総員起こし五分前の艦内放送を三度聞き、四回 目の夕食が差し入れられてからしばらく。倉庫の 床がゆっくり左右に動き始めた。  また波が荒れてきたらしい。復元力の強い護衛 艦の船体は、それだけ敏感に波浪に反応する。三 角波に突き上げられた船体が悲鳴のような軋み音 を立て、右に左にと傾斜する床の上では、転がっ た紙コップが壁の間を行きつ戻りつしている。非 常食のダンボールが積み重ねられた倉庫の片隅に 座り込み、ぼんやりそれを目で追っている平は、 この三日間ずっとそうしているように静正して、 時間が行き過ぎるのを待っていた。  艦底に近いこの倉庫はそれだけ揺れもひどく、 常人ならとっくに胃の中身を吐き出している頃合 なのに、なんとも感じていない体がお笑いぐさ だった。戦技飛行中でも平衡感覚を維持できる、 ヘリパイの神経はまだ生きているらしい。ロー ター音を聞いただけで呼吸困難になる男に、それ がなんの役に立つというのか。もうなにを言って もやっても仕方がない、言われた通りすべてが片 付くまでここでじっとしているしかない自分を受 け入れて、平は心を閉じた。この十年間そうして きたように、困難に背を向け、言い訳に逃げて、 残された選択肢の中からいちばん楽な道を選び 取って、嵐が行き過ぎるのを待っていた。ヘリご と地面に叩きつけられた時や、上野のバーで袋叩 きにされた時と同じように。決断を避け、責任逃 れを金で埋め合わせて、行き詰まれば狂言を打っ て問題を解決しようとした、十二歳の国と同じよ うに……。  それを批判できる人間は、ひとりしかいない。 東馬修匸おれが見捨てられたと思い込み、無為 な時間を過ごしている間に、あんたは本当の地獄 を見てきた。この世の涯に立ち、絶望に塗り込め られてゆく世界を見つめてきた。地場利益のため だけに一票を投じておきながら、国政不在の政治 腐敗を嘆く者たち。バブル不況を金融業界に押し つけ、事業欲と権勢欲に取り憑かれていた自分を よそに、被害者面で責任追及を叫ぶ者たち。節度 を欠いていた、その問題の根源には目を向けよう とせず、しょせんは生活に追われる弱者でしかな い自らを正当化して、時々の敵役を槍玉に上げて 憂さ晴らしをするしかない者たち。彼らには言う 権利がなくても、あんたには言える。明日の形を 見失った、この国の閉塞と絶望を。あんたとこの 国は合わせ鏡。根のない自分と向き合い、それを 手に入れるために血を流し続けた、もうひとつの 「日本」そのものなのだから……。  由梨はあれ以来姿を見せない。あの後すぐにヘ リが離艦したようだから、多分それに乗っていっ たのだろう。今頃は、沖縄基地であんたを迎え撃 つ準備に追われているのかもしれない。約束の時 は今晩。午前零時まで、あと六時間もない。  あんたのことだ、ダイスと米軍がどんなに厳重 な警戒網を敷いていても、それを突破する秘策を 用意しているんだろう。理沙とともに、忘れられ ない「痛み」とやらを実践してみせることだろう。 呑むはずのない要求を突きつけたのは、彼らに最 後のチャンスを与えようとしたからか? 本当に 父親が来ると信じているのか? それにどんな意 味があるっていうんだ。彼に会えば、あんたや、 あんたを裏切り続けてきたこの国が魂を取り戻せ るとでもいうのか……冫。  まあいい。十分に考えてのことなんだろう。確 かに、ここには救い難い絶望だけが渦巻いている。 ずっと逃げてきたおれに意見する権利はないし、 そのつもりもない。時間の感覚の消えたこの部屋 で、じっとしているしか能のない無価値な男だ。  でもIでも、なにかひとつ言い忘れたことが ある。最後に会ったあの沼のほとりで、おれば確 かになにかを言いかけた。あんたと理沙の背中を 見て、どうしても伝えなければならないことがあ ると思った。なんなのかは今でもわからない、で もとても大切な、おれにしか言えない言葉が……。  ひどく間近に軋む音を聞いて、平は顔を上げた。 水密扉のロックが外され、開くところだった。夕 飯を下げた後はもう用はないはずで、携帯用トイ レの交換にでも来たのかと思い、壁に預けていた 背中を起こした平は、扉の向こうに立つ顔を見て、 あんぐりと口を開けてしまった。  「護……りI」  間違いなかった。半分ほど開けた扉の横で、辻 井護の底堅い瞳がまっすぐこちらを見ていた。  いくぶん傷は残っているものの、包帯の取れた 頭の下の顔は血色よく、上野で初めて会った時と 同じ精気を宿している。思わず中腰になった平は、 扉を全開にしながら倒れ込んできた人の姿に、出 しかけた声を引っ込めた。  丸太のように床に転がった大柄は、何度か飯の 差し入れにきた見張り役のひとりだった。急転し た事態に頭がついてゆかず、護の無表情と、潰さ れた鼻から血を流している見張りの顔を交互に見 比べた平は、その間に割って入った知らない男の 背広姿に、開きっぱなしたった口を閉じた。  「フライトを頼みたい。曹長」  そう言った初老の男の顔には、どことなく狸を 思わせる愛敬があったが、拳ひとつ下から見上げ る目は鋭かった。聞き返すより先に護が放った白 いスイカ大の物体を腹に受け止めた平は、手にし たそれを見て絶句していた。  フライトヘルメット。陸自が使っているものよ り軽い、海自のFHG3型ヘルメットを見、護が 床に置いたずだ袋の中に航空服のオレンジが覗い ているのも見てしまった平は、青ざめる顔を自覚 した。  「……益J理だ。知ってんだろ?」  ヘリの中での醜態を見ているはずの護に助けを 求めたが、見張りの懐からシグサワー拳銃を抜き 取り、戸口に立って通路の左右を窺い始めた背中 は、こちらを振り向こうともしない。代わりに狸 面の男が「わかっている」と一歩前に出ていた。  「しかし君のほかにヘリを飛ばせる者はいない。 巻き込みっぱなしで言えることではないが、協力 してもらいたい」  「……どうしようってんです」  「沖縄に行く。東馬が行動を起こす前に、《キメ ラ》の全資料を辺野古基地に流して、戦闘を中止 させる。対潜ヘリの戦術情報システムは米軍とも リンクしているから、資料を送り込むことも不可 能じゃないはずだ」  呼吸を忘れた平に、懐から取り出したフロッ ピーディスクを示した狸面は、「無茶は承知の上 だ」と付け加えた。  「だがウィルスの侵入を警戒して、在沖の米軍基 地はどこもネットワークを遮断して、自律防衛体 制に切り替えている。辺野古基地にアクセスする ためには、直接近づいて送信する以外に手はな い」  地上通信の有効半径は、地平線上までが限界。 衛星回路が使えないとなれば、送信先と同じ地平 線上にまで接近−つまり目視できるところまで 近づかなければならないのが道理だった。護衛艦 という孤島に閉じ込められている身で、それをす るにはヘリを奪って現地に飛ぶしかない。そのた めに護を連れ出し、自分にもう一度ピッチレバー を握らせようとしている男の意図はわかっても、 実際にできるかどうかはわからず、ヘルメットを 持つ手の震えも止められない。平は、「でも……」 と詰まった声を出した。  「あんたはダイスの人でしょう? どうし て……」  「我々のしたことは、みんな間違いだ。公的機関 化を焦るあまり、《キメラ》のような作戦を容認 してしまった。その一端にある者として、取るべ き責任を取りたい」  狸面の印象を覆えすまっすぐな目に、忘れてい たなにかを思い出させられたような気がした。一 歩近づくと、男は震える平の手に自分の手を重ね た。  「今の君は、飛べないと自分で決めつけているだ けだ。目的が見つかれば、もういちど飛べるはず だ」  「目的……冫・」  「東馬たちを生きたまま連れ戻す。すべての事実 を公表して、国民の審判に委ねるんだ。無論、 我々ダイスもI緒にな」  そう言った男の顔は、清々とした微笑を浮かべ ていた。熱い手のひらの感触を受けながらも、平 は「そんなことをしたら……」と声をかすれさせ た。  「政府が転覆するだけじゃない。際限のない混乱 が日米両国を襲うことになるだろう。……だがな、 嘘と犠牲の上に成り立った新世紀を、次の世代の 子供たちに手渡すよりは、ましだと思わんか?」  年輪の刻まれた顔に、黒い真摯な瞳を光らせて 男は言いきった。汚濁の中に頭まで浸かり、苛酷 な現実と渡り合うために信条を切り売りしてきた 者が、己の尊厳を守るために最後の一線で踏み止 まろうとする目だった。受け止めきれずに、平は 無線付きのヘルメットに視線を落とした。  「沖縄のことも、防衛力の在り方も、情報局の存 続も。国の未来に関することは、すべて国民の合 意を得てから行うのが本当のはずだ。我々はずっ とそれを怠ってきた。その場の都合を埋めること だけを考えて、《キメラ》のようなやり方ですべ てを解決しようとした。トウエルブは東馬の怨念 の産物じゃない。我々のだらしなさが、トウエル ブを生んだんだ」  「早く。人が来る」  護が言う。振り返ってから、男はあらためて平 の顔を直視した。  「そのために多くの血が流れた。それは東馬ひと りに押しつけて帳消しになるような罪じゃない。 いま勇気を持って本当のことを話さなければ、こ の国は曲がった背筋を一生のぼせなくなってしま  頼む、平曹長。飛んでくれ。我々の、この国の 明日のために」  熱を帯びた男の目の向こうには、答えを待つ護 の顔もあった。「あるべき世界」の実現を信じて 疑わなかった昔の自分がそこに重なり、平は考え るより先にぼろぼろのジャケットから肩を抜いて いた。  ずだ袋から航空服を取り出し、手早く身に付け る。まだ要領を忘れていない自分に、きっとやれ る、やるしかないと信じるしかなかった。  昨年からダークグリーンに一新された海自の航 空服だが、支給品を大事にする自衛隊の常で、こ のくあさぎり》では旧タイプのストック品がいま だに使われていた。難燃繊維で織り込まれたオレ ンジの繋ぎの下に、航空靴と呼ばれる編み上げ ブーツを履き、ダイーマーカーや餃よけ薬、救急 医薬品から小型呼吸ボンベまでを収納した救命胴 衣を装着した平は、後部飛行甲板に向かって狭い 通路を歩き始めた。  井島という名を明かした男と、両手を手錠に繋 いだように見せかけた護がそれを先導する。床一 枚挟んだ下では、四基のガスタービンエンジンが ジェットの吸気に似た甲高い振動を立てており、 《あさぎり》が前進強速の最中にあることを伝え ていた。  ヘリの発進が近いのかもしれない。狭く不安定 な飛行甲板からヘリを飛び立たせるため、風上に 向かって速度を上げ、対気効果を向上させるのも 発艦プロセスのひとつだ。慌ただしく行き交う水 兵たちの不審げな目を避け、ヘルメットのクリア バイザーを下ろした平は、息が詰まる圧迫感にす ぐにそれを上げていた。  すくみそうになる足を一歩進めるごとに、不安 と恐怖が重みを増す。穴から抜け出すと決めたは ずの覚悟が次第に薄れてきて、じっとしていた方 が利口だと囁くいつもの弱気が、毒のように全身 に回ってゆく。先を歩く二人の背中を注視してど うにかそれを押しとどめ、痺れた手を握りつつ、 怪しまれない程度の早足で歩いた平は、不意に立 ち止まった護の背中にぶつかって危うく声をあげ そうになった。  第一甲板に上がる梯子の一歩手前で、護衛艦に は不似合いなスーツを着た男が不審の目を注いで いた。波に傾いた床に足を踏んばった後、囚人と その連行者、パイロットという怪しい三人組に近 づいてきた男は、「井島部長、どちらへ?」と慇 懃無礼の声を出した。  「これから発進するヘリに便乗して、本部に戻る。 聞いとらんのか」  狸の見てくれとは違う、戦車のような重量感を 持った井島の背中が応じる。幹部の声にやや気押 されたらしい男は、「確認させていただきます」 と言って懐から小型無線機を取り出した。  井島の顔がわずかにこちらを見る。ほとんど同 時に見せかけの手錠を捨てた護の手が動き、男の 顔面に掌底を打ち込んでいた。  鼻血をまき散らし、後頭部を壁に打ちつけた男 が、狭い通路を塞ぐようにして倒れる。さすがの 力に護の顔を見直した瞬間、「動くなっ’・」の声 が背後に弾けて、平は心臓が口から飛び出る思い を味わった。  重力タンク室前のT字路の陰にひとり、機械室 に続くラッタルの後ろにひとり。それぞれクロッ ク拳銃を手にした男たちの顔を振り返った途端、 轟音と閃光が通路を満たして、太股に血の華を咲 かせた男が梯子の後ろに崩れた。  咄嗟に腰を落とし、引き金を引いて返事をした 護を見る間もなく、通路の陰に待避したもうひと りの応射が始まり、着弾の火花がすぐ横の壁に弾 ける。手首だけを出しての銃撃に、片膝をついた 護も撃ち返し、マズルフラッシュの光が立て続け に通路に閃いてゆく。ヘルメットの数センチ横を 熱い空気の瑰が通り過ぎ、足をもつれさせた平は、 井島に救命胴衣のスリングをつかまれて、引きず られるように走り出していた。  昏倒している男を飛び越え、ひとつ先のラッタ ルヘ。第一甲板にそびえる後部構造部に上ると、 波を切る音と風の音、護衛艦のエンジンの音に混 ざって、聞き慣れたターボシャフトの律動が鼓膜 を揺らした。ヘリはもう飛行甲板に出てエンジン を立ち上げているらしい。井島に引っ張られ、止 まりそうになる足を必死に動かした平は、後部構 造部の半分を占めるヘリコプター格納庫に出たと ころで、それを目前にした。  SH‐60J、シーボーグ。最新のセンサーと データリンク装置を備え、文字通りの鷹の目で海 の底まで見通し、母艦に敵潜水艦の位置を知らせ る対潜哨戒ヘリ。最強のサブマリンー(ンターの 異名を持つ白い機体が、スポットライトの光の輪 に浮かび上がっていた。思わず立ち止まってし まった平は、「急げ’・」と怒鳴った井島の声に急 き立てられて、クレーンの吊り下がる格納庫のが らんどうを走り抜けた。  シャッターロの向こう、後部構造部からテラス のように張り出した飛行甲板は、テニスコートに 毛が生えた程度のスペースしかなく、甲板上に設 置された急速拘束装置が吸盤の役目を果たして、 横揺れする艦上にヘリを固定している。操縦士と 副操縦士が発進前の指差チェックをしている姿が 風防ガラスごしに微かに見え、その手前、格納庫 を出てすぐ横にある発着艦指揮所では、ガラス張 りのボックスにこもっだ専任の飛行長がパイロッ トと無線連絡を取り合っている最中たった。わけ がわからずにおろおろする整備員を押し退けて、 井島は迷わずそこに走っていった。  大きめの電話ボックスといった風情のLSOは 半分床下に埋まっており、飛行長は腰から上を甲 板上に出してヘリの発着指揮を執ることになる。 傾斜する甲板に足を取られ、よろけるように風防 に取りついた井島は、視界を遮った乱入者に飛行 長がぎよっとした目を向けるより先に、(ツチを 開いてクロックの銃口を突きつけていた。  「すまんな、飛行長。パイロットに交代するよう 連絡してもらえんか?」  思わず退がろうとして、狭いLSOの風防に頭 を打ちつけてしまった中年の飛行長は、「そ、そ んなこと、できるわけない’・」と青ざめた顔でわ めいた。「違いない」とあっさり納得した井島は、 続く一瞬でクロックのグリップを飛行長の首筋に 打ち込んだ。  外見からは想像できない、素早い動作に呆然と している間に、沈み込んだ飛行長をどかしてLS Oの中に潜り込んだ井島は、コンソールをざっと 眺めてから平の顔を見上げた。「拘束具を外した らわたしも乗り込む。先に行ってくれ」と言った 声に、平は石になった唾を飲み下した。  「で、でもパイロットが……」  パイロット二人のほかに、後部キャビンに最低 でも航空士が一名。三人の自衛官を素手で組み伏 せる自信はない。(ツチにしがみつくようにして 言うと、井島は「もう降りたようだ」とヘリの方 を顎で指し示した。  振り向いた先に、いつの間にかヘリに取りつい ている護の姿があった。操縦席のドアを開け、パ イロットに銃口を突きつけて降りるよう指示して いる。手を上げた操縦士と副操縦士が機外に出る と、側面のカーゴドアがスライドして、航空士も 甲板に降り立った。シグサワーを握った手を動か し、三人を格納庫に退避させた護を見ながら、井 島は「彼は優秀な男だ」と、誇らしさと後ろめた さが入り混じる声で言った。  「必要なことはすべて教えてある。任せておけば 問題ない」  そう言いきってから、井島は、「念のためだ」 と付け加えてフロッピーを平に手渡した。《キメ ラ》の汚濁を吸い切ったように、ひどく重く感じ られるフロッピーを航空服のポケットに収めた平 は、あらためて闇に浮かび上がるヘリに振り返っ た。  すでにローターを回しているシーボーグは、飛 び立つ直前の精悍さをたたえてこちらに機首を向 けている。ターボシヤフトーエンジンの音が頭か ら降りかかり、覚悟もなにもかも吹き飛ばして、 その場に蹲りたい衝動が平の体を支配した。無理 だ。できない。飛べるわけがない……。  「なにしてる’・ 行くんだ」と井島。その手はも うベアトラップ解除のレバーにのっている。それ を見た途端、目の前に火花が弾け、複数の銃声が 風と波の音の中に混ざった。  格納庫上からの火線だった。先刻の背広の男だ ちが応援を呼んだらしい。パン、パンと間の抜け た音が連続し、甲板に跳弾の火花が咲く。尻餅を ついてしまった平は、LSOに直撃した銃弾が防 弾ガラスを白く曇らせるのを見て、空をかきわけ るように立ち上かっていた。  ヘリの操縦席まで、七メートルと少し。夢中で 走る体を押し返してローター風が吹きつけ、左右 に揺れる甲板に銃弾の音と光が弾ける。カーゴド アから腕と頭を出し、護も応戦の引き金を引いて いるが、五つ以上の銃火を相手に、こちらを援護 するのが精一杯のようだった。  格納庫の中と上に布陣した男たちは、互いを庇 いあいながら確実に距離を詰めてくる。一発がヘ ルメットをかすめ、殴りつけられる衝撃に倒れ込 んだ平は、その勢いで操縦席のドアをつかみ、ヘ リに乗り込むことに成功した。  対潜哨戒ヘリを動かすのは初めてのことだった が、後部にぎっしリレーダー機器が搭載されてい るのを別にすれば、機体そのものの構造は普通の ヘリと変わらない。サイクリックとコレクティブ の二つのレバーに、フットペダル。ローター回転 計、速度計、高度計、姿勢儀。警報灯はすべて消 灯していて、コンプレッサー温度も正常範囲内に 収まっている。いつでも飛べることを確認し、 (Iネスをしめてピッチレバーを握ろうとしたと ころで、ぼたぼたと音を立てて数滴の雫が航空服 の膝に滴った。  汗たった。あの時と同じように、シャワーを浴 びた直後のような水滴が顔中に張りついていた。 慌てて手袋の甲で拭い、平はもう一度レバーに手 を伸ばそうとしたが、震える指先はまったく言う ことを聞こうとしなかった。  もし感覚が伝わってこなかったら。そのまま飛 んで、また墜落するようなことになったら。意思 に反して浮かび上がってきたそれらの言葉が、全 身の神経を硬直させてゆく。不規則に鼓動を打つ 心臓、こみ上げてくる吐き気。気管が破けてし まったかのように、いくら空気を吸っても酸素が 肺に届かない。だめだ、できない。やっぱり飛べ るわけがない。震えの止まらない手を胸の前にか き合わせて、平は銃弾の爆ぜる操縦席で再び静正 してしまった。  護がなにかを叫んでいる顔が、風防脇のバック ミラーに映る。音は聞こえない。正面には四角い 穴から煌々と光を放っている格納庫のシャッター ロがあり、その上で各種レーダー板や揚索を鈴な りに実らせた後部マストの鉄塔が、陰気なクリス マスツリーのごとく両舷の航海灯を点滅させてい る。待避する整備員の背中と、シャッターレール の脇にまで接近した背広の男たちの姿が遠い世界 の出来事のように見え、銃弾が風防に爆ぜて白い 染みを作っても、目を閉じることさえ思いつかな い。すべてを拒絶し、閉じこもった平の神経に、 足もとに響いた鈍い衝撃だけが微かに伝わった。  井島がベアトラップを解除したらしい。機体下 部に接合していた拘束ビームが外れ、傾いた甲板 上を滑ったシーボーグの機体がじわりと動く。L SOから這い出した井島は、追手に一発牽制の引 き金を引いた後、こちらに向かって走り出してい た。  火花がその後を追って甲板を走る。走る井島の 肩から黒いものが飛び散り、弾き飛ばされた体が 甲板に倒れたのは、その直後のことだった。  即座にカーゴドアから飛び出した護が、引き金 を引きながらうつ伏せの背中に駆け寄る。弾のな くなったシグサワーを捨て、倒れた井島に肩を貸 して引き起こすと、甲板に転がったクロックを拾 い、牽制の弾幕を張りながらLSOの陰に退避す る。なんとか体を起こした井島の顔がこちらを見、 絶望でも軽蔑でもない、ただ前に進めと訴えかけ る目を見た平は、耐えきれずに顔を伏せ、ヘル メットの頭を抱えていた。  許容範囲を越えた負荷にさらされ、痙攣を起こ した精神に、さまざまな映像が浮かんでは消える。 台所に立つ母の背中。墜落したヘリの中で、計器 盤に頭を突っ込んで絶命していた日下部の顔。コ ンテナに積まれた死体袋。脈絡のない記憶の奔流 が加速し、なにもわからない、考えられなくなっ た頭に、ふとひとつの像が結晶して止まった。  暗い森に消えてゆく二つの背中。牛久沼のほと りで見た、東馬と理沙の背中たった。伝えなけれ ばならないことがあるのに、二人はどんどん遠ざ かってゆく。その先には二度と戻れない、暗く冷 たい沼があるだけなのに、寄り添った二つの背中 は振り向かずに歩いていってしまう。追いかけよ うとしても体が動かず、平は全身を声にしてそれ を呼び止めていた。  東馬の背中が止まる。そうだ、おれはあんたに 言わなければならないことがある。あんたから預 かった言葉。そのためにもういちど出会うことに なった、かけがえのない言葉。やっと思い出した んだ。おれを救い出してくれた時、あんたが言っ てくれた言葉−。  死ぬな。生きろ……’・  振り向いた東馬の碧眼が、こちらを見る。その 手がゆっくりと差し出され、今度は自分が救い出 すために、平はそれをぎゅっと握りしめた。  熱い脈動が伝わってくる。それと同時に甲高い エンジンの吸気音、銃撃の音が高まり、目を開け た平は、東馬の手を握ったはずの右手が、サイク リッターピッチレバーを握っているのを見た。  懐かしい振動が体を共振させる。エンジンの回 転数、吹きつける気流、機体の姿勢。それらが体 の中に取り込まれ、神経に馴染んでゆく。なんだ、 今までおれはなにをしていたんだ? ずっと探し ていたものが、ふと手元に見つかったかのような 感覚が全身を駆け抜け、さっと霧が晴れると、自 分が今どこにいて、なにをすべきかが明白になっ た。冷えきっだ虚無にどうどうと湯が注ぎ込まれ、 萎えていた四肢に血が巡ってゆく。パイロットの 目を上げた平は、姿勢儀の数字を片方の目で読み 取り、波間に揺られる艦が一瞬の安定を得た瞬間 を逃さずに、コレクティブーレバーを引き上げた。  ひときわ高くなったエンジン音とともに、シー ボーグのランディングーギアが飛行甲板を離れる。 重力の糸を断ち切り、前進強速中の護衛艦から舞 い上がった機体は、対向する気流をローターに受 けて束の間流された後、自らの力で前に進み、甲 板上にホバリングしてみせた。  慌てふだめく背広たちの顔が見える。上に向け られた銃口が何度となく瞬き、機体の腹に火花を 散らせるのを感じ取った平は、格納庫上から狙撃 する男を見据えて、シーボーグの機体をじわりと 前進させた。  轟然と回転する四枚の全関節型ブレードが喉も とに迫り、宣]つ青になった男が慌てて退避する。 すぐ目前にそびえるマストに留意しつつ、艦と相 対速度を合わせて柢高度を維持するのは神業に等 しい飛行術だったが、今の平には問題なかった。 かつてそうだったように、ヘリの動力系はその四 肢となり、計器は五官と連動している。いちど上 昇した後、LSOの陰に退避した護たちに銃撃が 集中する気配を目敏く察した平は、コレクティブ を下げて一気に機体を降下させた。  猛然と降下してきたシーボーグに、背広たちが 蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。接地ぎりぎ りまで高度を落とし、護たちの楯を務めた平は、 懲りずに銃撃を続ける背広を追い払うべく、右の フットペダルを踏み込んだ。  テールローターの回転が弱まり、ローターの回 転をもらった機体が大きく左に尻を振る。ヘリの 尻尾が巨大な棍棒となって甲板を一掃し、避けき れずに直撃を受けた背広の体が、飛行甲板から弾 き飛ばされてゆく。半回転したところでペダルを 元に戻した平は、すぐ横で身を柢くしている護と 井島に、「早く乗れ’・」と口を動かした。  肩の傷口を押さえていた腕を外し、親指を立て て見せた井島は、にやりと笑ってなにかを言った ようだ。その間に駆け出した護は、ニメートルの 高さに固定したヘリに向かって跳躍し、カーゴド アの縁に取りつくと、猿のような身軽さで機内に 体を滑り込ませていた。  行けというふうに手を動かしたきり、井島は動 こうとしない。操縦席のシート脇に顔を出した護 が「一佐はここに残る」と言い、自分がグズグズ していたためにそうなってしまった悔恨を一瞬噛 みしめた平は、務めを果たすことでそれを償うと 決めて、上昇、離脱の操作を行った。  転舵したシーボーグの機体が、夜の海上に羽ば たいてゆく。甲板にうつ伏せになり、両手を頭に 載せて降伏の意思を示した井島の姿が遠ざかり、 それを取り囲んだ背広たちの背中もみるみる小さ くなってゆく。ひとりが無線になにかを吹き込み、 あきらめたような目をこちらに向けたのが、最後 に判別できた光景だった。暗い海にそこだけ小さ く明りを灯していたくあさぎり》の船体は、やが てひとつの光点となり、闇に溶けていった。  艦が追撃の火線をのばしてくればひとたまりも ないが、いくらダイスでも、数億の国家資産を現 場判断で破壊することはできないだろう。市ヶ谷 から海上幕僚監部、自衛艦隊司令部と命令が経由 している間に、こちらは射程圏外まで離れられる。 楽観的に過ぎる観測であっても、そう信じて腹を 括った平は、やっと取り戻した自分の居場所− ヘリの操縦席に身を委ねていった。  「いい腕だ、曹長」  不意に声をかけられ、平は副操縦席の背もたれ に両腕を載せている護の顔を振り返った。微かに 笑みを浮かべ、「井島一佐からの伝言だ」と続け た護は、レーダー機器に埋められた後部キャビン に戻っていった。  理屈もなにもなく、東馬が護の口を借りてそう 言ったように感じた平は、明瞭になった世界を風 防の向こうに見つめた。  べったりとした闇の中に、時おり思い出したよ うに三角の白波が流れて、海上にある自分を教え てくれる。その先に、自分を待つ命の揺らめきが ある。もらった希望を、今度はこちらが手渡すた めに。生き続けてこそ迎えられる明日の価値を伝 えるためにI。正面を見据えて、平は沖縄へ向 かうヘリの速力を上げた。  午後九時三十二分。沖縄から望む夜の太平洋は、 どこか紺色に見えた。  奇妙に大きく映える月が、水平線上に無数の光 の粒を散らしている。暗視装置には強すぎる光 たった。手前にはそれよりもずっと暗い辺野古の 町の灯があり、国道を挟んで隣接する米軍基地か ら養分を吸い取り、辛うじて瞬いているネオンの 寂れた光彩が、沖縄の現状を端的に伝えているよ うだった。  琉球王国の栄華を伝える首里城や、「ありった けの地獄をかき集めた」沖縄戦の傷痕を留める戦 跡公園。無数のガマー鍾乳洞を内包する、隆起 珊瑚礁から形成された島の神秘的な景観と、どこ までも透明な海。青と赤の原色に彩られた、観光 地としての沖縄の顔が集中する南部に較べ、島の 大部分を占める中部から北部にかけての一帯を覆 う色は、湿り気を帯びた緑と乾いた茶の中間色だ。 延々と連なる砂糖キビ畑と、射爆演習に焦がされ、 抉られた大地の色。この辺野古にも濃く現れてい るそれらの色は、薩摩侵攻から始まった侵略と貧 困の歴史を、地続きに引き受けているこの島の素 の色なのかもしれなかった。  本土防衛の不沈空母として位置づけられながら、 実際に米軍の上陸が始まれば、大本営の戦略的判 断によって当然のごとく見殺しにされた島。十五 万人に及ぶ住民を悶死させた罪は、国政レベルで はついに一度も総括されることなく、反共の防波 堤として仮初の主権を与えられたこの国が、契約 の証として勝者に差し出した島。トウエルブは、 それを指しておまえと同じだと言っていた。平和 国家の帳尻を合わせるために作られた装置として。 一般社会とは切り離され、時々の都合によって発 動される「超法規的措置」に従い、後ろ暗い仕事 をこなしてきたおまえは、この珊瑚の島−ウル マそのものだ、と。よくわからない話だったが、 トウエルブがそう言うならそうなのだろう。いず れ任務とは関係のないことだと思い、理沙は暗視 装置の目を目標に向け直した。  国道三二九号線を縁取る道路灯の向こうに、無 数のガラスの目を穿った建物の連なりがある。無 個性なコンクリートの箱が並び建つ光景は団地の それを連想させるが、大きくゆとりを持だされた 配置は、日本とは感覚を異にするものだ。その先 には消防署から銀行、劇場、放送局まで備えた街 の灯りがあり、本島中東部から三角の頭を突き出 している辺野古畸の上に、キヤンプーシュワブと 呼ばれる在沖海兵隊の総合演習基地を形作ってい る。岬の両側は戦車揚陸艦の揚陸用ランプと上陸 演習地の斜面に囲まれ、国道に沿ってうねる数キ ロのフェンスの川に遮断されている一帯は、二千 人の海兵隊員が家族とともに暮らす一大居留地で あり、国道の手前、この久志岳を含む内陸側に広 大な用地を確保している射爆場ともども、囗本の 中の「外国」を現出しているのだった。  頭上から柢い振動が近づいてきた。長い夏の終 わりを迎えたばかりの夜気が震え、周囲に密生す る湿った藪がざわめく気配を感じた理沙は、戦闘 服に包んだ体を傍らのシートの中に潜り込ませた。  赤外線を遮断するシートの中には、三日がかり で持ち込んだ各種武器−MP‐5SD軽機関銃、 M72使い捨てロケットランチャー、破砕・焼夷・ 閃光の各種手榴弾、ベレッタF92自動拳銃など Iが眠っている。対ヘリ、対戦車の地雷はすで に設置が完了しており、他にもスティンガー対空 ミサイル、迫撃砲の筒などが、坂部の言葉を借り れば「軽い催眠にかかって」麻痺している基地警 備システムの間隙を突いて、所定の場所に隠匿さ れていた。  振動が行き過ぎるのを待ってからシートを這い 出した理沙は、百メートルの低空を飛んだ米軍の 攻撃ヘリ、アパッチが、フェンスを越えてオート ローテイション降下に入った姿を暗視映像の中に 確かめた。  ローター(ブに、ミリメートル波レーダーを備 えたロングボウータイプ。最新鋭のセンサーも、 久志岳の中腹に潜む自分の姿は捉えられなかった らしい。高度を下げたアパッチが、岬南面にある ヘリポートには降りず、北側に連なるもうひとつ の基地に降下するのを見届けて、理沙は暗視装置 の視界をそちらに据えた。  間を走る辺野古美謝川に阻まれ、隣接するキヤ ンプーシュワブとは別々のコミュニティを形成し ている基地。司令部ビルを中心とした人員駐屯地          イ  グ  ル  ー 区と、三十九個の半地下覆土式弾薬庫が点在する 高台は、辺野古弾薬基地と呼ばれる在沖海兵隊唯 一最大の火薬庫たった。  大浦湾に面する起伏の多い敷地は、海側を断崖 に囲まれており、厳重に警備された内陸側ゲート 以外には、いっさいアクセスする術がない。弾薬 庫区域は基地の中でさらに二重のフェンスに囲わ れ、警備と夜間作業のためにひときわ明るい照明 が完備されてもいる。以前からNBC(核・生 物・化学)兵器貯蔵の疑惑が絶えなかった天然の 要塞を見つめて、横に立ったトウェルブが「よく もそろえたものだ」と苦笑していた。  「『あれ』の存在を認めているようなものだな」  降下したアパッチはこれで六機目。ほかにも完 全武装の強襲偵察海兵一中隊が、いつでも動ける 軍用特殊車輛とともに臨戦態勢に入っている。辺 野古基地内はもちろん、キヤンプーシュワブの居 住区にも訓練名目の退避勧告が出ていて、街の光 は普段よりずっと暗い。トウエルブの襲撃予告に 対応したこととは言え、一弾薬基地を防衛するに しては異常とも言えるほどの戦力配備は、確かに 「あれ」を隠し持つがゆえになされたものと見て 間違いなかった。  基地の四隅には三つのパラボラを備えた鉄塔が 臨時に増設され、それを囲む通信車輛とともに、 三軍統合戦術通信システムまでが構築されている。 アポトーシスHの侵入を恐れ、DDN(米防衛 データーネットワーク)をシャットダウンして自律 防衛態勢を取っている辺野古基地の現状を教える 光景だったが、坂部はすでに基地地下を縦横に走 るサービストンネルに潜り込み、「あれ」 −『GUSOHの門』を管理するホストコン ピュータヘの(ツキング作業を開始しているはず だった。  すべてはシナリオ通り。トウエルブが書いたも のではない、その裏切りさえも内部に取り込んだ 巨大なシナリオが、しき完結する。この半年の時 間、彼とともに歩き、出会い、感じ、見たことの すべて。恐らくは自分の命も、あと数時間のうち に消滅する。そう思い、ずっと望んで来たはずの 終焉を前にして、もやもやだけが増幅してゆく胸 の内を見つめた理沙は、「……すまないな。結局、 ここまで来てしまった」とかけられたトウエルブ の声に、装着していた暗視装置のゴーグルを外し た。  急に暗闇に投げ出された目に、その表情を窺う ことはできなかった。理沙は「なぜ謝るんです か?」と言ってみた。  「おまえをそのように作り、ここまでつきあわせ てしまったのはわたしだ。すまないと思ってい る」  月の光に、目だけが浮かび上がって見えた。な にもなかった自分に目的を与え、存在し続ける理 由を与えてくれた青い瞳だった。この世で初めて 触れた光を見て、理沙は奇妙な痛みが胸を突くの を感じた。  腕や背中に押し当てられたタバコの跡以外に両 親を語る記憶はなく、栄養失調で死にかけていた 体を拾い上げてくれた施設にも、思い出すほどの 印象はない。地中深くに根を下ろした大樹に見出 され、その枝の上で新たな生を受けた自分にとっ て、東馬という葉の温もりだけが振り返れるすべ ての記憶だった。「……それが任務なら、謝る必 要はないと思います」と答えて、理沙は東馬の名 を捨てた男から目を逸らした。  「そうだな。そう言うおまえだから選んだ。…… だが、おまえにはウルマよりも、理沙という名前 の方が似合っているのも本当だ」  そう言われて、ウルマというコードネームを忘 れかけていた自分に気づいた理沙は、小さく息を 飲み込んだ。  胸のもやもやが溢れ出し、全身に染み渡ってゆ くのがわかる。抑えようと胸に手を当てて、アン ダーウェアに縫い込まれたダックスフントの刺繍 の感触を指先に感じ取ってしまった理沙は、無意 識のうちにそれをぎゅっと握りしめた。  自分に光を与えてくれたものたち。でも従うべ きは葉ではない。その源。ダイスという、自分を 見出した大樹そのもの……。  「おまえには、辻井二曹とともに生きる道もあっ たのだろうが……」  言い澱んだ口を閉じると、トウェルブは演習場 の荒れ地を照らす大きな月を見上げた。それ以上 踏み込めば任務の遂行が不可能になる恐怖を感じ て、理沙は「……よくわかりません」とだけ答え た。  「いいんだ、忘れてくれ」微かに笑みを浮かべて、 トウェルブは理沙の背嚢に触れた。  「あと少しで決着がつく。ここから始まったすべ てに……」  クレイモアや発煙筒、予備の弾倉を収納した背 嚢の中に、『BB文書』と呼ばれる一冊の本が 人つていた。トウェルブをこの世に誕生させ、多 くの人々の関心と恐怖、そして血を吸い取つてき た本。自分の命も、あるいはその中に取り込まれ ているのかもしれない。今夜零時、それを送り出 した当人が受け取りに現れなかった場合、『BB 文書』はさらに数百万の命を欲して、荒れ狂うこ とになる。その時、自分は……。  「ここはおまえの島だ。すべてはおまえとともに 在る」  逡巡を消し、いつもの声を出したトウエルブが、 暗い淵の一歩手前で理沙を引き止めた。九時四十 分の時間を腕時計に確かめて、赤外線遮断シート を勢いよくまくり上げる音がそれに続いた。  「行こう。じき約束の時間だ」  携帯すべき火器、たどるべき道筋。何度もシ ミュレーションした作戦計画は、すべて頭に入っ ている。理沙という存在はその瞬間に消え、ウル マになった少女は、予定された行動に突入して いった。  こうした場所は、どこも同じだった。薄暗い照 明と、ヘッドセットを付けた頭がずらりと並ぶコ ンソール。それぞれの前に置かれた端末とキー ボード。壁面はCG処理された状況図や、基地内 各所の暗視カメラ映像を映し出すモニターによっ て埋め尽くされ、中央のメインスクリーンには偵 察衛星が捉えた辺野古一帯の鳥瞰図が投影されて いる。赤や青の反射光に浮かび上がる金髪や黒い 肌、飛び交う英語が(リウッド製SF映画のワン シーンを想起させる中、夏生由梨は組んだ腕を崩 さずに八十インチのプロジェクション画面に視線 を据えていた。  DDNを通さず、臨時に設営されたTRI‐T ACシステムがダイレクトに受け取っている衛星 画像には、位置測定システムによって自軍の配置 状況がリアルタイムで表示されており、青や緑の 三角の輝点が、基地内のどこで異常が感知されて も十秒以内に急行できるシフトを組んでいるのが わかる。フェンスに仕掛けられた振動感知セン サー、監視カメラの対物感知センサー、セキュリ ティーエリア内のすべてのドアと窓に組み込まれ た破壊・開放センサーを司る警備システムは、通 常はDDNを介してキヤンプーシュワブのシステ ムと連動しているが、今は基地内ホストコン ピュータによる完全自律制御に切り替えられてお り、回線づてにウイルスが入り込む余地もない。 さながら無菌室に閉じこもった辺野古弾薬基地の 中枢、南側の人員駐屯地区にH字型のビルを構え る司令部に詰めて、まる三日。「約束の時間」ま であと二時間を数えるだけになったオペレーショ ンセンターで、由梨は「これでも正面攻撃をあき らめんようなら、トウエルブのバカも筋金入りだ な」と言ったロバートーコフリンの声を、わずか に動かした目で受け流した。  「レコンズの精鋭一個中隊に、アパッチが六機。 海上にはLCAC(攻撃上陸揚舟艇)も配置した。 ウィルスが入り込む可能性はゼロだが、一応すべ ての端末に対アポトーシスH用のワクチンをイン ストールもした。……ありかたくも、ダイスに供 与していただいたワクチンをね」  今さら、の一語を目に込めて、 米国家安全保障局の極東駐在職員は続けた。  「相手はロートルのスパイと小娘ひとりだ。完璧 と思いたいな」  「その小娘に、完全武装の精鋭三人が殺されてい る事実をお忘れなく」  顔を見ずに言ってやると、それまで背後に控え ていた大柄な男が、ゴブリンを押し退けて前に出      マリーンーレコンズO‐5 てきた。強襲偵察海兵中佐、デビッドーローグ。 坂部宅襲撃の指揮を執り、戦死した三人の部下の 遺体を回収する間もなく撤収を余儀なくされた ローグが、私怨から辺野古防衛の指揮官役を買っ て出ていることは、関係者全員が黙認している事 実だった。怒気を露にしたローグのモスグリーン の野戦服をどうにか抑えて、ゴブリンは由梨の横 顔をいまいましげに睨みつけた。  「日本人の考えることはわからん。その化け物退 治に協力すると言っておきながら、寄越しだのが ワクチンとあんたひとりとはな」  いかにもヤッピーといった風情のゴブリンの スーツ姿と、頭ひとつ大きいローグの盛り上がっ た筋肉が並んでいる様は、売れない漫才コンビを 連想させる。実際、彼らは道化だった。主人の気 紛れひとつで、構えた剣を上げたり下げたりする 哀れな道化。金に困った主人の差し金で高価な甲 胄の中に毒虫を忍ばされ、たまらずそれを脱ぎ捨 てながらも、今は毒虫退治を決意した主人の意思 を汲んで、法も主権も無視したやり方でトウエル ブ抹殺に乗り出してきた厚顔無恥な番犬たち。自 分も同類の引け目を抱いて、由梨は「取ってつけ たような迎撃態勢は、余計な混乱を生むだけだ わ」と二人の白人の顔を睨み返した。 「トウエルブの目的はただひとつ。『GUSOH の門』を開放することにあるのだから」  蒼白になったNSA職員と、わからずに眉根を ひそめた海兵隊中佐の顔が対照的たった。お互い 知っていることを承知しながら、口に出すのを避 けてきた真実。トウエルブがなぜこの基地を取引 場所に指定してきたのか、それを知ったらローグ も警備を買って出るような真似はしなかっだろう。 本来中心になって動くべき第三海兵師団司令部が 指揮権を放棄し、ペンタゴン直参のNSAに辺野 古防衛を任せきりにしたのも、自分たちの足もと に眠る魔物の恐ろしさを十二分に理解しているか らだ。『GUSOHの門』には、確かにそれだけ の恐怖と混沌が秘められている。  口を噤んだゴブリンを睨むのをやめて、由梨は スクリーンに目を戻した。しらけた沈黙の間に、 「ナツキニ尉」と呼びかけたローグ中佐の声が、 オペレーションセンターの薄闇を柢く揺らした。  「我々は本国の命を受けてここに駐留している身 だ。合衆国がこの国を守るために死ねと言えば、 そうする覚悟もできている。それが《キメラ》の ような陰謀を企てた下衆の命令だったとしても」  そう言い、見下ろした緑の瞳は、厳しい規律に 従う者だけが持ち得る自信と殺気を孕んでいた。 由梨はそれを正面に受けた。  「それが我々軍人の矜持だ。あなたたちにあるも のはなんだ? 軍であって軍でない自衛隊の中で、 さらに存在を秘匿されているダイス。そんなとこ ろで働く人間は、なににプライドを賭けているん だ?」  「同じ理屈で、合衆国がこの国の人間を殺せと命 令すれば、そうするんでしょう?」  相手にするつもりはなくても、強圧的なローグ の目に坂部宅を襲った手口の図々しさを重ねた由 梨は、そう言ってしまっていた。ぴくりと動いた ローグの眉は見ずに、攻撃ヘリの輝点が動き回る 衛星画像に目を戻す。  「誇れるものなんてなにもない。あたしたちは同 じ穴のムジナなのよ。暴力っていう名前のね。お ためごかしはやめにしましょう」  一歩踏み出すローグの気配が伝わったが、ゴブ リンにいさめられて退がったようだ。十時の時刻 表示を確かめて、由梨は最後に付け足した。  「すべては最初から決められていたこと……。 トウェルブに勝算はないわ」  痛み止めが効いてくると、そこだけ感覚の消え た肩が鉛の塊になった。左腕を吊った体に上着を 羽織り、やはり先刻の脱出劇の傷痕を残す外事部 職員たちに囲まれて通路を歩いた井島は、《あさ ぎり》の戦闘情報指揮所の鉄扉を潜っていた。  モニターの反射光に彩られた古武の背中が、そ れを迎える。「ずいぶんご活躍だったそうで」と 言った声に、井島は取り囲む背広を押し退けて前 に進み出た。  「信念に従ったまでだ。謝るつもりはない」  「期待してませんよ。お陰でこっちは海幕監部に 頭が上がらなくなってしまった」  「馴れておくことだ。東馬の血で沖縄を汚した 我々は、死ぬまで国民に頭が上がらなくなるんだ からな」  「考えすぎですよ。どんなに汚れていても、金が 落ちていれば迷わず拾うのが人間です。いちど味 わった贅沢が忘れられずにいる時は、特にね」  モニターには、L3から送られてくる衛星画像 が映し出されている。そこだけ煌々と明りを灯し ている辺野古弾薬基地上空を旋回する攻撃ヘリの 機影は、誘蛾灯に群がる羽虫を思わせた。微動だ にしない背中を睨んでから、井島は頭半分大きい 古武の長身に並び立った。  「沖縄フリーゾーン、ダイスの公的機関化、自己 完結した防衛力の整備。すべての要件を満たした 上で、予定通り謀反を起こしたトウェルブにその 罪を被せ、消し去る。……それがあんたのシナリ オか?」  「三十点の解答ですな。たかが海兵隊一個師団が 撤退しただけで、ぼやけきったこの国の連中が自 国の防衛体制を見直すはずもない。モラルも人間 性もない企業倫理を振りかざしておきながら、土 下座をすれば命までは取られないだろうと、甘い 考えを捨て切れずにいるのが日本人です。今のま までは、沖縄フリーゾーンもいずれアメリカの主 導下に置かれることになる。理屈ではない、現実 的な『痛み』を味わわなければ、この国の体質が 変わることはありませんよ。来世紀を生き延びる こともね」  泰然自若の古武の横顔には、しかし憤怒の陰り があった。次期局長就任を狙う外事本部長のもの でも、閨閥を背負って立つ将来の政財界トップの ものでもない、もっと原初的な怨念を宿した男の 顔。気押される自分を感じながら、井島は「あん たがなにを企もうと、これ以上の罪は平曹長と辻 井二曹が防いでくれる」と言い返した。  「死に損ないのヘリパイになにができると言うん です?」  「海兵旅団でそれなり以上の訓練を受けてきた男 だ。必ず任務を果たしてくれる。彼らは、我々に 与えられた最後の希望なんだ」  独り善がりと言われようが、その思いを撤回す るつもりは井島にはなかった。一方的に巻き込ま れた被害者でありながら、複雑な事態を理解しよ うと努め、再び翼を取り戻した平と、組織より自 分の感情に従うことをためらわなかった護。トウ ェルブとウルマをひとりの人間として捉え、それ ゆえにこの場に集まることになった彼らこそ、絶 望の中に一点残された逆転の目であるはずだった。 一徹と不器用を塗り固めた井島の声に苦笑を返す と、古武は「いい人だ、あなたは」と言ってスク リーンに目を戻した。  「しかし、もう誰にも止めることはできない。じ きに我々は新たな時代を手に入れる。あの島が真 の解放を迎えると同時に」  沖縄本島中部を俯瞰する衛星画像を見上げて、 古武は言った。その声のきな臭さに眉をひそめた 井島は、遠慮がちに声をかけてきた通信士官に呼 ばれて、やむなくその場を離れた。  市ヶ谷から自分宛にファックスが届いているの だと言う。腰抜け内事本部長が、ヘリ強奪の一件 を聞きつけて泣き言でも書いて寄越したのか。老 眼鏡をかけ、ディスプレイの明りを頼りに受け 取った紙片に目を落とした井島は、差出人の欄に 記された名前を見て絶句した。  東馬修一の名が、ディスプレイの反射光に浮か び上かっていた。  「……なんだって? いまなんて言ったんだ」  《あさぎり》を発ってから二時間弱。燃費を抑え るために百ノットの巡航速度で飛び続け、ようや く奄美大島沖に差しかかったシーボーグの操縦席 で、平はふと聞こえた護の声に後部キャビンを振 り返っていた。  「基地の近くでおれを降ろしたら、あんたは離脱 しろと言ったんだ」  消音装置が頭上で回転するローターの羽はたき をおとなしくさせているので、今は通話装置を介 さなくても十分会話することができる。ヘルメッ トを外した耳にそんな言葉を確かめて、平は 「……それじやなんの意味もないだろうが」と戸 惑いきった声を返した。  「理沙たちを連れ戻したって、帰る足がなけ りや……」  「これはおれたちの問題だ。確実に死ぬとわかっ ているバカな行為に、あんたがつきあう必要はな い」  電子機器のオペレート席に座り、暗い目をバブ ルキヤノピーに向けた護の顔は、取りつく島のな い硬さに覆われていた。正面に向き合いたいとこ ろだったが、目標物のない夜の海上でレーダー逃 れの低空飛行を行っている状況では、ピッチレ バーを手放すことはもちろん、高度計や回転計、 ジャイロコンパスから目を離すこともできない。 「そうしないために、井島一佐はおれたちをこの ヘリに……」と言いかけた平は、「本当に信じて るのか?」と突きつけられた強い詰問に遮られて、 口を閉じた。  「トウエルブとウルマを救い出して、正当な裁き を受けさせる。《キメラ》のすべてを公表して、 国民に審判を委ねる。そんなことが本当にでき るって信じてるのか? それを乗り越えれば、こ の国の曲がった背筋がしゃんとなるなんて、そん なおとぎ話を本気で信じてるのか?」  航空灯も点けず、夜の海面を滑るように飛行し ている機体の周囲は、海と空の区別もつかない闇 だった。月光を受けた護の目がキャノピーに反射 し、返す声もなくそれを見つめた平の前で、 「……益J駄さ。できっこない、そんなこと」と自 分で答えた護の顔が、ゆっくり伏せられていった。  「辺野古に布陣してるレコンズは、徹底的に鍛え られた犬だ。《キメラ》の真相を知ろうが知るま いが、敵を仕留めるまでは止まらない。国民にし たってそうだ。たとえ真実を公表できたとしても、 余裕も希望もなくしてるこの国の連中が、まとも に耳を貸したりなんかするもんか。醜い現実を受 け入れるより、目を背ける方を選ぶに決まってる。 責任追及で適当にお茶を濁してる間に、関係者が ひとり残らず自殺して一巻の終わりだ」  キャノピーから差し込む月の光に浮かび上がっ た護の肩は、青年のものではなかった。自分には 想像外の世界を生き、ひとつも思い通りにならな い現実を知り抜いて、実際より二十も三十も老け 込んでしまった肩に見えた。月が魔法を解いたか のように、無手勝流な行動力の下に隠れていた疲 れと絶望が露になって、平はそれまであった昂揚 が潮のように引いてゆくのを感じた。  「それが現実だ。(ツピーな結末なんてどこにも ない。おれもウルマも、ずっとそれを見てきた。 トウエルブ……東馬三佐も」  「じゃ、なんでおまえはこのヘリに乗ったんだ。 理沙を助けるためじゃなかったのか?」  「あいつが東馬とともに死ぬ道を選んだなら、お れには止める権利はない。一緒にいて、少しでも それを遅らせてやれたら……」  そう言うと、護は握り合わせた拳を見つめて口 を閉じた。返す言葉もなく、平は黒一色に塗り込 められたキャノピーに目を戻した。  薄明の世界で血を流し、あるいは流させ続けて きた護が、それは少ない選択肢の中から選び取っ た答えなのだろう。正当な裁きなど夢のまた夢。 たとえ逃げたとしても、執拗な闇の手は生きてい る限りどこまでも追いかけてくる。任務と、その 先に待つ死に救済を求めた少女に対して、生の希 望を伝える記憶も術も持だない少年は、それでも 一緒に在りたいと願う心に従うために、ともに果 てる道を選んだI。  「こんな世界に生き残ったって……苦しみが待っ てるだけだ」  終わりのない闇の中で、護はそう言っていた。 その声が腹の底に突き通り、平はキャノピーの外 に広がる茫漠と、そこに映る自分の顔を見つめた。  情けなかった。まったく情けなかった。臓腑を 溶かすような熱が腹を揺らし、平は無意識のうち に「……{几談じやねえ}と口を開いていた。  「冗談じやねえよ……’・ ここまで来てそんな話 が聞けるか。おれば絶対やり遂げるぞ。ひとりで も東馬たちを生きて連れ戻して見せる。手伝う気 がないなら、このさき足手まといになるだけだ。 さっさとおれのヘリから降りろ。望み通り、宣]つ 暗な海で鮫の餌にでもなっちまえ」  腕の震えが、サイクリックーレバーを揺らさな いようにするだけで精一杯だった。わずかに顔を 上げた護は見ずに、平は行く手を覆う闇に滲む目 を戻した。  「確かにその通りかもしれないさ。辛いことばっ かりで、生きててもなんにもいいことなんかない かもしれないさ。でもな、東馬はもうI度おれと 話したいと言ったんだ。おまえは理沙を助けるた めに体を張ったし、理沙もあの娘なりのやり方で それに応えようとした。それで十分じやねえか。 それ以上のなにが必要だって言うんだよ……’。  東馬と理沙は本当の親子みたいだったし、坂部 と奥さんは、そんな二人にどこまでもやさしかっ た。由梨だって、おまえを助けてくれてありがと うっておれに言ってたんだぞ。死ぬ覚悟でおれた ちをヘリに乗せてくれた井島一佐も、それに応え たおまえもカッコよかったよ。世界中に自慢して やりたいくらい、立派だったよ。それを無駄で虚 しいなんて言う野郎は、おれがぶっとばしてやる。 もっと自信を持てよ。かけがえのない、価値のあ ることなんだぞ? 世界中の金をかき集めたって 追っつかない、最高に大事な価値なんだぞ。みん ながそうして生きて来て、これからも生きてくっ てことは」  こうして再びピッチレバーを握っている自分は、 自衛官だからそうしているわけではないだろう。 ひとりの人間として、どうしてもやらなければな らないことがあると信じたから、もういちど飛ぶ ことができた。それは与えられたものでも押しつ けられたものでもない、自分で決めて、自分の力 でっかみとっだ、自分にしか触ることのできない 大事ななにかだ。この十年の鬱屈と停滞が、組織 の構成備品としてしか自らを捉えることができな かった自分の心に起因している事実を正面に見据 えた時、浮かび上がるのは、効率の良い歯車にな ることを存在価値と取り違え、自衛隊の存在基盤 を確立することで自分もまた認められると幻想し、 自分自身の心を高めようとはしなかった怠惰な性 根そのものだった。  そこから抜け出す最初の一歩を踏み出した今、 それが自分ひとりの問題ではなく、社会全体の風 潮としてこの国を停滞の戸口に追いやっている現 状を見渡して、たとえ一時の幻想に過ぎなくても、 信じようと思うのだ。なにも絶望することはない。 希望はそれぞれの中にすでに用意されている。そ れに気づいた時、この国はもういちど進むべき道 を見出して、今より少しだけやさしい社会のあり ようを示すことができるのだ、と。そう、なにも ない焼け野原から、歴史に類を見ない速度で立ち 直って見せた時と同じように……。  「……おれは昔、東馬に助けられた。この命はあ いつからもらったものだ。なのに少しもそれを大 事にしなかった。生きろって言った言葉を、ろく に考えることもしなかった」  自衛官、情報局員、異国の父の子。帰属するこ とでしか自分の価値を見出せず、二つの国の狭間 であがき続けた東馬は、そのことに気づいている のだろう。そして待っている。自分以外の誰かに、 そう言ってもらえることを。硬い石の顔を湿らせ、 結露した雫を一滴落とした護の顔を目の端に捉え て、平も革手袋で目の下を拭った。  「でも今は違う。今度はおれがあいつにそう言う 番だ。おまえも、理沙に返すものがあるんじやな いのか?」  誰も、なにも信じられない世界で、それがある から生きてゆける希望。理沙はそう口にしていた。 そう、それがあれば生きてゆける、と。  「だから、生きるんだ。生き続けるんだよ。途中 で投げ出すなんて絶対に許さない。ひとり勝手に 消えていい命なんて、どこにもないんだ」  闇の彼方に一点灯った明かりを見つめて、平は 言った。飛び石のように連なる奄美諸島の中間点、 徳之島の灯たった。いちど鼻をすすった後、いつ もの底堅い瞳を上げた護の目がそれに重なり、も う言葉はいらない互いの心を確かめた平は、心持 ちローターの回転速度を上げた。  辺野古まであと少し。約束の時間には十分間に 合う。風に揺れる微かな光に導かれて、シーボー グは闇の海面を滑っていった。  午後十時四十二分。トイレと称しては、廊下で 落ち着きなくタバコを吹かしていたゴブリンが、 何度目かの休憩から戻ってきた。コーヒーで制酸 剤を飲み下し、入れ替わりに部屋を出ようとした 由梨は、不意に鳴り響いた警報ブザーに全身の筋 肉を硬直させた。  「通信ケーブルに異常発生。1008直下、サー ビストンネル内」  すぐにブザーをリセットして、オペレーターの ひとりが報告する。基地内全域に血管のように張 り巡らされた通信ケーブルの埋設図がスクリーン に拡大され、南東の海岸寄りに兵舎と並んで建つ ている独身士官宿舎の上に、《WARNING》 の赤文字を点滅させたアラートボックスが表示さ れた。  建物地下の保守点検用トンネルに入り込み、 ケーブルに細工しようとした侵入者の存在を、保 護被膜内に通うセンサーが感知したらしい。二十 メートルの断崖をよじ登って、海側から侵入し た? 厳重警備があっさり突破された理由の詮策 は後回しにして、由梨はゴブリンの横顔を見た。 侵入者が誰であるかは議論の余地がなく、コフリ ンが問題回線のシャットダウンを指示したのと、 ローグ中佐が部下に現場急行を命令したのはほと んど同時だった。  が、彼らの声はそろって途中で途切れることに なった。ケーブル埋設図がメインスクリーンに転 送されてしばらく後、再び警報ブザーが騒ぎ出し、 独身士官宿舎からI・五キロ以上離れた北端のヘ リポート区画にアラートボックスが現れたのだ。  リセットする間もなく、今度は国道付近の 1103イグルーに《WARNING》の文字が 点滅し、さらに四つ、五つ目のアラートボックス がスクリーンを埋めてゆく。最初の警報が鳴って 三十秒後には、五十近くのアラートボックスが図 面上に現れ、リセットしきれない警報がセンター の薄闇を揺らして鳴り続けるようになった。  五十人の侵入者が一斉決起したなどという冗談 はない。物理的攻撃ではない、電子的攻撃。トウ ェルブの忠実な部下、幾万の手足を持つサイバー スペースのモンスターが、堅い城壁に体当たりを 開始した瞬間たった。全員が無数のアラートボッ クスを点滅させるスクリーンを見上げて凍りつく 中、ゴブリンは「子供騙しだ」と声を荒らげた。  「キーホールのスキヤンーモードを赤外線にス イッチ。比較解析にかけて、モグラの位置を割り 出せ」  米軍の使用するKH型偵察衛星は、二十メート ル程度の深度であれば地下でも見通す探査能力を 持っている。オペレーターの手が素早く走り、辺 野古基地を鳥瞰する衛星画像が温感映像に切り換 わると、青を基調としたデジタル画面に、地下を 縦横に走るサービストンネルの迷路が、黄色が かった赤の線として浮かび上がった。碁盤状の網 の目がその上に重なり、映像を二進法の数字の連 なりとして読み込んだコンピュータが、平常時の 映像との比較解析を猛烈な勢いで開始した。  警備センサーは欺瞞できても、大気圏外から見 下ろす衛星の目を眩ますことはできない。赤外線 遮断シートを被っていようが、百平方メートル単 位で映像を精査し、タバコ一箱でも以前なかった ものがあれば異常と判断するコンピュータの生真 面目さは、トンネル内に潜む侵入者を見逃しばし ない。発見すればその区画を閉鎖し、通気孔にガ スを注入して、状況終わり。持ち込んだパソコン をバイパスした通信ケーブルに繋ぎ、中枢にアポ トーシスHを流し込もうとしたトウェルブたちは、 駆除される鼠の運命をたどることになる。次々に 解析が進むスクリーンを見上げて、ゴブリンは 「本当に筋金入りのバカたったようだな、トウェ ルブは」と唇を歪めていた。  「コントロールーシステムを剌激して、センサー の誤発報を促したんだろうが、それが限界だ。イ ンプットをこのセンターに限定しているメインホ ストに、入り込むことはできない」  異論はない、と由梨も思った。DDNを遮断し、 スタンドアローンの環境を構築しているメインホ ストヘの入力は、このオペレーションセンターに 限られている。ホストにウィルスを送り込み、基 地全体の目と耳を潰すためには、直接ここに乗り 込んでくる以外に手はない。  だがそんなことはトウェルブも承知しているは ずだ。閉鎖ネットワークに正面からぶつかり、ト ンネル中のセンサーを発報させたバカ騒ぎは明ら かな陽動。本命は必ず別にある。そう思い、すで に半分以上の解析が済んだ衛星画面を見上げた由 梨は、ふと頭を走った思いつきにぎよっとゴブリ ンを振り返った。  「衛星画像の解析はどこでやってるの?」  「メインホストだ」答えた後、スクリーンに目を 戻したゴブリンは、すぐに丸く見開いた目を由梨 に向け直した。  彼もその可能性に気づいたらしい。恐怖になに も言えない目を向け合った直後、新しい警報がセ ンター内に響き渡って、それは現実になった。  「ウィルス、メインホストに侵入’・ 防壁を突 破」  オペレーターの声が響き渡り、口をぱくぱくさ せるだけのゴブリンに代わって、ローグが「バカ な……’・ ワクチンはどうなっている」と声をか すれさせる。「効果なし」という無情な返答がそ れに応じた。  「自己診断プログラムに化けて、デバグ用のト ラップードアから侵入。割込処理でデータ改竄 中」  「回復操作、受け付けません。バックアップ移行 も拒絶」  悲鳴に近いオペレーターたちの声が続く。ホス トの中枢に取りつき、いっさいの外部操作を拒絶 してから、自らの複製を端末に送り込む。間違い なく、アポトーシスHの手口だった。「バカ な……どうして」と呻くしかないローグに、由梨 は「トロイの木馬よ」と柢く囁いた。  「衛星画像データの中に潜んで、メインホストに かけられるのを待ってたのよ。解析プログラムが 引き金になったんだわ」  プログラムはもちろん、映像も音声も同じOと Iの連なりとしてしか内部に取り込めないコン ピュータの死角だった。トウェルブは、TRI‐ TAC通信システムが受信する衛星画像データに アポトーシスHを潜り込ませた後、トンネルのセ ンサーを発報させて、それをメインホストの解析 にかけさせるという二段構えの作戦−巧妙な フェイントを仕掛けてきたのだ。  ワクチンープログラムが所期の効力を発揮しな いのも、予想されるべき事態だった。ダイスが捕 獲したウィルスを改良してCVWに仕立てたのと 同様、アポトーシスHもまたトウェルブのもとで 進化を遂げたのだろう。最初の警報が鳴ってから、 わずか三分。午後十時四十五分の時刻表示を外部 監視映像のモニターに確かめた途端、映像がぷっ つりと途絶え、前方の壁面を埋めるすべてのスク リーンがブラックアウトした。  虚しい回復作業に狂奔していたオペレーターた ちの背中が凍りつく。やがて画面の左端で点滅し ていたカーソルが動き始め、その行き過ぎた跡に びっしりと数字を刻み込んでいった。  12 12 12 12 12 12 12 12 12 12 12 12…………  「……来たのね。とうとう」  約束の時間まで、一時間十五分。それまでに基 地の全機能を壊滅させると宣言したスクリーンを 見上げて、由梨は乾いた唇を舐めた。  病魔に蝕まれたメインホストが機能を失い、す べての監視カメラと警報センサーが停正してしば らく、辺野古美謝川と深い谷を挟んだ向こうに広 がるキヤンプーシュワブの居住区域で、小さな閃 光が発した。街の西寄り、米兵の家族たちが利用 するカフェテリアの屋上で発した光は、白い尾を 引いて辺野古弾薬基地上空に到達し、弾薬庫区域 と居住区域の中間地点−変電所の直上で破裂し た。  TOWと呼ばれる小型の対戦車ミサイルだった が、内部に詰まっていたのは炸薬ではなかった。 テニスラケットや釣竿などに使われる炭素繊維の 束が爆発と同時にまき散らされ、送電線に絡みつ くと、それは導電材の役割を果たした。ショート の火花が花火のようにきらめき、同時に弾薬庫区 域を照らしていた強力なライトが一斉に消える。 コンピュータが麻痺している現在、予備電源移行 の緊急システムも作動せず、辺野古基地はそれぞ れの施設の自家発電機が作り出すわずかな電力だ けが頼りの、ほとんど暗闇に近い状態に置かれる ことになった。  基地上空をパトロール旋回していた攻撃ヘリー アパッチのパイロットは、(ブ上に備えたロング ボウセンサーの力を借りるまでもなく、ミサイル がシュワブのカフェテリア屋上から発射されたこ とに気づいて、機をそこに急行させた。緊急発進 した残る五機のアパッチ、完全武装のマリーンー レコンズー小隊を乗せたMH‐60K兵員輸送ヘリ がそれに続き、さらに三小隊二十四人の海兵が、 六台の(ンビーに分乗してシュワブを目指す。司 令部はほとんど機能を失っていても、無線は使え る状態にあったので、彼らの指揮系統はどうにか 保たれていた。  が、オペレーションセンターでマイクを握って いるローグ中佐は、自分の声が秘匿用デジタル信 号に変換されて発信されるプロセスの中に、メイ ンホストから枝分かれしたアポトーシスHが入り 込んでいる事実を知らなかった。最初に気づいた のは、先行したアパッチの前部座席で、照準装置 と連動する専用ヘルメットを被っていた射手だっ た。  左目の前にルーペさながら突き出した照準装置 は、肉眼で捉えた光景に重ねて高度や速度をデジ タル表示し、乗員から計器盤を見下ろす煩わしさ を取り除いてくれる。いち早くミサイル発射地点 に到達し、機体下部の三十ミリーチェーンガンと 連動する目をカフェテリアの屋上に向けたガン ナーは、空調設備の中に設置されたTOWシステ ムに、リモコン受信用のアンテナが取りつけられ ているのを確かめた。そしてその直後、暗視映像 が消失して、代わりに意味不明の数字が浮かび上 がるのを目撃した。  12の羅列。それが、ブラックアウトした照準画 面を埋めてゆく。慌てて照準装置を外し、コン ソールのVDUディスプレイも12に埋まっている のを見たガンナーが、次に見たものはキャノピー のすぐ向こうに迫っていたビルの壁だった。  通信装置から機体内部に入り込んだアポトーシ スHに自動安定装置を破壊され、機体の制御を 失ったアパッチは、態勢を立て直すには建物に近 づき過ぎていたのだ。センサーを備えた機首が壁 を崩してビルにめり込むと、四枚のブレードが ローターの回転に従って順番に弾け飛び、羽根の ないトンボを思わせる褐色の機体が大地に激突す る。爆発の衝撃がすべてのガラスを叩き割り、噴 き上がった炎の舌が建物を包み込む。全住民が退 去し、消防署も機能していない街に火の手が上が り、輸送ヘリで現場に近づきつつあるレコンズの 小隊長は司令本部に消火作業の必要を訴えたが、 その声が終わらないうちに、彼らの乗ったヘリも 大きく姿勢を崩していった。  テールを振り、ラジオ局の鉄塔にぶつかる直前 でどうにか機首を上げたMH‐60Kの機体が、よ ろよろと高度を下げてゆく。接地の衝撃でラン デイングーギアが折れ、道路上に頓挫した輸送ヘ リの前に、同じく制御を失ったアパッチたちがぼ うほうの体で降下するさまは、まるで殺虫剤を吹 きかけられた羽虫の一群だった。陸路でシユワブ に乗り込んできた(ンビーの一団はその光景を肉 眼に捉え、屋上から発射されたミサイルが遠隔操 作されていたことをヘリからの無線で知ると、急 きよ引き返す道をたどり始めた。  派手な花火で注意を引き付け、戦力を分散させ る。初歩的な陽動作戦に引っかかってしまったこ とに気づき、迷わずにUターンした現場の判断は 正しかったが、遅すぎた。辺野古基地とシュワブ を結ぶ長さ二十メートルのアーチ橋に先頭車輛が 差しかかろうとした瞬間、橋の下から噴き上がっ た炎と黒煙が彼らの進路を阻んだ。  咄嗟にブレーキを踏み、スピンした(ンビーの 横腹に、後続車が次々突っ込んでゆく。マニュア ル通り、両岸のアーチ基部と橋桁中央に仕掛けら れたセムテックス爆弾は、鉄筋コンクリートの橋 を完全に瓦解させていた。  砕けた破片が土砂を巻き込んで二十数メートル 下の谷底に崩れ落ち、美謝川に落下して無数の水 柱を立てる。玉突き衝突の犠牲となった先頭の( ンビーがそれに続き、逃げ遅れたひとりとともに 川面に激突したダークグリーンの車体が、谷間の 漆黒にひときわ大きな水柱を上げた。唯一の連絡 橋を失い、シュワブに取り残されたレコンズの 面々には、いったん国道に出て大回りで辺野古基 地を目指す道しか残されていなかった。  その間、辺野古基地が無事であったわけではも ちろんなかった。変電所が機能を失って間もなく、 演習場に仕掛けられた火砲が一斉に火を吹き、闇 に包まれた敷地内のそこここに爆発の光を閃かせ ていたのだ。  いちど砲弾を射出すれば倒れて使い物にならな くなることを承知で、支持脚もベースプレートも 付けずに設置されたM224軽迫撃砲は、それだ けでは長さIメートルの鉄パイプに過ぎなかった。 広大な演習場の薮の中に紛れ込んだ総計二十六基 の迫撃砲は、リモコン操作で三グループに分かれ て砲撃するように設定されており、最初に放物線 を描いた八発の六十ミリ弾は、基地唯一のゲート を目指して落下していった。  空を裂く甲高い音が夜気を震わせる。電気も内 線電話も通じなくなったガードハウスで、混信す る無線に呼びかけていた衛兵たちにとっては、死 を告げる笛の音だった。彼らが慌てて退避すると、 降り注いだ迫撃弾の雨はガード(ウスを粉砕し、 フェンスをなぎ倒して、パトロール用(ンビーさ えもひっくり返す爆風と破片の嵐となって荒れ狂 い、間を置かずに放たれた第二の集中砲火は、そ の頭上を通り越して基地内奥に二ヵ所ある可燃物 貯蔵所を直撃した。  一撃目が着発信管で天井を突き破ると、近接信 管を作動させた二撃目が空中で起爆し、内蔵した 焼夷薬を万遍なく撒き散らしてゆく。三千度の炎 の手がすっぽりと貯蔵庫を包み込み、誘爆したガ スボンベが離脱しようとしたトラックを横倒しに する。さらに第三の砲火が基地内に無数の火柱を 打ち立て、発射地点を割り出したマリーンーレコ ンズニ小隊がそちらに向かって移動する間隙を突 いて、「本命」の攻撃が辺野古弾薬基地に仕掛け られた。  基地内に臨時設営されたTRI‐TAC通信シ ステムが炎に包まれるまで、彼らは敵の侵入に気 づかなかった。野戦情報処理システムを搭載した 三台の有蓋車に囲まれ、辺野古基地に独自の通信 ネットワークを形成していたレーダー塔を破壊し だのは、空から降り注ぐ迫撃弾ではなく、水平に 撃ち出された使い捨てロケットランチャーの弾頭 だった。  続けて走ったロケット弾の光が残る二本の鉄塔 を直撃し、パラボラを頭に頂いたレーダー塔は、 混乱の陰影を浮かび上がらせるトーチになった。 倒壊した炎の柱がコンテナを叩き潰し、舞い上が る火の粉と蜃気楼の向こうに、ひどく小柄な侵入 者の影が走る。持てる限りの火器を携行した侵入 者が、弾薬庫区画に向かって移動する姿を捉えた レコンズの面々は、散乱する炎と破片をかわして 追撃のアクセルを踏み込んだ。  ミサイルから砲弾、ダイナマイトに至るまで、 ありとあらゆる弾薬をぎっしり貯蔵した建屋に土 を被せたイグルーが集まる弾薬庫区画は、盛土が 点在する砂取り場のようで、無愛想な軍施設の中 でもひときわの殺伐を浮き立たせている。フォー クリフト作業を考慮し、十分なスペースが確保さ れている弾薬庫周辺に身を隠す場所はなく、侵入 者の背中をFLIRに捉え続けたレコンズの兵士 たちは、ロケットランチャーの反撃を受けて(ン ビー一台を失いながらも、イグルーーーOIの盛 土に目標を追い詰めることに成功した。  進退窮まり、盛土の丘を飛び越えて追撃の火線 をかわした侵入者の背中が、爆破した裏側の鉄扉 から建屋内部に逃げ込んでゆく。他に出入口はな く、互いの手信号を確認しながらイグルーを包囲 したレコンズたちは、暗視装置の目とMP‐5K サブマシンガンの銃口をポイントしつつ、破れた 鉄扉の穴に踏み込んでいった。  非常灯が微かに照らし出す闇に分け入り、レー ザーサイトのドットを左右に振った刹那、壁に仕 掛けられたセンサーが感知の赤ランプを点した。 それが念入りに仕組まれたトラップのひとつで、 中に逃げ込んだと見せかけた侵入者がとうの昔に 姿を消していた事実を、彼らが理解する時間はな かった。センサーは爆破装置に起爆信号を送り、 弾薬を収めた二重の鉄扉の向こうでその瞬間を待 ち続けていたセムテックスは、周囲を取り囲む大 量の同類を巻き込んで、弾薬庫を光の中に溶かし た。  世界を支える柱が折れたかのようだった。激震 が走り、直後に鉄扉から噴き出した炎と爆風が、 展開した海兵たちを車輛もろとも吹き飛ばしてゆ く。二百トン余りの高性能火薬を飲み込んだ弾薬 庫の爆発は、火口となったイグルーを粉々に破砕 し、噴火そのものの火柱を辺野古畸に屹立させた。 覆土構造が被害を最小限に食い止めたものの、噴 き上がった炎は地上三百メートルにまで及び、飛 散した火の手と破片の嵐は、基地沿いを走る国道 三一九号線をも炎熱地獄の中に包み込んでいった。 爆発物安全距離を無視して造られた弾薬基地の自 業自得だったが、不運なのは封鎖した道路上を 走っていた(ンビーたちだった。  キヤンプーシュワブに置き去りにされ、貯水池 を渡る国道を経由して辺野古基地に戻ったレコン ズの三小隊は、火の海になったゲートに一小隊を 残して、主力は北側から敵を包囲すべく移動の最 中にあったのだ。この戦闘で死亡した兵士のほと んどがそうであったように、彼らも自分の死を理 解する間もなく閃光に飲み込まれた。重い(ン ビーの車体が玩具のように弾け飛び、演習場の荒 れ地に突き剌さると、抉られた土砂と破片がその 上に降りかかってゆく。珊瑚の島に積み上げられ た、それは開戦三十分で半数を失ったマリーンー レコンズの墓標だった。  「……ゝ凡ゝ凡、わかってます。その上で要請してる んです。退避中の第四海兵連隊を至急呼び戻して 下さい。増援がなければ、ここは保ちません」  たったひとつ残った通信手段が、携帯電話とい うのは傑作だった。それを耳に当て、キヤンプー コートニーの第三海兵師団司令部に泣きついてい るゴブリンの青ざめた顔は、非常灯の暗い赤を受 けて傷んだ饅頭のように見える。ローグは通信シ ステムがダウンすると同時に飛び出して行き、オ ペレーターも大半は復旧作業で席を外してしまっ ているので、他に見えるものと言えば、相変わら ず12の羅列をスクロールさせているメインスク リーンか、ノイズの砂嵐を映している外部監視モ ニターしかない。もはやまったく用をなさなく なったオペレーションセンターで、由梨は無表情 に在囗米軍基地のひとつが死んでゆく音を聞いて いた。  攻撃開始から、三十分弱。トウエルブが証明し て見せたのは、利便性を追求してウワバミのよう にデジタル化技術を取り込み、それがなければな にもできない体質に染まってしまった現代軍事力 の本末転倒と、有言実行を貫いた自らの愚直だっ た。約束の時間まで残り四十五分、辺野古基地と 言っただけで、「追加報酬」と『BB文書』の交 換場所をあえて指定しなかったことが、彼の行く 先を暗に物語っている。十一時十五分を回った腕 時計を確かめて、由梨はモニターの列に背を向け た。  「ウィルスが何だって言うんです’・ トウェルブ が『GUSOHの門』に接触したら、その百倍、 千倍の被害に見舞われることになるんだ。とにか くすぐに増援を。これは国家存亡に関わる……」  そこで相手が電話を切ったのか、呼びかけるゴ ブリンの声だけがくり返されていた。直線距離に して二十キロしか離れていないキヤンプーコート ニーからなら、肉眼でもここの惨状は窺える。増 援を出す気があるなら、とっくにそうしているは ずだ。アポトーシスHに感染する危険性を言い訳 に黙視を決め込んでいる米軍が、《キメラ》や 『GUSOH』といった言葉が象徴する汚濁に関 わることを恐れ、清算を申し出たNSAにすべて を押しつけようとしている気配を察した由梨は、 もういちど電話をかけ直そうとしているゴブリン に、「無駄よ。あきらめなさい」と言ってやった。  「増援が来たところで餌食にされるだけよ。ここ はあたしに任せて」  「バカ言えっ’・ あんたひとりになにができるっ ていうんだ」  椅子を蹴飛ばしたゴブリンの癇癪を動かさない 瞳で受け止めて、由梨は「ひとりじゃないわ」と 答えた。  「《キメラ》には保険がかけてあるのよ。とびき りの保険がね」  眉根に皺を寄せた饅頭の顔は、見なかった。そ のままセンターを出た由梨は、『GUSOHの門』 に向かう道をたどった。  探知されないよういったん南下した後、訓練空 域を避け、北東から沖縄本島へのアプローチを開 始してから、二十分と少し。キャノピーの向こう、 三十キロ先の水平線上に張りついて見える辺野古 畸の断崖が、燃えていた。  もう始まっているIヘルメットに装着した暗 視装置の倍率を上げ、爆発の閃きが断続する岬を 見つめた平は、「電子装置を切れ。全部だ」と叫 んだ護の声に、慌ててシーボーグの速度を落とし た。  「ウイルスにやられる。GPSも切って、目視飛 行で近づくんだ」  岬の突端で、散らかした玩具のように転かって いるアパッチのI群が、アポトーシスHの感染力 の強さを物語っていた。無線を切り、自動航法装 置も切って、有視界飛行一本に切り換えた機体の ピッチレバーを握り直した平は、「だけど、そし たらこいつを送信することが……」と、懐に入れ ていた《キメラ》のフロッピーディスクを護に示 した。  「……手遅れだ。基地のシステムは、アポトーシ スHの支配下にある」  それどころか、今の辺野古弾薬基地には通常の VHF無線を受け取る能力もない。火だるまの棒 きれになって横たわる野戦用通信システムの鉄塔 は、約束の時間まではなにも起こらないと、ひと り勝手に決めていた迂闊さに対する東馬の返答 だった。  午前零時を会見時間に指定してきた言葉の背後 には、それまでにすべての障害を取り除くという 宣言が潜んでいると見て然るべきだった。手も足 も出ない苛立ちに歯噛みする間に、隣の副操縦席 に移った護が計器盤のスイッチとメーターの列を 指で探り始めて、平は「どうする気だ」とその横 顔を振り返った。  「通信できないんなら、直接声を聞かせてやれば いい。これがどれほどくだらない戦いか、おれが この口で説明してやる」  外部スピーカーのスイッチを探し当て、ヘッド セットを被った護が応じる。基地に乗り込み、見 えない敵に右往左往している兵士たちの頭上で、 《キメラ》清算に踊らされている戦闘の無意味を 直接説いて回る。狂気の沙汰にどれほどの効果が 期待できるかは別にして、今できる最善の方策を 選び取り、脇目も振らずに行動を開始した護の横 顔には、そうするように訓練されているからとい うだけではない、なにかを振り切り、なにかをつ かもうと努める奥底のたぎりがあった。  半ば呆然とそれを見ていると、「なにしてんだ。 もっと高度下げて、速度一杯」と照れ隠しのぶっ きらぼうな声が発して、平は「了解だ」と応じて サイクリックを倒していった。  絶望する間に行動あるのみ。一瞬滞留したあき らめの空気を吹き飛ばして、ローターの回転速度 が上がる。三十キロ先にある断崖上に新しい爆発 の光が瞬き、渦巻く黒煙の複雑な形を夜陰に浮か び上がらせた。  衝撃が天井から床下までをつき抜ける。これで 三回……いや、四回目か。幅ニメートルの狭い サービストンネルがみしみしとたわみ、拡がった 側壁の亀裂が咳き込んだようにコンクリート粉を 吐き出す。一瞬重力が消失し、轟音と衝撃に圧縮 された空気の中に浮かび上がった坂部は、一緒に 跳びはねたラップトップーコンピュータを両腕に 抱えて、床に叩きつけられるのをどうにか防いで いた。  痛み止めが消えて久しい右腿に激痛が走り、食 いしばった歯に血の味が滲んだが、構ってはいら れなかった。側壁のアクセスパネルに繋いだケー ブルの無事を確かめ、坂部は腕の中のディスプレ イを覗き込んだ。画面一杯の乱数が忙しなく点滅 し、確定数字をひとつずつ増やしてゆくさまは、 『GUSOHの門』のセキュリティーシステムと 知恵くらべを続けているブレイクープログラムが、 勝利を収めつつあることの証明だった。  プログラムがパスワードを割り出し、 『GUSOHの門』管理システムに侵入するまで、 あと少し。隔壁が閉じ、密室となったサービスト ンネルの坑道に腰を据え直した坂部は、キーボー ドに詰まった粉塵を息で払ってから、「大丈夫だ」 と隣にいる理沙に笑いかけた。  明滅する非常灯の下、頷いた理沙の顔は煤で 真っ黒になっている。自分の顔も似たようなもの だろう。使い捨てランチャーも手榴弾も使い果た し、軽機関銃と拳銃だけを携えた理沙が合流した 直後から、このサービストンネルに対する攻撃が 開始された。センサーもガス噴出装置も働かず、 隔壁の下りたサービストンネルに侵入したネズミ をいぶり出す術を失った海兵たちは、分厚い隔壁 をこじ開ける手間を省いて、坑道ごと爆破する手 を選んだらしい。セムテックスやロケットラン チャーを並走する下水管にたたき込み、片っ端か ら潰して回る八方破れの殲滅戦は、かつての沖縄 戦で、鍾乳洞に逃げ込んだ日本兵や島民たちをい ぶり殺すために行われた「馬乗り攻撃」の現代版 だった。一歩近づいた衝撃が再度トンネルを揺ら し、動けない坂部の上に覆い被さって落下物から 守ってくれた理沙は、「次で破られるわ」と偽ら ない口を開いていた。  爆圧に大きく湾曲した天井から、割れた蛍光灯 かぶら下かっていた。砂が間断なく亀裂からこぼ れ、重みを支えきれなくなった側壁は軋む音を立 て続けている。潮時だった。パネルの向こう、通 信ヶIブルが這う壁裏を顎で示して、坂部は「も ういい、理沙。先に行け」と言った。  壁裏から地上に通じる通気孔のダクトは、度重 なる爆撃で塞がりかけている。唯一の出口を見上 げて、理沙は「……一緒に離脱する計画のはず よ」と動揺を押し殺した声で答えた。  「変更だ。おれの体じゃダクトは通れん。……後 はおれひとりでできるから、東馬のところに行っ てやれ」  メインホストから切り離され、自律制御に入っ た『GUSOHの門』管理システムに侵入するこ とができれば、ブレイクープログラムは自動的に すべてのロックと安全装置を排除する。自分の役 目はここまでだった。動こうとしない理沙に、 「あいつはおまえがいないとダメだ。わかってる だろう」と続けた坂部は、肩に手をかけ、うつむ いた顔を覗き込むようにした。  逸らしていた瞳を一度だけこちらに向け、なに かを告白しようとするかのように息を吸いかけた 理沙は、果たせずに苦しげな顔を伏せていった。 その瞬間、最初に会った時から感じ続けていた違 和感−理沙が一途であればあるほど、強まって いった違和感の正体がわかった気がしたが、その 瞳に映った自分の顔が滲むのを見れば、そんなこ とはどうでもいいと思えた。初めて感情を結露さ せた目をまっすぐに見て、坂部は「……わかって る。なにも言うな」とくり返した。  「それでもあいつはおまえを必要としている。 行ってやれ。そして……自分のしたいようにする んだ」  返事を待たずに、抱きしめた。意外なほど華奢 で、脆い体たった。この半年、かけがえのない最 後の月日に、自分と優子に決して得られなかった ものを与えてくれた娘の体温を全身に感じ、誰よ りも重い荷物を背負った肩をしっかりと抱きとめ て、坂部はなにか言ってやらなければと思ったが、 出てきた言葉は「……優子の匂いがするんだな」 という、なんの変哲もない感慨だけだった。ぴく りと震えた肩をもう一度ぎゅっと抱き、すぐに突 き放した坂部は、後はもう振り返らずにパソコン のディスプレイと向き合った。  震動がぶり返してくる。しばらくは立ち尽くし、 こちらを見つめていた理沙の気配は、やがてアク セス(ツチを潜って壁の向こうに消えていった。 こみ上げてくる熱をキーボードを叩く人差し指に 託して、坂部は乱数の追いかけっこを続けている パソコンに最後の侵入経路選択を指示した。  乱数の点滅が早くなり、パスワードの確定速度 が加速する。重みに耐えかねた隔壁が鉄の悲鳴を 上げた時、すべての数字が確定を示して、管理シ ステムの電子の扉が開いた。  すかさず侵入が始まり、ファイル転送率を示す バーが、注射器のシリンダーさながらブレイクー プログラムを押し出してゆく。数秒のうちに《C OMPLETE》の文字が表示され、坂部は全身 が溶けてなくなるような安堵の息を吐き出した。  あとは自分が組み上げた一世一代のプログラム が、東馬と理沙を『GUSOH』の門前に導いて くれる。そう思い、ディスプレイから目を上げた 坂部は、坑道の薄闇に優子が立っているのを見た。  ぴたりと爆撃がやみ、静寂が舞い戻ったサービ ストンネルで、いつものエプロン姿が微笑してい た。どんな苦痛も飲み込み、洗い流してくれる微 笑を見上げて、坂部も煤のこびりついた頬を緩め た。  「バカだな。迎えに来たのか?」  優子はなにも言わず、ただその手を差し出して くれた。つかもうと腕を伸ばしかけた途端、天井 が崩れ、巨大なコンクリートの瑰が坂部の頭を粉 砕した。爆発の炎と黒煙が坑道を満たし、そこに 在ったものすべてを土砂の中に埋めていった。  弾薬庫区画の地下に眠る『GUSOHの門』に 近づくためには、司令本部ビルを出て、基地内を 縦断する必要があった。ビル前の駐車場で手頃な ジープを物色した由梨は、焼け火箸になった鉄塔 や(ンビーの残骸が転がる戦場にひとり乗り出し ていた。  爆発の音、銃声、半ば統制を失いつつある海兵 たちの声が周囲を取り囲む。負傷した仲間を肩に 抱いた黒人の伍長が救援を求めるのを無視し、 ジープを走らせ続けるうち、それまで雑音しか 入ってこなかった無線機に報告の声が混ざり始め た。突如乱入してきた自衛隊機が奇妙な行動を起 こしているというのが、どうにか聞き取れた内容 だった。  (海自です。海自のヘリがスピーカーでなにかわ めいてるんです’・ 聞こえますかり)  ところどころ爆発に掘り返された路面に留意し ながら、由梨は周囲を見回した。赤い航空灯を瞬 かせた白いヘリの機体−見間違えようのない日 の丸を横腹に印した対潜哨戒ヘリが、士官宿舎の ビルを横切って飛んで行くのが一瞬見えた。 (……即刻戦闘を中止せよ)という知った声が無 線を走っだのは、その直後のことだった。  (くり返す。この戦闘はまったく無意味なもので ある。現在基地を襲っているテロ攻撃は、日米両 政府が仕掛けた謀議、沖縄から海兵隊を撤退させ るために仕掛けられた狂言計画の結果始まったも のであって、使用されている武器弾薬はすべて貴 官らの政府によって供与されたものである。ここ で命を落とすことは、犬死に以外のなにものでも ない。この戦闘には、正義も大義もないと断言で きる。即刻戦闘を中止せよ。侵入者の攻撃は、陽 動以上の目的を持つものではない。銃を収めて、 増援を出そうともしない国防省にその理由を問え。 貴官らを捨て石にした政府の真実の姿を見極めよ。 同じ兵士として、貴官らの賢明な判断を求める)  発音はたどたどしいが、その熱意は十分に伝わ る若い英語の声の後に、(おい、ちゃんと通じて んだろうな)という太い日本語が混じり、(黙っ てろ)と返した声がそれに続く。護と、平の声。 慌ててヘリの消えた方角を振り返り、立ち上る黒 煙に遮られてなにも見えないことに舌打ちした由 梨は、(指示を)と言った無線のスピーカーに ぎよっと目を戻した。  沈黙のノイズが数秒流れ、やがて(本作戦の指 揮権限は我々に一任されている)とゴブリンの無 表情な声が応答をした。  (構わん。撃ち落とせ)  当然の反応だった。(了解)の声とともに切れ た無線を見下ろしてそう納得した後、上官を上官 とも思わない護の鼻っ柱の強い横顔、バカ正直に 事態と向き合い、理解の目を注ごうとした平の四 角い顔を思い出してしまった由梨は、(ンドルを 握る手に無意味に力を込めた。  「あのバカ……」  LCACが回遊する大浦湾を飛び越え、そここ こに火の手を上げた基地上空に突入する。できる 限りの低空飛行で旋回をくり返し、街宣カーよろ しく遊説を続けていたシーボーグに、三機のア パッチが接近してきたのは四度目の放送を終えた 直後のことだった。  こちらと同じく、電子装置を切ってマニュアル 操縦に切り換えたらしいガンシップー空飛ぶ戦 艦の異名を持つ最強の攻撃ヘリたちは、獰猛な昆 虫を思わせる平べったいキャノピーをこちらに向 けて、機首のライトを点滅させ始めた。  モールス信号だ。絶滅間近の原始的な通信手段 だが、無線が使えない状況ではもっとも有効な意 思疎通法に違いない。黒煙に視界を奪われ、操縦 に手一杯の平は、副操縦席の護に翻訳を任せた。  「なんだって?」  「即刻退去せよ。……さもなきやぶっ殺すって さ」  端的に翻訳した護に、「……そう来ると思った」 と応じた平は、あらためて戦闘隊形を維持して飛 行する三機の攻撃ヘリを見据えた。  三十ミリ機銃にレーザー誘導ミサイル、対空口 ケットランチャーまで備えているアパッチに対し て、こちらは武装皆無の対潜哨戒ヘリ。唯一の武 器は脇腹に抱えた短魚雷だが、そんなものは対空 戦闘では御守りの役にも立だない。「どうする?」 と言った護に、「どうもこうもねえ」と言い返し た平は、空中戦のマニュアルを片っ端から頭に呼 び出しつつ、突破口を探る目を爆煙の海に注いだ。  「聞く気がないってんなら、ひっぱたいてでも聞 かせるまでだ。せいぜいかき回してやる」  東馬の手助けをするつもりはないが、今はとに かく猛り狂う海兵たちをいさめるのが先決だった。 「やれるのか?」と振り向いた護を無視してサイ クリックーレバーを押し込んだ平は、からからの 喉から取っておきの強がりを絞り出した。  「旅団仕込みの戦技飛行を見せてやる……’・」  再離陸した五機のアパッチが、二手に分かれた のは意外だった。通気孔のダクトを抜け、瓦礫の 集積場となったイグルーから這い出した理沙は、 こちらに向かって急降下してきた二機のアパッチ のロータ上首を背に、北に向かって走り出してい た。  『GUSOHの門』が眠る弾薬庫区画の中心まで、 約八百メートル。ブレイクープログラムがその安 全装置を破壊し、先行しているトウェルブが作業 を終えるまで、時間を稼ぐのが残された任務だっ た。『門』が開けば、展開しているレコンズたち も撤退を余儀なくされる。それまでは敵戦力の攪 乱、減殺に努めると機械的に決断した理沙は、瓦 礫の間を縫うようにして頭に叩き込んだコースを 駆けていった。  背嚢を背負い、ストラップで固定した軽機関銃 を肩にかけた小柄な体が、硝煙の霧に包まれた基 地を走る。倒れたフォークリフトを飛び越え、そ の先に散乱するコンクリの山を足場にして、アス ファルトを裂いた亀裂を一気に跳躍してゆく。機 体下の探照灯をきらめかせ、這うような低空飛行 で追撃する二機のアパッチに、その姿は岩場を駆 け抜ける四足の獣に見えているはずだった。  三十ミリーチェーンガンが閃光を発し、着弾の 火花がその足跡をたどってアスファルトを抉る。 定間隔に曳光弾が装垠されている機銃の火線はさ ながら緑色のレーザー光線で、センサーと照準装 置が麻痺していても、確実に目標との距離を狭め てゆく。暴力そのものの空気の渦がすぐ横をかす めた直後、予定ポイントの1105イグルーの盛 土を目の端に捉えた理沙は、瓦礫のひとつを蹴っ て横向きに飛び、探照灯の光の輪から抜け出して みせた。  一機はそのまま行き過ぎたが、機首を上げて制 動をかけた後続のアパッチは、機体を大きく横に 振って目標の消えた闇に探照灯の光を投げかけた。 予定通りの反応。ホバリングした機体がじりじり と光の輪を近づけてくる音を聞きながら、理沙は 瓦礫の陰に伏せて頭を両手で抱えた。  そこから二百メートル。国道沿いの薮の中に支 持脚の根を下ろしていた対ヘリコプター地雷は、 パッシブ音響センサーの網に引っかかったロー ター音を聞き逃さず、六角形の筒状を呈した基部 を音源に巡らせた。その先端部から小弾子が射出 され、放物線を描いてアパッチの頭上に達したそ れは、ローター直上で爆発の華を咲かせた。  放出された無数の鉄球が四枚のブレードを一瞬 に弾き飛ばし、十メートルの低空を飛んでいた機 体が砂地に叩きつけられる。僚機の撃墜に動揺し たもう一機のアパッチは、NOE中のヘリを狙う よう設計されている対ヘリ地雷に対する方策とし て、マニュアル通り高度を取ることを選んだ。百 メートルまで急上昇した後、探照灯を振って目標 の位置を探ったパイロットは、いつの間にかイグ ルーの上に移動した侵入者が、黒い筒状の物体を こちらに向けていることに気づいて息を飲んだ。  対戦車ロケットランチャー、アームブラスト。 事前に警備センサーを欺瞞し、基地内各所に隠匿 しておいた武器の最後のひとつたった。全備重量 七キロ足らずのランチャーを構え、照りつける人 工の太陽に向けて引き金を絞った理沙は、最大貫 徹力三百ミリのロケット弾がアパッチの(ブを直 撃するのは見ずに、イグルーの盛土から飛び降り た。  三メートル下の地面に落ち、丸めた体を瓦礫の 陰に退避させた刹那、激震とともに閃光が飛び 散った。ローターを根こそぎ失い、墜落したア パッチの悲鳴だった。生残性重視の機体は爆発こ そしなかったが、イグルーの建屋に頭から激突し たヘリのパイロットが、生きているとは思えな かった。いつの間に刺さったのか、肩口に突き 立った鉄片を詰めた息で引き抜いてから、理沙は 接近する車の音を捉えて離脱の足を踏み出した。  死に損なった。少しずれていれば頸動脈を破っ ていた肩の痛みに、そんな思いが胸の中を走って 消えた。重い足は沼地を歩いているようで、体力 がとっくの昔に限界を越えていることを教えてい たが、立ち止まれば底無しの沼に引きずり込まれ る恐怖に駆られて、理沙はひたすら足を動かし続 けた。  胸から縊れ出したもやもやI今は坂部の形に なって揺れているもやもやが、一歩踏み出すごと に濃度を増し、たどるべき道筋を覆ってゆく。死 に損なったと思ったそばから、そうして生き続け る努力をしている自分は異常だと思ったが、他に 窒息しそうな無力感から逃れる術もなかった。悲 痛を飲み込んだ肉体が存在する限り、それまでそ うしてきたように走り続けるしかないとあきらめ て、理沙は焼け焦げた瓦礫が散らばる冥府を駆け た。  最強の対潜哨戒ヘリと謳われるシーボーグも、 空飛ぶ戦艦三隻が相手では鳰も同然だった。最高 速度三百キロ、リジット型ローターヘッドによっ て固定翼機並みの空中機動を誇るアパッチたちは、 一機を警戒・誘導に立て、残る二機による挟み撃 ち攻撃で、よたよた逃げ回るしかない海自ヘリの 包囲を開始していた。  武装なしの体でガンシップと渡り合うためには、 ひたすら背後について攻撃をかわし、相手が疲弊 するのを待つしかない。黒煙の海が満たす基地を 低空でパスし、尻に食らいついたアパッチを振り 切るために加速、上昇のレバーを倒した平は、機 体を九十度横転させる急旋回でターンを切り、相 手のテールローター目掛けて機を突進させた。  ざわざわと内臓を押し下げ、眼球を押し込む急 降下のGに歯を食いしばり、なんとか後ろを取る ことに成功したが、向こうのパイロットも伊達に 十五億円の機体を預かっているわけではなかった。 先行機が死角を取られたと見るや、入り乱れる航 跡を潜ってすかさず急上昇に転じた後続機は、直 上から降下・攻撃を仕掛ける(イーヨーヨー戦法 を打ってきた。  咄嗟にサイクリックを倒してフットペダルを踏 み込み、急旋回でかわしたシーボーグの頭上を、 オーバーシュートしたロケット弾の束がかすめ飛 んでゆく。代わりに直撃を受けた兵舎が吹き飛び、 飛散した破片が機体の底に当たって乾いた音を立 てる。高度・速度制限を無視した機動に警報が騒 ぎ立てたが、相手にしている暇は平にはなかった。 こちらが回避運動を取っている間に、機体を横転 させて見事な(Iフキューバンーロールを切った アパッチが正面に回り、両翼のパイロンに吊り下 げたヘルフアイアーミサイルを一斉に撃ち放って きたのだ。  白い航跡の尾が殺到し、一発が辺野古基地と シュワブを隔てる谷の断崖で弾けると、わずかに 残った橋の痕跡も砕いて爆煙を吹き上げてゆく。 粉塵をかい潜ってさらに迫るミサイルを避けた平 は、再び海上に出ることを余儀なくされていた。  電子装置が使えないため、照準ロックされない のがせめてもの救いだったが、もともと目視が原 則のヘリ同士の空中戦では、決定的なマイナス要 因とは言えない。海上に出た途端、ウイングマン 役のアパッチも機銃掃射を開始して、横転した機 体を起こす間もなく、海面すれすれに追い詰めら れてしまった平は、猛然と流れる視界にあるもの を捉えて、旋回させた機体をそれと正対させるよ うにした。  高さ二十メートルほどの断崖を、縦に割って走 る谷間の亀裂。底を流れる美謝川には、爆破され た橋と一緒に落下したらしい(ンビーが突き刺 さっていた。その大きさを基に谷幅を目測し、ぎ りぎリヘリのローター直径を受け入れられる大き さと断じた平は、隣で歯を食いしばっている護に 「魚雷の撃ち方、わかるか?」と尋ねた。  え? と振り返った後、視線を追ってすぐに同 じ考えに至ったらしい護は、素早く副操縦席から 体を抜いて後部キャビンに移った。「安全装置を 解除、着発信管にセットでいいな?」と言いつつ 管制盤に向き直った護が、すべてを理解している ことを確信した平は、「タイミングは任せた」の 声と同時にサイクリックを押し倒した。  ピッチ角が上がり、猛然と前進を始めたシー ボーグの機体が、機銃の火線を潜って断崖に突き 進む。あまりにも狭い亀裂がすぐ目前に迫り、上 昇して逃げたい衝動を絶叫でごまかした平は、谷 間の漆黒にヘリを滑り込ませていった。  川面をかすめる低空飛行に、飛び散った水滴が キャノピーに振りかかる。少しでもレバー操作を 誤れば、即座にローターが崖を削り取ることにな る狭い谷間の先には、辺野古ダムに守られた貯水 池があるはずだった。逃げ場をなくして追い込ま れたと判断したのか、シーボーグよりずっと小柄 なアパッチの機体が追随して谷に入る。機銃の火 線が川面を走り、数発がテールに弾けて、サイク リックーレバーが硬直したように手の中で震える。 このまま頭を押さえつけて、ダムの手前でとどめ を剌すつもりだろう。餌に食いついたアパッチを バックミラーに確かめて、平はサイクリックを思 いきり引くと同時に、コレクティブを最大限に引 き上げた。  シーボーグの機首が上がり、限界値まで達した ローターの回転が機体を一気に上昇させる。今だ。 バブルキヤノピーに顔をあて、タイミングを計っ ていた護は、好機を逃さずに魚雷の投下ボタンを 押した。  機体脇のパイロンに吊り下げていた短魚雷のカ バーが外れ、上昇するシーボーグから放出される と、谷の斜面に激突して爆発の閃光を咲かせた。 震動が大気を震わせ、つき崩された斜面が土石流 となって谷底に走ってゆく。急に離脱した敵機を 追うため、上昇しつつあったアパッチにとって、 それはトンネルエ事中に出くわした落磐事故のよ うなものだった。岩瑰の集中豪雨にテールロー ターをへし折られ、先行の一機が谷底に不時着す ると、後続も大量の土砂に視界を塞がれて、ブ レードを斜面に接触させてゆく。ローターが弾け 飛び、放り出された機体が川面を滑って横倒しに なると、もうもうと噴き上がった土煙が谷底を埋 めていった。  パイロットの様子が気になったが、振り返る余 裕はなかった。まだもう一機、たっぷり武装を残 したアパッチが控えているのだ。殺到してきた口 ケット弾の光をかわして、平は息継ぎの間もなく サイクリックーレバーを倒した。  奇妙な場所だった。幅二十メートル、高さ五 メートルの壁一面を覆う分厚いスチール製の隔壁 は、複数の巨大なボルトでしっかり固定されてお り、脇の解錠装置に浮かび上がった《LOCK》 の赤文字が、薄闇の中にひどく目立って見える。 テンキーの上にある覗き窓は眼紋照合装置で、両 側面に五つずつ貼られた鉄片は指紋照合のセン サーだろう。そこを終点に、三百メートル先の北 側ヘリポートまで続いている坑道はほとんど闇に 塗り潰されていて、無数のダクトが血管のように 張り出した天井がわずかな明かりに浮き立ってい るさまは、さながら巨大鯨の胃袋の中といった風 情を醸し出していた。  空調管、送電ケーブル、通信線はわかるが、両 側壁を走る太いパイプはいったいなにか。そもそ も隔壁の奥になにがあるのかさえもわからず、と にかくそこに絶対防衛線を張るよう命じられた ローグは、直轄小隊八入のレコンズだちとともに、 弾薬庫地下四十メートルの迷宮で五官を研ぎ澄ま す時間を送っているところだった。  円を囲む三つの扇のマークがどこかに印してあ れば、核貯蔵庫と呼ぶのがいちばんしっくりくる 地下施設は、事前検討に使った青写真にも記載さ れていなかった。「両国の信頼関係」という曖昧 模糊で、核兵器を搭載した原子力空母の寄港も容 認しているこの国のこと、情報公開法の帳尻さえ 合わせておけば、NBC兵器の貯蔵も決して難し い話ではないだろうが、こうも大袈裟な秘密金庫 をわざわざこの地に据えたのはなぜか。答えは、 あのダイスの女が口にしていた『GUSOHの 門』という隠微な響きに集約されているのかもし れなかったが、たったひとりの侵入者に振り回さ れ、一中隊を壊滅状態に追い込まれた「海兵隊史 上最も無能な指揮官」になりつつある憤激を前に。 ローグはそんな疑問も押し流されてゆくのを感じ ていた。  ケブラー製のヘルメットとボディアーマーの上 に、ナイフや手榴弾、弾倉などを詰め込んだベス トを装備した完全武装のレコンズ兵を率い、この 得体の知れない地下施設で待機を始めて三十分。 警報装置と連動したバイブレーターがポケットの 中で騒ぎ出し、ローグは隔壁前で密集隊形を取っ ていた部下たちに感知・散開を意味する手信号を 送った。  ガンナー、ポイントマン、セキュリティの役を それぞれ担ったヘルメットの頭が、所定の位置に 速やかに散る。ウィルスに取り憑かれた警備シス テムは当てにせず、防衛線を張ると同時に即行で 敷設した野戦用警報装置は、途中に仕掛けられた トラップをすべて回避し、百メートル以内にまで 接近した侵入者の存在を教えていた。全員が暗視 ゴーグルの目を凝らす一方、光が漏れないよう幌 を被せた赤外線モニターを覗き込む副隊長も坑道 の薄闇を探ったが、排気の熱を帯びたダクトが天 井を赤く染めるだけの温感映像に、人の形を見つ けることはできない。空調の音がいやに大きく感 じられる数秒が過ぎ、誤報の文字が頭に浮かびか けた瞬間。天井に微かな金属の音が生じて、九つ の銃口が一斉にそちらを見た。  五メートルの高さを縦横に走るダクトの隙間か ら、熟れたリンゴのように小さな物体が落下した ところだった。予測外の事態であっても、鍛え抜 かれた神経は冷静にその視覚情報を脳に伝達した が、対処の行動を起こすには、ゼロコンマの時間 は短すぎた。床上一メートルのところで閃光を発 した物体は、坑道を照らす人工の太陽となって、 目と脳を繋ぐ神経の中で爆発した。  音響閃光手榴弾と理解するより先に、坑道中に 響き渡った轟音が三半規管を破壊していた。平衡 神経を失ったローグの体は、傍らのモニターを倒 しながら床に転がっていった。  その間にダクトの隙間から這い出し、四肢を 使って蛙のように床に着地した侵入者は、立ち上 がると同時に構えたMP‐5SDサブマシンガン の引き金を絞っていた。ボディアーマーを狙う無 駄は犯さず、露出した顔面だけを狙って掃射され た九ミリ弾が一瞬に三人の兵士の頭を砕き、反撃 の火線をかい潜って走ったナイフの切っ先が、視 力を失ってでたらめに銃口を振り回すしかないガ ンナーの頸動脈を切断する。噴出した返り血を浴 びた顔が銃火に浮かび上がり、敏捷な獣さながら。 四つ這いになった体が闇の中で跳躍すると、視覚 と聴覚を失った兵士たちの喉を次々ナイフの牙で 食い破ってゆく。まさに化け物、悪鬼そのもの だった。痛む目をしはたき、黒い染みのとれない 視界の片隅にその姿を捉えたローグは、先端の感 覚が途絶えた腕を憤怒の力で動かし、自動拳銃の 銃把をつかんだ。  最後に残った伍長にのしかかり、額にベレツタ の銃口を押し当てた侵入者は、信じられないこと に、やはりまだ少女という表現が許される年頃の 女だった。かつての合同訓練で、ただひとり海兵 隊の追撃を生き延びたダイスの特殊工作員。数十 人の部下を血祭りにあげた、ウルマの名を持つ少 女は、この時もためらわずにベレツタの引き金を 引いていた。伍長の体が硬直し、ほとんど同時に コンバットマスターの銃把を持ち上げたローグは、 絶叫とともに引き金を絞った。  二発、三発。吐き出された弾丸がウルマの腹に めり込み、弾け飛んだ小柄な体が側壁に打ち付け られる。釘付けにされ、硬直した体は、やがてず るずると下がって尻を落とし、がっくり頭を垂れ ていった。肩までの髪が顔にかかり、ローグはそ の頭頂部を狙ってさらに引き金を引こうとしたが、 麻痺から覚めきらない指は言うことを聞いてくれ なかった。コンバットマスターを捨て、隔壁を支 えにふらつく体を起こしたローグは、自分の手で 直接息の根を止めてやると決めて、重い足を踏み 出した。  死体の山を乗り越え、血溜りをブーツの足で踏 みつけて、壁に背を預けて気絶している少女のも とに向かう。理性はなかった。ただその脳髄を引 きずり出す衝動に取り憑かれて、ローグはベスト に仕込んだM‐9ナイフを抜いた。  撃たれた衝撃で銃もナイフも手放し、手足を無 防備に床に投げ出しているウルマは、ぴくりとも 動かない。もう死んでいるのかもしれなかったが、 関係なかった。自分のキャリアとプライドをずた ずたに引き裂いた悪魔目掛けて、ローグは握った ナイフを振り上げた。  瞬間、パチンとなにかが弾ける音がして、顎に 衝撃が走った。ローグがこの世で感じた、それが 最後の感触だった。ウルマの袖口に仕込まれてい たスペツナズーナイフー柄に仕込まれたスプリ ングによって刃先が射出される特殊ナイフの刃が、 十メートルの殺傷範囲を保証するバネの力で打ち 出され、ローグの顎を直撃したのだった。顎から 頭蓋に突き抜け、ヘルメットにぶつかって止まっ た刃に生命活動を寸断され、ローグの体はアッ パーカットを受けたボクサーのように床に倒れ込 み、動かなくなった。  生暖かい血が、水風船を割ったように振りか かってきた。柄だけになったスペツナズーナイフ を手放した理沙は、弾丸がめり込んだ腹部の状態 を確かめる気にはなれず、しばらくその場に静止 していた。  戦闘服の下に着込んだボディアーマーが防いで くれたものの、肋骨の二、三本が折れていること は間違いない。凝固し始めた血がセメントのごと く体を塗り固めてゆき、ふと、このまま石像にな ることができたらと願った刹那、重い震動が床と 空気を震えさせた。  眠っていた巨鯨が目を覚まし、この胃袋にどく どくと血を送り込む音たった。《LOCK》の赤 文字たった開閉装置の表示が《UNLOCK》の 青字に変わり、ロックボルトが解除されると、巨 大な隔壁がゆっくり左右に開いてゆく。坂部の遺 産−管理システムに流し込んだブレイクープロ グラムがその任務を果たし、『GUSOHの門』 を開放したのだった。  隔壁の向こうに網の目のシャッターが現れ、格 子の縞模様と、そこに立つ人の影を坑道にのばす。 目を開けた理沙は、光に照らされた死体の山から、 上昇するシャッターに視線を移した。  いつもと同じ、トウェルブの青い瞳がそこに あった。逆光を背に静かに歩み寄ってきた長身は、 壁に寄りかかったままの理沙の前に立つと、その 手をそっと差し出していた。  「さあ行こう、理沙。ここが終着点だ」  先んじて『GUSOH』の内部に侵入し、時間 稼ぎの惨劇が基地を揺らしている間に、すべての 準備を終えた男の声だった。管理システムが破壊 された今、冥界の扉は彼の意のままに動き、それ を阻めるものはもはや存在しない。痛む脇腹を堪 えて、理沙はその温かい手を握り返した。  トウエルブに支えられ、理沙は門の向こうに広 がる光の海を揺れる視界に捉えた。もうすぐ、す べての任務が終わる。消滅を願いながら、ここま でたどり着いてしまった悔恨も霧散して、その思 いだけが胸を埋めた。  従うべきは葉ではなく、その源たる大樹。結局、 最初から定められていた通りに事態が推移したの だと納得し、すべての思考を消し去った理沙は、 『GUSOH』の中枢に足を踏み入れていった。  緑色の閃光が目前を擦過し、機体が左に弾かれ る。テールブームに直撃を食らったらしい。ドラ イブシャフトが損傷したのか、テールローターの 回転が弱まって一瞬コントロールが利かなくなる。 無数の警報灯が点滅する計器盤の向こう、大隊司 令部ビルの壁が目前に迫るのを見た平は、渾身の 力でサイクリックーレバーを引き起こしていた。  ぎりぎり激突をかわしたシーボーグの機体が、 屋上の手摺をランディングーギアで蹴飛ばしなが ら上昇に転じる。衝撃が操縦席を突き上げ、(I ネスが胸に食い込んで息ができなくなった刹那、 「左後方、また来る’・」と護の声が弾けた。  チェーンガンの銃口を巡らせたアパッチがバッ クミラーの中をよぎり、直後レーザーのごとき光 の線条が闇を裂いて走る。バックミラーが支持棒 ごともぎ取られ、テールから煙の尾を引いたシー ボーグは、弾薬庫区画に向かってよろよろ高度を 落としていった。  いまだ噴煙を上げるイグルーの爆心地をかすめ、 弾薬庫の中枢へ。しつこく銃撃の火線をのばして くるアパッチは、完全にこちらの頭を押さえてい た。砕けたコンクリの破片や横転したジープが転 がる砂場に弾着の土煙が走り、かまくらを思わせ るイグルーの盛上がつぎつぎ後方に過ぎ去ってゆ く。もはや魚雷もなく、ぼろぼろの機体にあるの は残りわずかな燃料のみ。アドレナリンの海を漂 う頭に、そろそろ限界の絶望が見え隠れし始め、 舌打ちでそれを追い払おうとした瞬間だった。突 然前方の地面に閃光が走り、爆発の火柱が立ち上 るのを見た平は、咄嗟にサイクリックを倒して右 に機体を回避させた。  イグルーの集落に囲まれ、そこだけぽっかりと なにもない空き地を哂している弾薬庫区画の中枢 だった。二つ、三つ目の火柱がすぐ横に屹立し、 もうもうと噴き上がる爆煙を夜陰に浮かび上がら せると、足もとの大地に直径三メートルほどの穴 を穿って霧散してゆく。一直線に並んだ穴は、間 もなく互いを隔てる地面の陥落によってひとつに 繋がり、緩やかな起伏を刻んで広がる空き地の中 央に、長さ十数メートルの亀裂を描いていった。  圧倒的な優勢に立っていたはずのアパッチが、 不意に殺意を消して後退する。地上に残っていた 兵上たちも人員駐屯区画に引き上げ始め、戦場の 張り詰めた空気が潮のように引いてゆくと、代わ りに大地の裂け目から漂い出た陰湿な気配が、弾 薬庫全体を包むようになった。内側から噴き上げ られ、穴の周囲に盛り上がった上がみるみる亀裂 に吸い込まれてゆくさまは、空き地の地下が空洞 である事実を示していた。  保守トンネルや下水道などといったレベルのも のではない、もっと巨大な地下施設の存在。「な んだ……冫・」という声が無意識に口をつき、地獄 に通じる暗い亀裂を覗き込んだ平は、「あれ……」 と呟いた護の声にぎよっと振り返った。  指さした向こう、弾薬庫の北の外れにあるヘリ ポートが、二つに割れてゆくところだった。双発 の大型輸送ヘリも受け入れられる白線の丸がゆっ くり左右にスライドし、地下に続く進入口を露に してゆく。人の制御を離れ、勝手に動き始めた辺 野古弾薬基地を呆然と見下ろした平は、「時間だ」 と呟いた護の声をひどく間近に聞いていた。  計器盤のデジタル時計が、午前零時ちょうどを 示したところだった。東馬が指定した、約束の時 間。目の前の異常な現実に、「忘れられない痛み」 と口にしていた藍色の瞳が重なり、平は腹の鉛が 重みを増すのを感じた。  「……なにが起こってるんだ?」  「わからない。でもトウェルブがここを取引場所 に選んだのは、背後を固めるなにかがあるからの はずだ」 「背後を固める……冫・」 「『BB』つていう最後の切り札を切れば、あい つは丸裸になる。復讐を完成させるためには、そ れに匹敵するなにかが必要だ」  そう言った護の視線の先には、完全に開放し きったヘリポートの空洞があった。「……それが あれか」と呟いた平は、じっと見据える護の顔に 無言の同意を確かめて、ヘリポートに向かうレ バーを倒した。  この暗闇の向こうに、東馬と理沙がいる。その 直感だけを抱きしめて、平は冥府に通じる穴にヘ リを降下させていった。  衛星画像に拡大された亀裂の底は、無数の鉄管 が縦横に走るパイプの海たった。腹を真一文字に 裂かれ、腐った内臓を露出させた辺野古弾薬基地 の鳥瞰映像を前に、井島は「グソー……冫・」と聞 き返していた。  「そう、後生。伊良部島の民話に出てくる死後の 世界のことです。冥界、黄泉の国、あるいは地 獄……」モニターに向けた横顔に恍惚さえたたえ て、古武は答えた。「沖縄に封印された史上最悪 の毒ガス兵器の名前としては、実に相応しいもの だと思いませんか?」  CICの特等席で辺野古基地が嬲り殺しにされ るさまを平然と眺め、作戦指揮とは名ばかりの高 みの見物を決め込んでいた古武が、それは初めて 明かした真実のひとつたった。血の気の引いた顔 をモニターに押しつけ、地下二十メートルを錯綜 するパイプに目を凝らした井島をよそに、古武は すべてを解き明かす口を開き始めた。  「始まりは、新式干不ルギーの開発実験だったそ うです。空気中の酸素を取り込み、化合して、長 時間高圧ガスを噴出し続ける新しい化学物質の創 造。石油より効率が良く、原発よりも安全な理想 の干不ルギーの研究は、ペンタゴン主導のもと極 秘裡に行われ、辺野古に置かれた化学部隊の実験 施設で完成した。……ただひとつ、発生する高圧 ガスが、VXを凌ぐ強力な致死性ガスであるとい う欠点を除いてね」  世界最初の毒ガスが、農薬生産の過程から生じ た副産物だったように、化学兵器の大半はさまざ まな研究の中で偶然に発見されている。新干不ル ギー開発の卵から悪魔が孵化したとしても驚くに は当たらず、それよりも、地下に封印した巨大な ガスプラントを露呈させてしまった基地のありさ まと、その存在を知った上で辺野古に狙いを定め た東馬の思惟が重くのしかかっていた。慄然の顔 を向けた井島は見ずに、古武は言葉を次いだ。  「致死量は三十ミリグラムで、作用速度は一分未 満。一滴床に垂らせば、二十人が即死する計算で す。浸透性も持続性も桁外れで、加水分解もせず、 どんな解毒剤も効果がない。唯一の対策は六千度 の熱−つまり核で焼き尽くすことですが、それ では無傷で敵国の拠点を奪取するという、ガス兵 器本来の役には立だない。干不ルギーとしても兵 器としても使いようがない、出来損ないの失敗作 です。  かと言って究極の戦略兵器になり得る物質を捨 てることもできず、彼らはすべての研究資材とと もにそれを地底深くに封印した。弾薬庫の地下四 十メートルに『GUSOHの門』と呼ばれる一大 貯蔵庫を造り上げ、厳重警備の下で研究を続けた のです。それが使われるような事態が起こらない ことを、祈りながらね」  付け加えるなら、万一こぼしても自分のドレス が汚れないよう、他人のテーブルにそれを置いた というわけだ。アメリカの傲慢と、保守外交とい う思考停止で見て見ぬ振りを通した囗本の卑屈。 いつもの腐臭をモニターの向こうに嗅いだ後、井 島は事態に対処する目を古武に注いだ。  「空気中の酸素と化合して……と一一一一につたな。あそ こにある『GUSOH』が分解して、ガスを放出 し終えるまでにどれだけの時間がかかる?」  地盤を崩し、貯蔵庫を露出させたのは、東馬が 『GUSOH』の放出を企図しているからにほか ならない。父親との会見という要求が充たされな かった場合−すなわちあと数分で必ず実行され る、最後にして最悪の制裁。モニター画面が切り 換わり、緑の線図で描かれた辺野古畸の地図が映 し出されると、『GUSOHの門』から生じたガ スの拡散状況が、左端で八千倍の時間を刻む時刻 標示に従って赤い円を拡げ始めた。  「貯蔵されている『GUSOH』の量は約十キロ。 すべてが化合するには優に三日はかかる。ほぼ無 風で計算しても……」  瞬く間に辺野古畸を覆い、弾薬庫とキヤンプー シユワブを血の赤に染め上げていった円は、衰え る気配を見せずに内陸へと拡がってゆく。縮尺が 切り換わり、中北部全体を映すようになったモニ ターを真っ赤に染め、拡がり続けた被害の波紋は、 やがて内陸をつき抜けて東シナ海側にまで及び、 本島に寄り添う伊江島を最初に呑み込むと、南部 の沖縄市、那覇市を包み込んで、西端に位置する 久米島さえも絶対の死の中に併呑していった。  さらに画面が引き、沖縄諸島全体を映し出した モニターの中で成長を続けた波紋は、北に連なる 奄美諸島にも触手を伸ばし、最南端の与論島を征 服したところでようやく止まる気配を見せた。経 過時間、七十一時間三十五分。沖縄本島を完全に 呑み込んだ、直径三百キロに及ぶ死の輪がシミュ レーター画面上に現出し、井島はコンソールに手 をついて、崩れそうになる膝をどうにか支えた。  「忘れ得ぬ痛み……。これがトウエルブが招来す る冥界の姿です」  古武が言う。冷静な声に、無事な右腕を振り上 げた井島は、その胸倉をつかんで制御装置の壁に 押しつけていた。  「それが『裏』か……’・ 謀反するとわかってい ながら東馬に《キメラ》を託したのは、これを掘 り出させるためか」  日米双方の利害共有から始まった《キメラ》。 『BB文書』の醜聞と、そこから生まれ出た東馬 −トウェルブが引き起こした前代未聞のテロ。 一連の事件を足し引きし、それぞれの負い目を相 殺して最終的に算出される解は、国際条約を無視 して化学兵器の開発を続け、分解不能の毒ガスを 他国の領土内に隠匿していたアメリカの恥辱だっ た。  もうフリーゾーンも軍備改編も関係なく、国際 世論に袋叩きにされた米軍は全面撤退を余儀なく される。《キメラ》の中核に立ち、日米双方の利 害調整役を引き受けておきながら、実際には東馬 の怨念を利用して『GUSOHの門』に導き、ア メリカに決定的な打撃を与えようとした古武の目 論見は、先刻届いた東馬からのファックスを見る までもなく、明白だった。  己の消滅を予感したトウェルブからの手紙には、 古武をそうさせるに至った、彼の中に潛む怨念の 内容も詳らかにされていた。すべてが手遅れの絶 望に突き上げられて、井島は古武の胸倉をつかむ 手に力を込めた。  「フリーゾーンどころか、あの島は人の立ち入れ ない死の世界になる。わかっているのか? 前例 のない、最悪の大量殺戮になるんだぞ……’・」  冷然と見下ろした日本人らしからぬ深い眼窩は、 東馬の告発が真実であることの証明だった。押さ えに大ろうとした部下を手で制し、「落ち着いて 下さい」と言って井島を払った古武は、乱れた襟 元を正してから冷ややかな微笑を向け直した。  「そんなことにはなりません。《キメラ》には、 始まった時から保険がかけてあるんです。内事部 からお借りした、確実な保険が」  東馬の怨念を利用はしても、その復讐劇を完遂 させて、沖縄を使い物にならなくするような愚は 冒さないということか。精緻な計算機械の目に、 「夏生二尉のことか?」と井島が問うと、古武は 真実楽しげな笑い声をあげた。  「彼女は保険機構を作動させる代理執行人に過ぎ ない。始まった時から、と言ったでしょう?」  保険、作動、始まった時から。口の中にくり返 して、ふとぞっとする想像が胸の中に固まった。 まさかの思いと、そう考えた方がむしろ辻褄が合 うという思いが衝突し、なにも言えない目を上げ た井島に頷くと、古武は東馬とウルマがいるはず の地獄の門をモニターに見つめた。  「墓場鳥が囀ることはありませんよ。……絶対に ね」 『門』の向こう側は、ひと言で言うなら、最新設 備で固めた原子力発電所と前衛芸術の複合体だっ た。非常灯が照らす回廊を抜けた先には、各種制 御装置を収めたコンソールが整然と並ぶ集中管理 室があり、管制塔のように壁全面がガラス張りに なった向こうに、大樹の幹に似た『GUSOH』 貯蔵設備の本体を窺うことができる。今、その アーマライト製防弾ガラスは一面が粉々に砕けて おり、焼け焦げた手前のコンソール上に無数の丸 い破片を散らして、『GUSOH』に至る道を花 びらのように飾っていた。  気圧バリア発生装置、ロボットアームの操作ス ティック、各種感知器と緊急時の排気・空気清浄 を司る制御盤はどれも沈黙していて、守護すべき 御神体に異物が入り込んでも、警報ブザーひとつ 鳴らす気配がない。セムテックス特有の甘ったる い硝煙の匂いを嗅ぎつつ、トウェルブとともに 『GUSOH』を納めた気密区画に足を踏み入れ た理沙は、その異様さに束の間立ち止まってし まった。  高さ二十メートル、直径十五メートルの円柱状 空間の中央に、巨大な鉄の樹が根を下ろしていた。 無数のパイプやダクトが蔦のように絡まり合い、 排気や吸気、化学薬品注入ダクトの枝を内壁に伸 ばしている『GUSOH』の器は、実際、老獪な 杉の巨木そのものだった。  円柱の内壁には局所排気装置のスロットが定間 隔に並び、天井にはやはり空気清浄機に繋がる吸 気フードが吊り下がっているはずだったが、今そ こに見えるのは、天井を二つに裂いた巨大な亀裂 と、四十メートル彼方の地上をたなびく煙の筋だ。 ガウディの前衛建築を百倍グロテスクにした 『GUSOH』の尖塔の頂点に、下界の混乱とは 無縁の静けさを宿した月の光が重なり、理屈もな にもなく、自分は世界の底にいるのだと理沙は 思った。  そこより下はなにもない、絶対の虚無だけが渦 巻く混沌の底。栓が抜ければ、この世界はまるご とその渦の中に引き込まれてゆく。そう思い、理 沙は大樹の中央に抱かれた鉛色の球体に視線を移 した。  折り重なるダクトの中心に、直径三メートルほ どの球状を鎮座させている物体こそ、 『GUSOH』そのもの。酸素を取り込んで爆発 的な化学変化を起こし、分解不能の致死性ガスを 放出する、悪魔の液体を封じ込めた卵たった。何 重もの隔壁で覆われたカプセルは、理論上では核 の直撃にさえ耐えられる代物だが、直結する周囲 のパイプはプラスチック爆弾で簡単に吹き飛ばす ことができる。管理システムが死に、緊急遮断装 置も濾過装置も作動しない今、四方を繋ぐパイプ が切断されれば、『GUSOH』の空気接触を妨 げるものはなくなるはずだった。  カプセルとパイプの繋ぎ目にガムテープで固定 されたセムテックスの瑰を見つけ、すべてが予定 通りの帰結を迎えつつあることを確かめた理沙は、 「久しぶりだな。夏生二尉」と不意に発したトウ ェルブの声に、反射的に腰のベレツタを抜いた。  銃口を振る必要もなく、パイプの陰から見知っ た人の姿が現れていた。夏生由梨。920部隊の 作戦担当副部長にして、辻井二曹の直属上司で あった女性士官の無表情が、そこにあった。  トウェルブ同様、非常用避難トンネルから入り 込んで、自分たちが戻ってくるのを待ち受けてい たのか。目的と、それに見合った覚悟を孕んでこ の場に立った目は冷たく、気配を感知できなかっ た迂闊を悔いた理沙は、「待ってたわ」と応じた 由梨の足が、向けられた銃口を無視して近づいて くるのを見た。  「時間ぴったり。相変わらず律儀な人ね」  頭上をすり抜け、トウェルブに視線を据えた由 梨の体が五メートルの距離を開けて止まる。トウ エルブの手が肩に置かれ、理沙は構えた銃口を下 ろしていった。  「でもあたしは信じない。あなた、あたしとの約 束は破ったもの」  決してこちらを見ようとしない目に、澱んだ感 情のうねりがあった。無言のトウエルブから目を 逸らすと、由梨は唇を歪めて顔を伏せた。  「お陰でひどい目に遭ったのよ、こっちは。トウ エルブと寝た女っていうだけで、《キメラ》の真 相を知らない内事部の連中に疑われて、裸に剥か れて調べられて……。あたしがなんにも知らない、 ただ遊ばれただけの女だってことが証明されるま でに、半月以上もかかったわ」  感情の振幅を、皮一枚で押し留めた声たった。 否定の声を待つように、そこでしばらく言葉を 切った由梨は、変わらず無言の東馬をちらと見て から、腕を組んだままゆっくり歩き出した。  「最初はあたしを人質にすることも考えてたみた いだけど、その価値がないとわかってからは鼻も かけられなくなった。みんなあなたのこと知らな いのよ。だからあたし、代わりに平曹長を人質に してやったの。誰にでもやさしい『善人』なら、 必ずのってくると思ってね」  一定の距離を保ちながら、脇から背後に回った 由梨の声が続ける。緩い弧を描いた正面の気密防 壁を見つめて、トウエルブは動こうとしなかった。  「思った通り、あなたは食いついてきた。……あ たしが人質だったら、同じように助けに来た? その人形を使って」  湿った殺気を帯びて、最後のひと言は自分に向 けられていた。猛毒を持つ蛇に睨まれた恐怖が走 り、骨折の痛みがぶり返した脇腹を押さえた理沙 は、「……まあ、いいわ」と言った由梨の声をひ どく間近に聞いた。  「バカ騒ぎはもうおしまい。『BB文書』をこち らに渡しなさい」  硬質な声に、心臓がひとつ大きな鼓動を打ち、 両肩に食い込む背嚢の重みが増した。中にしまわ れた『BB文書』が目覚め、寝返りを打つたかの ようだった。ぴんと張り詰めた空気の中、「…… 父の姿がないようだが」と口を開いたトウエルブ の声が円柱のホールに響き渡り、呆れと畏怖の入 り混じった由梨の目がそれに答えていた。  「当たり前でしょう。相手は元合衆国大統領なの よ。彼らにとっては守るべき国益であり、歴史だ わ」  「わたしの父だ」  「そう。……あなたを見捨て、殺そうとした父親 よ。なにが狙いなの? 会ってどうしようってい うの? 復讐?」  「尋ねたいだけだ。それが、父自らが望んだこと であったのかどうか」  「聞いてどうするの」  「事実を確かめる。そして、もしそうであったな ら謝罪してもらう」  怨嗟の域を越えて、それはすでに明確な意志 だった。外界と隔絶した十年という時間軸の中、 感情はとうの昔に色褪せて、そうしなければいら れない目的意識だけが残った硬質な意志。息を飲 み、「……たったそれだけのために、こんな……」 と呻いた由梨を見据えて、トウエルブは「当然の 権利だ」と続けた。  「我々は彼らの従属物ではないし、占領政策の結 果を生きる者でもない。魂を持つ、一個の自立し た人格だ。それを示さなければ、父と向き合うこ とはできないと思った。父が、父と呼ぶに相応し い男であったのか、確かめることはできないと 思った。だからそのための行動を起こし、ここを 再会の場に選んだ。生と死が隣接する、この門の 前で」  そう言ったトウエルブの手が差し上げられると、 そこには市販の携帯無線機が握られていた。送信 ボタンを押す小さな音が気密空間に響き、 『GUSOH』に仕掛けられた爆破装置が待機の 赤ランプを点す。タイマーなど複雑な細工はなに もなく、ただ無線のボタンから指を離せば、爆薬 にセットされた受信装置のメーター針を一定の位 置に留めている電波が途絶えて、針はゼロ値を指 し示すことになる。それが接続されたヒューズを 飛ばし、電流がカットされると同時に起爆装置が 作動して、スプーン一杯で車を粉砕するプラス チック爆弾十キロに爆発を促すのだった。  親指でしっかりと送信ボタンを押した無線機を かざし、自らの命と直結した起爆装置の存在を示 したトウェルブに、一歩後退した由梨は「狂って るわ。そんな無意味なこと……’・」と吐き捨てて いた。  「そうかもしれない」静かに応じると、トウェル ブは無線を持った左手をゆっくりと下ろしていっ た。「だが君だちとの利害は一致した。沖縄フ リーゾーン、そして米軍の軍備改編。望みを叶え たのだから、今度はこちらの番だ。できないと言 うのなら、すべてを白紙に戻す」  そのための道具−冥界への門を開き、この汚 濁と混乱を虚無に消し去る無線機が、すぐ傍らで トウエルブの手中に握られていた。「できないこ とはわかっていたはずよ。あなた最初から……」 と言った由梨の声が頭上を行き過ぎると、「それ は違う」と即座に応じたトウエルブの目が、無線 機を見つめる理沙に向かって注がれた。  「希望はあった。痛みを伴う現実であっても、語 り、受け止め、乗り越えることができると信じた。 父の国も、この国も……」  二つの国の血を受け継ぎ、その掛け橋となるべ き存在だった自らが、それぞれの権益を維持する 道具にしかなり得なかったことも。双方に死を望 まれ、結果としてまったく無関係の、かけがえの ない第三者を死に至らしめてしまったことも。そ れを実行した側の傲慢と、受け入れた側の卑屈。 両者のエゴとだらしなさが狂わせ、ここまでの閉 塞と混乱を招いてしまった歴史的な罪も。すべて は歴史の一部になった父親と対面し、懺悔の言葉 を吐かせれば償われると信じ続けたトウエルブ。 そうして両国に最低限の責任をまっとうさせるこ とで、「善く在れ」と言った父の言葉も実践でき ると幻想した男の青い目は、それを打ち砕かれ、 すべてを無に帰すもうひとつの選択肢を取らざる を得なくなった今でも、平素と変わらない温かみ を宿して理沙を見つめていた。  そこに求めた世界の片鱗を見つけたかのような トウエルブの瞳を見返すことができず、顔を伏せ た理沙は、「だが結局、誰ひとり責任を取ろうと はしなかった」と続いた声に、深い絶望の色が差 し込むのを聞いた。  「一個の人格として自立することも、それを受け 容れることもできなかった。我々は永久に十二歳 の子供で、彼らはそれを利用し続けた。対等な人 同士として、語り合う言葉を持とうとしなかった。 最初からそのつもりもなかった。  だから痛みがいる。痛みが人を大人にする。無 視することも、忘れることもできない痛み。子供 であり続けようとしたことが呼び込んだ痛み。こ の島をフリーゾーンにしたところで、現在の閉塞 はなにひとつ解決されない。すでに腐り始めてい る経済神話で、次の世紀を汚すだけのことだ。  ならばこの島は痛みになった方がいい。わたし と同じ、誰も触れることができない禁忌の存在に。 わたしの死と同時にトウェルブの呪縛が消えても、 この島の痛みが消えることはない。十二歳の島国、 その爪先で痛みは永遠に残り続ける。そしてそれ が、この国を大人にする。否応のない真実との直 面。守ってくれる父はどこにもいないのだという ことを」  沖縄の壊滅を座視するか、核を撃ち込んでガス を中和するか。どちらを選ぶにしろ、《キメラ》 とそれに付随する日米の破廉恥は『GUSOH』 の開門と同時に世に広まり、両政府を転覆させる。 その先にあるものは、バランスシートの崩れた世 界の際限なき混沌。歯止めを失った北朝鮮の暴走、 中東に封じ込まれた火種の再燃と、最悪のシナリ オが現実になった時、アメリカは、無政府状態に 陥った日本を同盟国ではなく、使い捨てのできる 一戦略拠点として扱うことをためらわないだろう。  日本の再占領−いや、敗戦からずっと続いて きた現実が露呈し、ぬるま湯の中で回避されてき た危機と直面させられた時、この国は十二歳の先 にある成熟を目指して歩き始めるのか、あるいは そのまま死滅の道をたどるのか。そうなってみな ければ誰にもわからない未来の推測よりも、これ が責任転嫁のしようがない、この国全体の罪と認 識されることの方が重要だと、かつて坂部との話 の中でトウエルブは言っていた。  《キメラ》が招いた人命の損失は、フリーゾーン 構想に破綻した経済の起死回生を夢見た財界の罪 であり、その利害調整機関の役目しか果たせな かった政界の罪であり、利権感覚のみでそうした 代表者を選出し、エゴと自由の意味を取り違え、 己を取り巻く世界を顧みることも語ることもしな かった全国民の罪になる。民に主権があると謳っ た民主主義の原則−あるいは幻想に従って、国 家が為した前代未聞の大量殺人劇は、そこに在る すべての人に等しく分配される。それこそが、黙 殺することも他人任せにすることもできない、自 らの力で乗り越えなければならない「痛み」なの だと。  誇大妄想であれ、それこそが独善に支えられた エゴであれ、東馬をトウエルブに変え、ここまで 導いてしまった現実に疑問の余地はなかった。沈 黙の後、「……そう。それがあなたの出した答え なのよね」と呟いた由梨は、それを清算するため に送り込まれてきた者の目を上げた。  『最初に会った時から、あなたはここにいた。生 と死の中間点……y』の『GUSOHの門』の前に。 あたしは、この世界に残った影に抱かれてただけ。 トウエルブという、生の世界に残したあなたの影 に……」  あるいは、同じ名前を持つ死んだ恋人の代替え として。閉じたはずの思考の蓋が開き、その向こ うにいるもうひとりの自分がそんな言葉を付け足 すのを聞いた理沙は、任務のためでもなんでもな く、ただ女そのものの執着と嫉妬に支えられて 立っている由梨を見るのが辛くなり、目を伏せた。  「でも、それを認めるわけにはいかない。腐り果 てた国でも、守るのがあたしたちの仕事だもの。 あなたはそれを裏切った反逆者、それ以上でも以 下でもないわ。……そうでしよ? 村瀬一曹」  最後のひと言が『GUSOH』に跳ね返って背 中に突き剌さると、開きかけた思考の蓋は速やか に閉じ、見知らぬもうひとりの自分もその中に消 えていった。  ウルマ、理沙。今の自分を形作った人々からも らった二つの名前に較べ、もっとも疎遠な自分の 本名。顔も知らない両親からもらった、戸籍に記 された名前で呼びかけられ、ああ、この人が古武 本部長の代理人かと納得した理沙は、ひとつ悲痛 の種を飲み下して、由梨が次の符牒を口にするの を待った。「ナイチングールは、囀らない」と出 されたコードが、すべての終了を告げて世界の底 に響き渡っていった。 「『BB文書』はそこにあるわね?」 「はい」 「けっこう。では現時点を以て現行任務を解除し ます」  無線機を握ったトウエルブの手が、動揺を伝え てこわ張っていた。それを見ないようにして、理 沙はいつもの無表情を由梨に向けた。  「トウエルブを無力化し、『BB文書』を持って こちらに戻りなさい」  葉の温もりを捨て、大樹に還るべき時が来たこ とを告げる声たった。逡巡はなく、その時に理沙 が感じたものは、破けてなくなる自分の体だった。  そうして被っていた表皮がなくなると、いま感 じている痛みなどはこの半年間の任務の副産物に 過ぎないと断じ、下された命令を忠実に実行する 血まみれの何者かが現れる。命令に従い、トウェ ルブの背後に回ったその何者かは、無線をつかむ トウェルブの手を上から包み込むように握ると、 もう一方の手でベストに仕込んだナイフを抜いて、 振り向こうとしたトウェルブの右脇腹に根元まで 刺し込んだ。  ボディアーマーの隙間から侵入し、突き立てら れた刃に収縮した筋肉の波動が、柄から全身に伝 わってゆく。小さく呻いた後、床に膝をついた トウェルブの体からナイフを引き抜き、送信ボタ ンが押し戻されないよう無線機をずらし取ったと ころで、与えられた任務のひとつは終了した。な んの抑揚もなく、最初から定められていた役目を 果たしただけの身を佇立させた理沙−村瀬香 一曹は、ひざまずいたトウェルブの背中から目を 逸らして、血のついたナイフの刃先を無感情に見 つめた。  トウェルブに付き従って《キメラ》の遂行を補 助するとともに、彼の信頼を得て『BB文書』の 所在をつきとめる。そして謀反が始まった場合に は、『GUSOHの門』に侵入した時点で外事部 の指揮下に入り、トウェルブを無力化して『BB 文書』を奪取するI。《キメラ》の開始に伴い、 東馬に選ばれて市ヶ谷を出帆する直前、古武外事 本部長から直接言い渡された特別任務は、すべて の事象を巨大なシナリオの中に取り込んで、始ま りと終わりをあらかじめ支配していた。  背嚢の中に眠る『BB文書』の重みを確かめ、 結局、任務遂行の機械でしかあり得なかった人形 の自分も確かめた村瀬香は、閉じた蓋の向こうで 絶叫しているもうひとりの自分を無視して、その 母体である大樹の根幹へ、戻る足を踏み出そうと した。  脇腹を押さえた指の隙間から血を縊れさせ、片 膝をついた顔に滲み出た汗を浮かべたトウエルブ は、静かにそれを見送っているようだった。変わ らない温かみをたたえた青が視界の端をよぎり、 自分でもわからずに立ち止まり、振り向いてし まった時には、すべてを知っていたと告げる青い 瞳が視界全部を覆って広がっていた。  もうひとりの自分−理沙という名の少女が一 瞬人形の体に戻り、「どうして……冫・」と口を動 かしていた。脂汗の滲んだ頬を動かし、微笑を浮 かべたトウエルブは、かすれた声でもはっきりと 言った。  「一緒にいたかった。……ウルマではない、理沙 と……」  『GUSOHの門』を構成する円柱の気密空間に 響いたその声は、背後で直立している由梨の頭上 をすり抜けて、暗闇にぽつんと置き去られた人形 の背中に返ってきた。じわりと体が熱くなり、あ ちこちに拡散していたもやもやが集まってひとつ の形に結実すると、それはダックスフントの刺繍 であったり、「理沙っちやん」と呼ぶ優子の声で あったり、イルカのイヤリングのきらめきや、 「したいようにしろ」と言った坂部の声であった りして、とりとめのない、それでいて明暸ななに かを、スポンジが詰まっただけの人形の体に植え つけていった。  一緒に逃げようと言った護の目。どう死ぬかよ り、どう生きるかを考えるべきだと言った平の声。 そして、無償の温もりを宿して向けられていた トウェルブ……東馬の青い瞳。その先には、村瀬 香という見知らぬ存在でも、ウルマという機械人 形でもない、東馬理沙という少女がいた。今ここ で血を流し続ける命に、なにもかも失うことを承 知で必要とされた少女。代替えのきかない、たっ たひとつの存在。その価値の重さに気づいた途端、 それを自分の手で切り裂いてしまった感触が体を 震えさせて、力の抜けた手からナイフが滑り落ち た。  金属の音が短く反響し、「戻りなさい、ウルマ」 と背後からかけられた声に振り向いた理沙は、 たったいま生まれ落ちたばかりの目を大樹からの 使者に向けた。  「なにをしてるの。早く’・」  入れ替わった気配を察したのか、焦りを滲ませ た由梨の声が重なる。理沙には、もうそれが無縁 な他人の声としか聞こえなかった。ウルマと村瀬 香を殺し、理沙になった少女は、その目をまっす ぐに見て答えた。  「……イヤ」  人形の口がはっきりそう動き、言った。東馬を かばうように立った体が、精巧な機械人形ではな く、ひとりの人間−自分と同じ女のものである とわかった瞬間、由梨の中で止め金が外れた。  一瞬に沸騰した感情に押し流されて、由梨はク ロックの銃口をその眉間に向けていた。  「あんたっ……’・ どれだけあたしから盗んだら 気が済むのり」  敵意の壁になったウルマの目は、自分よりずっ と大きく、無力を蔑んでいて、施設でぬいぐるみ の首を引きちぎった連中と同じだった。そこに決 して自分を捨てないと約束した東馬の背中が重な リ、コンテナを飛び出していった護の背中が重 なって、銀杏の落ち葉が舞い散る中を去っていっ た、痩せた父親の背中までが重なってゆく。自分 を捨てて去っていった背中の向こうに、常に存在 していたなにかの権化。手繰り寄せた希望を根元 から断ち切り、あがくさまを見下ろしている人形 の目……。 「そこはあたしがいるところよ’・ 早くどきなさ いっ!・」  出血の止まらない脇腹を押さえ、震える膝をど うにか立てた東馬が一歩前に出る。よろけた体を 支えて、ウルマがその横に並び立つ。許せない光 景たった。自分ではなく、人形を道連れに選んだ 東馬と、一度はその脇腹を刺しながら、ぬけぬけ と隣に立っているウルマ。あたしなら最初から裏 切らなかっだのに。置き去りにしないと約束した くせに。あたしだけを大事にすると言ったくせ に……!。  「……殺してやる。みんな、みんな、殺してや る……!・」  滲んだ視界の中で、立ち入る余地のない二つの 人影がじっとこちらを見ていた。ウルマの額から 東馬の額に銃口を動かし、引き金に力を入れかけ て、もう一度ウルマに照準を当て直す。どちらを 先に撃つかと考え、どちらも変わらない、二人を 引き離すことも、東馬の心を呼び戻すこともでき ないと答えた胸の声を聞き、いちばん殺したいの は惨めな自分だと気づかされて、体のどこかで栓 が抜けた。  突き上げていた血圧がすっと下がり、銃口を支 えきれなくなった腕も下がった。矮小な、それで いて大量の湿気を含んだ体が芯をなくして崩れ落 ちてゆき、由梨はその場に膝をついてしまってい た。  床についた銃口で辛うじて倒れるのを防いだ途 端に、湿った体から搾り取った水滴がぽたぽたと 落ちてゆく。しやくり上げる声がそれに重なり、 息苦しさを吸い込む度に大きくなっていったそれ は、やがて子供のような泣き声に変わっていった。  二十年前に聞くはずだった声、父の背中が施設 の門を曲がって見えなくなった時から、ずっと貯 めてきた嗚咽だった。どこで間違えたのか。なん で自分はここに来る道を選んでしまったのか。古 武の代理人としてウルマを引き戻し、裏切られた 痛みを共有することで、東馬に捨てられた胸を慰 めようとしたからか。そんな自分には最初から東 馬を受け止める資格がなく、父親からも、誰から も愛される価値がないことを確認するためか。だ からこそひとりでも生きてゆける力を手に入れよ うとあがき、他人を傷つけ続けた結果が、己の空 疎を証明しただけに終わったと知るためかI。  もうどうでもよかった。なにも考えたくないし、 なにも見たくない。このまま涙を搾りきって、体 が干からびてしまえばいい。そう思い、思考の窓 を閉じかけた瞬間。長年培ったダイスの知覚が異 常を察知し、由梨はびしょびしょになった顔を上 げた。  同じく気配を察したウルマが、無線を持ってい ない右手でベレツタの銃口を上げる。頭上をすり 抜け、背後に向けられた筒先の行方を追った由梨 は、爆破された集中制御室のガラスと、その向こ うでM一秒フイフルを構える二人の米兵のヘル メットを見、彼らの間で自動拳銃を携えているゴ ブリンが、相変わらず傷んだ饅頭のような顔色を しているのを見た。  なぜの疑問符が生じるより先に、殺意を感知し た体が反応していた。咄嗟に膝を立て、クロック の銃口をそちらに向けた刹那、目の前が真っ白に なった。  一拍置いて轟いた銃声が遠くなる。上下の感覚 がなくなり、由梨の意識はその場から消滅した。  こめかみから血の筋を伸ばして、夏生由梨の体 が床に倒れ込む。トウェルブを利用し、 『GUSOHの門』を白日の下に曝そうとしたダ イスの使者には当然の末路だったが、ゴブリンが それを実感する間はなかった。  すぐに応射された銃弾が、割れた防弾ガラスを 潜ってコンソールに弾け、顔面を血に染めた護衛 役のレコンズ兵が声もなく仰向けになる。ともに 傷を負っていても、トウェルブとウルマの射撃は 変わらず正確だった。残った少尉がすかさずフル オートにしたM‐16の引き金を絞り、二発目から はほとんど照準の効かない強力な徹甲弾の火線が、 左から右に掃射されてゆく。一発ワルザーを撃ち 放った後、ウルマをかばって前に出たトウェルブ の胸に、その弾道はまっすぐ吸い込まれていった。  銃弾の束に胸を砕かれ、感電したように躍った トウェルブの体が、背後のウルマも倒して 『GUSOH』のダクトに釘付けになる。テープ でサイドに貼りつけた弾倉を交換し、少尉は休ま ずに掃射を続けようとしたが、一瞬の間隙を突い て放たれた銃弾が、その作業を途中で終わりにし た。  ウルマの放った一弾だった。額を貫かれ、首が 座らなくなった少尉の体を楯にして様子を窺った ゴブリンは、トウェルブの肩ごしにこちらを向い ていたベレツタが、それを最後に床に滑り落ちる のを目撃した。  掃射された徹甲弾が、トウェルブのボディアー マーを貫通してウルマにも突き刺さったのだろう。 いかなる犠牲を払ってでも『GUSOHの門』を 死守せよと言ったペンタゴンの命令を完遂するた め、その頭部にガバメントの狙いを定めたゴブリ ンは、しかし、ウルマの手から転がり落ちたのが、 ベレツタだけではないことに気づいていなかった。  送信ボタンを押し続けていた指が外れ、無線機 が床にこぼれ落ちる。発信していた電波が途絶え ると、起爆装置は設定通りに作動を開始した。  閃光の後、重い鐘のような震動と轟音が円柱の 空洞に反響する。爆発の炎と黒煙が鋼鉄の巨木を 揺らし、破砕されたパイプやダクトの鉄片が、凶 器となって四方にばら撒かれてゆく。反射的に伏 せ、身をかばったゴブリンが次に聞いたのは、甲 高い蒸気の噴出する音たった。笛の音、いや発狂 した女の叫び声に似た鋭い風の音は、彼が死守を 命じられた『GUSOH』のカプセルから聞こえ てきたものだった。  『GUSOH』の中心、球状のカプセルを抱いた パイプの網の目がぐしゃぐしゃに潰され、傾いた カプセルとパイプの繋ぎ目から、白い蒸気が噴出 していた。内壁の排気スロットが自動的に作動し、 内部のファンを回して猛烈な勢いで吸気を開始す るや、それは渦を巻いて上に吸い出され、天井の 亀裂を白い靄で包んでゆく。巨大な洗濯槽の底に 立ち、絶対死のガスが地上に謚れてゆくさまを目 撃して、ゴブリンにできるのは絶叫だけだった。 噴出する蒸気の音にそれもかき消され、折り重 なって倒れるトウェルブとウルマも忘れたゴブリ ンは、いないと信じてきた神の名を叫んで逃げ出 していった。  遠くで巨大ななにかが倒れたようだった。薄暗 い坑道を重低音の波動が駆け抜け、じわりと湿っ た気配を残してヘリポートの方に消えてゆく。空 気の流れが変わり、思わず立ち止まった平は、す ぐ背後を走っていた護と顔を見合わせていた。  「なにが始まったんだ……冫・」  「わからない。……でもイヤな感じだ」  二つに割れたヘリポートにシーボーグを滑り込 ませ、弾薬庫中心に向かって伸びる地下トンネル をたどり始めてから、一分と少し。それまで地上 と隔絶した静謐をたたえていた坑道は、今は壁や 天井を這うダクトの隙間から蛭でも落ちて来かね ない、生理的嫌悪と恐怖の巣になっていた。這い 上がる悪寒を振り切り、再び走り始めた平の胸の 底で、取り返しのつかないなにかが起こった実感 だけが膨脹した。  辺野古弾薬基地の中心に生じた傷口から、宣]つ 黒な血がじわじわと染み出してゆく。赤外線処理 の衛星画像上に垂らされた、それはとびきり濃度 の高いコールタールのようだった。  『GUSOHの門』から噴き出したガスは、海側 からの微風に押されて内陸側に拡がりつつあり、 三キロ先にある辺野古の町はもちろん、十キロ足 らずの内陸を横断した向こう、それよりはるかに 多くの生活が密集する名護市の街の灯も視野に捉 えて、水面に注がれた墨の一滴を膨脹させていた。 風速はIメートル未満。「バカな……」と呻いた きり絶句した古武に代わって、井島は「この風な ら、急げば間に合う」と呆然自失の空気を破る大 声を出した。  「辺野古……いや名護市全市に避難警報を出せ。 それからあの穴にミサイルでもなんでもぶち込ん で、ガスの流出を止めるんだ」  百万あまりの人間の死を目前に、できるできな いの問題などは吹き飛んでいたが、コンソールに 張りついて監視を続けていた三十がらみの外事部 職員は、「我々には権限がありません」と蒼白な 顔を向けるだけだった。  「安保会議(内閣安全保障会議)の承認を受けてか らでないと……」  「そんな悠長なことを言ってる場合か’・ 市ヶ谷 に繋いで、局長を呼び出せ。わたしが直接話をす る」  返事を待たずにヘッドセットをひったくると、 「無駄ですよ」の声が背後に響いた。蒼白を通り 越して紙のように白くなった古武の顔が、幽鬼さ ながらモニターの反射光に浮かび上がっていた。  「内閣が動き出す頃には、名護市は 『GUSOH』に飲み込まれている。だいたい四 方を海に囲まれて、どこへ逃げればいいというん です。米軍と自衛隊の輸送力をかき集めても、百 万以上の人間を移動させるには……」  「ならここからすぐに(Iプーンを撃ち込んで、 とにかく穴だけでも塞げ’・ 解毒は無理でも、ガ スの勢いを弱められるはずだ」  「無理だ。石灰質の地盤にそんなことをすれば、 かえって穴を拡げてしまう。『GUSOH』その ものは中和剤の投入で無力化できても……発生し たガスの拡散を食い止めるには、戦術核を使うし かない」  棒でも食わされたように、開けた口が塞がらな くなった。日本国内で再び核が使用される可能性 が咀嚼されるより前に、糸で吊った古武の長身が 井島の目前を流れて、倒れそうな体をコンソール についた手で支えた。  「万一の流出事故に備えて、『GUSOHの門』 には自壊機構が設置されている。爆発と同時に真 空状態を作り出し、六千度の高温でガスを分解す るテルミツトープラスを使用した自爆装置……。 だがそれを常備しているのは『GUSOHの門』 だけで、その管理システムはトウェルブが壊して しまった。我々にはもうどうすることもできな い」  完全防備の化学部隊を派遣し、自爆装置を手動 で作動させられたとしても、その間にガスが市街 地に漂い出てしまえばお手上げ。テルミツトープ ラスを搭載した爆撃機を本国から送り出すまでに 必要な時間と、近くの空母から核搭載爆撃機を発 進させ、ガスもろとも『GUSOHの門』を焼き 払うのに必要な時間。どちらが早いかは考えるま でもなく、ペンタゴンではすでに核の使用を前提 とした対策が話し合われていると見るのが自然 だった。  測り知れない政治・経済・環境への影響。どん なでっちあげで周辺住民を避難させ、とりきれな い責任を誰に押しつけるのか。護衛艦の腹の中で なにを叫んでみても、責任逃れと生き残りのパ ニックを加速させているだろう市ケ谷と永田町に、 まともな対応が期待できるはずもないと気づいた 井島は、黒い染みに覆われてゆく鳥瞰映像を悄然 と見据えた。  トウエルブが招来した冥界。すべてを包括して、 もう隠すことのできない恥辱。百年先まで残る、 忘れられない痛み。ヘリポートから『GUSOH の門』に下りて以来、動きのない平と護の顔を思 い出し、犠牲となる命を二つ余分に増やしてし まった罪を噛み締めた井島の前で、もう一度「バ 力な……」と呻いた古武の声が流れて消えた。  「あり得ない。ウルマが……あの人形が裏切るな んて……」  絶対確実と信じた保険が失効した現実を呑み込 み、その顔は十も老け込んでしまったかのよう だった。そうして人の感情を無視し、打算と効率 で強制的に繁栄を呼び込もうとした者が、自ら招 いてしまった忌の時。世界が汚されてゆくさまを 映して、CICの薄闇は通夜の沈鬱に塗り潰され ていった。  十メートル頭上で鳴り続ける風の音は、今は聴 覚に馴染んでほとんど気にならなくなっていた。 背中に当たったパイプの震動が、酸素を貪ってガ スを発生させ続けている『GUSOH』の健在を 伝える一方、自分に体重を預けている東馬の呼吸 は次第に浅く、力のないものになりつつある。肺 からこみ上げてきた血の塊を吐き出した後、ぐ しゃぐしゃになっているはずの肋骨を庇ってなん とか体をよじった理沙は、東馬を横にするために いったんその背中から身を離した。  詰めていた息が肺の穴から漏れ出したのか、上 身が抜けたところで横倒しになってしまった。激 痛が這い上がる一瞬に、空薬莢と鉄片が散乱する 床、血溜りに頭を浸している由梨のうつ伏せの姿 が視界をよぎり、目を上に向けると、そこには 『GUSOH』のカプセルから噴出する白いガス が、幾本もの太い柱になって上部内壁の排気ス ロットに吸い込まれてゆく恐ろしげな光景があっ た。  天井の亀裂は靄に覆われて見えず、ゆっくり降 下してくるガス雲に包まれて即死させられるのが 先か、全身の血が抜けきって死ぬ方が先かと考え、 すぐにそれを打ち消した理沙は、感覚のなくなり かけた手を動かし、這うようにして体の残りを抜 いた。  まだ死ねない。東馬の顔を正面に見なければ、 このまま消えてなくなることはできない。生まれ て初めて感じた、それはもっと生きたいという原 初の衝動だったが、頭を垂れ、パイプに寄りか かっている東馬が石像のように動かないさまを見 れば、気づく余裕は理沙にはなかった。自分でも 信じられないほどの恐怖に駆られ、その顔に触れ ると、不意に動いた東馬の手のひらが理沙の手の ひらに重ねられていった。  ほとんど失血しているにもかかわらず、温かい 手だった。その顔が微かに上を向き、理沙はほっ とするより先に、どんな顔をすればいいのか、償 いきれない罪を犯した自分をかばい、死を目前に した男になにを言うことができるのかと不安に なったが、向けられた青い瞳は、そんな戸惑いを 彼岸に押しやって、いつもと同じ、かけがえのな い一緒の時間を満たしていたやさしさをたたえて、 なにを謝る必要があると言っていた。  冷えきっだ体に残った熾火に風が吹き込まれ、 感じたことのない熱さが頬を伝わって落ちた。手 のひらに重ねられていた指がそれを拭ってくれ、 その時、言うべきたったひとつの言葉が胸に固 まったが、それが口をついて出るより前に、力を 使い果たした理沙は東馬の胸に倒れ込んだ。  血の匂いを消して、東馬の匂いが全身を包む。 お父さん、と開きかけた口をそのままにして、理 沙はその温もりに身を沈み込ませた。  排気装置に吸い上げられた『GUSOH』は、 破砕したパイプから染み出して亀裂の底を満たす と、コップの水が縊れるようにイグルーとヘリの 残骸が散乱する地表へ流れ始めた。  本来は無色透明であるはずのガスは、実験観察 用に不純物で白く着色されていたが、それはこの 場合パニックを誘発する格好の視覚効果になった。 サリンの千倍の殺傷能力を持つVXを、さらに五 十倍強めた致死性神経ガスの幕が、東北東の微風 に押されて拡がってゆく。空気より重いガスはド ライアイスの煙に似ており、戦場にこびりついた 血を舐めながらじりじり近づいてくる死の霧を前 に、置き去りにされた米兵たちは蜘蛛の子を散ら すの表現そのままに撤退を始めていた。  (ンビーやトラックに分乗した脱出の列は、瓦 礫に埋まったゲートの前ですぐに立ち往生してし まい、フェンスをよじ登って徒歩で脱出しようと する者、引き返して司令部ビル地下のシェルター に避難しようとする者が入り乱れて、混乱をます ます拡大させる結果に終わった。辺野古基地には 全員に行き渡るほどの化学防護衣の備蓄はなく、 それは海外での戦闘を想定していない建て前上、 専門部隊を除いて化学戦装備を認められていない 周辺の自衛隊駐屯地も同じだった。史上最大の化 学汚染に対抗する術はこの国にはなく、唯一の救 いはレコンズが携行している神経ガス解毒剤の注 射器だったが、装垠されたアトロピンが 『GUSOH』に無効であることは、彼らの足も と、必死に地上へ通じる道を這い昇っているNS A極東支部の男が、図らずも証明することになっ た。  ズボンの上から自動注射器を当て、太股の静脈 にアトロピンを注入したゴブリンは、トウェルブ や夏生由梨が侵入に使った緊急用脱出トンネルを たどり、地上を目指していた。垂直に掘られた孔 はマンホールに似た細長いチューブで、四十メー トル彼方の地上に出るためには、内壁に据えられ た梯子をひたすら昇るしかない。壁の向こうに魔 女の絶叫のようなガスの噴出音を聞きつつ、底が 抜けた混沌から一刻も早く這い出そうとしたゴブ リンの頭上に白い靄がかかったのは、梯子を三分 の二ほど昇りきった時たった。  脱出口にまで差し掛かったガスが、重力に引か れてトンネルに流れ込んできたのだった。無駄と わかっても息を止め、梯子を昇り続けようとした ゴブリンは、一瞬後には皮膚から浸透した死神に 筋肉と神経を繋ぐ体内物質を破壊されて、自分の 体を制御する能力を失っていた。  全身の筋肉が麻痺し、呼吸能力を失った体が酸 素を求めて灼熱したが、表情筋も動かず、瞳孔の 開ききった顔は奇妙に無表情で、口から縊れ出た 泡以外、その苦痛を想像させるものはなかった。 弛緩した手が梯子から外れ、ゴム人形のごとくぐ にやぐにやになったゴブリンの体が暗い口を開け る地の底に飲み込まれていった。  海兵たちの死体の山を過ぎ、迷路のような回廊 を抜けた先にあったものは、巨大な空調機械の化 け物たった。複雑に絡まり合ったパイプとダクト によって構成されている巨木は、今その幹の中ほ どから白い噴煙を吐き出しており、内壁の排気口 目掛けて太い竜巻の渦を幾本も屹立させている。 ガス、と咄嗟に判じ、無意味とわかっても革手袋 の手で反射的に鼻と口を押さえた平は、爆発の飛 散物が散らばる床に夏生由梨の背中を見、その向 こうで折り重なって倒れている東馬と理沙の姿を 見つけて、絶句した。  世界の終末を告げて荒れ狂う異形の大樹の前、 暗い血の色を帯びた三つの人影は、なにかの宗教 画のように静謐に沈んでいた。「ウルマ……’・」 と詰まった声を吐き、理沙に駆け寄っていった護 の背中を見た平は、詮索と悔恨を後回しにして、 うつ伏せになった由梨の側に腰を落とした。  頭を血の池に浸しているさまに、ダメかと絶望 が走りかけたが、手袋を外して頸動脈に当てた人 差し指と中指に、まだ生のリズムを刻み続けてい る由梨の鼓動がしっかりと伝わってきた。こめか みをかすった銃弾に、脳振盪を起こしただけらし い。それほど深くはないこめかみの傷にガーゼを 当て、鼻水と涎を流しきった横顔を見下ろすと、 さんざん振り回された恨みも、生硬な態度に感じ ていた反感も霧散して、辛かったんだな……とい う感慨ひとつが平の中に残された。十分に流した 血から由梨を抱き起こし、仰向けに寝かせた平は、 すべての中心だった男のもとに身を寄せた。  胸に顔を埋めて眠っている理沙を抱き起こし、 少し離れた場所で介抱を始めた護の姿を横目にし ながら、平はパイプにもたれていた東馬の体を そっと横たえ、脈を取った。今にも途切れそうな 脈から指を離し、血を吸った戦闘服のボタンを外 そうとした手が止まってしまっだのは、徹甲弾に 引き裂かれたボディアーマーの下に、血溜りを 破ってつき出している白い胸骨を見たからだった。  目を閉じ、平は開きかけた胸元を再びかき合わ せた。救命胴衣備え付けの救急キットでは手の施 しようがなかったし、それは世界中のどんな病院 でも同じことだろう。なにもできなかった手を ぎゅっと握り、ひどく安らかな男の寝顔から目を 逸らした途端、「平……」という微かな囁きが頭 上を吹き抜ける風の音に混ざった。  青い瞳がうっすら開いた瞼から覗き、「やはり、 来たな」と笑っていた。穏やかな微笑に胸が詰ま り、咄嗟に「話さない方がいい」と応えた平は、 「……傷は、急所を外れてるから」と口をついて 出た下手な嘘に、消えてなくなりたい気分を味 わった。東馬はそれを気にするふうもなく、世の 汚濁をすべて洗い流し、透徹した瞳をこちらに向 けているようだった。  「……理沙は?」  「無事だ。護が手当てしてる。……いいか、すぐ ここを連れ出すから……」  「……いいんだ。もう」  わずかな温かみを残した手のひらが宙を探り、 それを握った平の目前で、「もういいんだ」とく り返した東馬の瞳が中空を仰いでいった。  「もう父に会う必要もなくなった。わたしが父親 になれたのだから……」   その言葉に、数十年の悲痛と憤怒、孤独の癒し を得たのか、東馬の顔はそこでまたひとつ、芥を 落として仏の顔に近づいたようだった。失われた 自己の魂を捜し求めた末にたどり着いた、それが 結論なのかと考えかけた平は、「夏生……由梨 は?」とこちらに目を戻した東馬の顔が、間近に 迫った死の督促を受けて小さく歪められるのを見 た。  「生きてるよ。……頼むから、もう喋るな」  「……彼女を頼む。あれは、支えがなければ生き られない女だ」  ひと言ひと言が絞り出す苦しみの中で綴られた、 それは真実のいたわりの声たった。握った手に力 を込めて、平は「わかった。でもあんたも一緒だ。 みんなそろって生き残るんだ」と青い瞳を覗き込 んだ。  「その場にある者としての責任を取れって、そう 言ったろう? あんたには、あんたにしか語れな い言葉がたくさんあるはずだ。それをみんなに伝 えるまで死ぬな。おれも一緒に手伝うか ら……!・」  ぼたぼたと落ちた雫が、東馬の頬にこびりつい た血と煤を洗い流すと、その顔には安寧だけが残 された。微笑にかたどられた唇か「……ありがと う」と呟き、応える言葉を持たずに、閉じた瞼が 青い瞳を永遠に隠した。  その声は、この場に集まったすべての命を包み 込み、滞留する死のガス雲をつき抜けて、はるか な天に昇っていった。次第に温もりの消えていっ た手を離し、涙の栓が外れた顔をうつむけた平は、 そっと肩に置かれた手に、伏せた顔を少しだけ動 かした。  「急ごう。ガスがヘリポートを包む前に」  一歩退いたやさしさの中にも、有無を言わせぬ 強さを込めて護が言っていた。これ以上誰も死な せないという思いを確かめ合い、涙と鼻水を拭っ た平は、東馬に最後の別れを告げて立ち上がった。  腹部に包帯を巻かれた理沙は、ぼんやりと意識 を取り戻しつつあった。護の両手に軽々と抱えら れ、なにか話している横顔にほっとしつつ、こち らは当分目覚めそうもない由梨をどうにか背負っ て、平は脱出の道をたどり始めた。  管理室の割れたガラスを踏み越える時、最後に もういちど理沙と東馬を会わせてやるべきかと考 えたが、気密室の天井を覆うガス雲が先刻より ずっと下に降りてきている様子を見れば、その余 裕もなくなった。地下トンネルに続く回廊を小走 りに移動しながら、平は「どうすりや止められる んだ?」と後ろを走る護に呼びかけた。  トウェルブが最後に用意した切り札。このガス がどんな性質のものであれ、「忘れ得ぬ痛み」そ のものになるはずの兵器が、簡単に分解したり除 染できたりする代物であるはずもない。「このま まじゃ脱出したって……」と続けた平を遮って、 息切れを知らない護の声が答えていた。  「管理システムが復旧すれば、自爆装置が作動す るそうだ。大丈夫さ」  回廊が途切れ、開放している隔壁の向こうにヘ リポートに続く坑道が見えてきた。理沙に聞いた のか、ひどく簡単に言った護に「でも、イカれち まってんだろ……」と振り向きかけた刹那、勢い よく降下してきたシャッターが平の視界を遮った。  よろけた体を立て直し、ずり落ちそうになった 由梨を背負い直した平は、蛇腹式シャッターの格 子ごしに、護と理沙の顔を見ることになった。  壁の緊急閉鎖ボタンを押し、ここに残る意思を 示した護の目は、いつもと同じ、こうと決めたら テコでも動かない底堅さを宿して、じっとこちら を見つめていた。「先に行ってくれ。ウルマが復 旧の方法を知ってる」と言った護に、思わず シヤッターに体当たりした平は、「バカ言えっ’・ おれも手伝うから、これを開けろ’・」と声を張り 上げた。  「二人で充分だ。気をきかせろよ」  ブザーが鳴り、シャッター収納口脇の赤色灯が 点滅を始めると同時に、重い響きを立てて左右の 隔壁が閉まり始める。ランプの赤を映した顔に、 初めて見せる心からの微笑が刻まれ、その下で顔 を上げた理沙の目も、精一杯の謝意を込めてこち らを見つめ返していた。  こんなバカなことがあるものか。びくともしな いシャッターを空いている右手でわしづかみにし、 再び縊れてきた涙を拭うこともできずに顔を伏せ た平は、「バカ野郎……。こんな時になに言って んだ」と呟いた声を湿らせていった。  「みんなで、みんなで生きのびるんだって、約束 したじやねえか……!・」  五十センチの厚みを持つ隔壁が、ゆっくり左右 から近づいてくる。またひとり取り残される辛さ と痛みに立ちすくみ、握った格子を離せないでい る平の手に、ふと別の体温が重ねられた。  なんとか床に足を着いた理沙を片手で支え、左 の手のひらで平の拳を包むようにした護が、「約 束は守る。絶対に」とまっすぐな目を向けていた。 熱い手のひらに指を絡め、格子ごしに互いの手を ぎゅっと握り合わせた一瞬の後、突き放すように して一歩下がった護の顔が、閉じてゆく隔壁の隙 間に小さくなっていった。  礼を言う間も、なんに対して礼を言うのか考え る間もなく、この数日で誰よりも身近になった顔 が消えてゆく。隔壁が閉まりきる直前、それを返 すためにここに来た、結局もらいっぱなしになっ てしまった言葉が腹の底から湧き上かって来て、 平は衝動のままに叫んでいた。  「死ぬなっ’・ 生きろ……’・」  隔壁が完全に閉じ、ロックボルトが作動する金 属音を無遠慮に響き渡らせると、その声の余韻は 霧散した。震動が傷口に響き、膝を崩してしまっ た体をひょいと抱き上げ、集中管理室に戻る道を 歩き始めた護に、理沙は「いいの……冫・」と尋ね ていた。  「いいさ。そのために来たんだ」  少しの迷いもない声がすぐに応えて、理沙はま た少し言葉を搜す沈黙の中を漂った。東馬に託さ れた最後の任務を果たさなければならないと言っ た時、その体じゃ無理だと応じ、あきらめろとは 言わずに、一緒に手伝うと言ってくれた護。ダイ スにいた時にはほとんど意識したこともない、た だ同期のひとりでしかなかった存在が、自分のだ めにすべてを投げ出し、そうして命までくれよう としている不思議は、その腕に抱かれている心地 好さにぼんやりとしてきて、理沙は護の胸に頬を 埋めるようにしていた。その温もり、微かな体臭 は、自分が知っていた頃の護とは違う。東馬と同 じ、強さとやさしさを宿し始めた男のものだと感 じながら。  「……あたし、あなたになにもしてあげられな かった」  「そんなことない。ウルマ……理沙がいてくれた だけで、おれにはよかったよ」  なんのてらいもなく、護はそう言ってくれた。 理沙は、地の底の大樹ではない、もっと別の帰れ る場所が自分にはあるらしいと想像したが、それ が明確な像を結ぶより前に、再び集中管理室の扉 を潜ることになった。  割れたガラスの向こうで、排気しきれない白い 靄の蓋が床から十メートルほどのところにまで近 づき、『GUSOH』のカプセルから噴き出すガ スの勢いにかき回されて、ゆっくりたゆたってい た。二人のレコンズ兵が伏した床に足を下ろし、 護の手を借りてコンソール前の椅子に座った理沙 は、東馬が最後の息で語った手順に従い、ダウン 表示のまま沈黙している管理システムの端末を目 前にした。  アポトーシスHが壊滅させた基地のシステムと は異なり、坂部のブレイクープログラムによって 神経を麻痺させられているだけの『GUSOHの 門』管理システムは、麻酔から覚ましてやれば再 び活動を開始する。ガスの拡散が自爆半径を越え てしまえば、ペンタゴンは世界規模の混乱の引き 金となる核攻撃を決断するかもしれないから、時 間の余裕はなかった。護に他の端末の立ち上げを 任せて、キーボードに「覚醒」のコマンドを打ち 込み始めた理沙は、護にはすべてを知っておいて もらいたい衝動に任せて、「……あの人には、最 初から『GUSOH』を開放するつもりはなかっ たんだと思う」と慣れない述懐の口を開いた。  「あたしに復旧のキーワードを託して、ガスの放 出を止めるように言ったんだもの。それが最後の 任務だって」  ディスプレイの向こう、鉄の大樹の根元で長身 を横たえている東馬の顔は、その胸に抱かれて復 旧の手順を聞いた時と同じ、どこまでもやさしく、 穏やかな安寧をたたえて眠っていた。子供の頃の 彼が、遠い国にいる父親に重ねた希望−キリス トの許しを得たかのように……。  「最後まで生き残る努力をしろって……。本当の お父さんみたいだった」  「あのオッサン……平のオッサンも、どんなに辛 くても生きろなんて説教しやがった。よくわかん ないけど、親父ってああいうもんかもな」  ほかの端末の立ち上げを終え、近づいた護の気 配が言っていた。振り向こうとして椅子からずり 落ちてしまい、支えられて再びキーボードを打ち 始めた理沙は、その温もりにいたたまれない痛み が混じるのを感じた。  「……でも、あたし、あの人を殺そうとした。他 にもたくさんの人を殺してしまった……」  床に伏した二つの遺体が発する血の匂いは、今 では胸の底を突く痛みになって体を包んでいる。 「おれもそうさ」と言った護は、そこから引き揚 げようとするかのように、理沙の肩を抱く手に力 を込めた。  「簡単に償えることじやないけど……それを忘れ ないためにも、生きて、生かさなきやならないん だと思う。おれたちの生まれた、この世界を」  自分自身に言い聞かせる声で、護は言った。コ マンドを打ち終え、ホストの受領を待つだけに なった画面から目を外して、その顔を見つめた理 沙は、「あたしたちも、その中にいていいの?」 と聞いてみた。  「いいに決まってる。おれたちが創ってゆく世界 なんだから」  見つめ返し、微笑した護がそう言い、そうなの だろうか……と納得しかけた理沙は、今度こそ明 確になった「帰れる場所」の形を探ろうとしたが、 それよりも「覚醒」のコマンドを受領したメイン ホストが、パスワード要求の入力待ち画面を表示 する方が先たった。  管理システムの催眠を解き、すべての悪夢にピ リオドを打つ呪文。「パスワードは?」と聞いた 護に、理沙は東馬が言った通りの言葉を口にした。  「『12』の先にある未来。あたしたちが生きてゆ く世界……」  きよとんとした顔を見せた後、すぐに理解した らしい護は、もう感覚が消えかけている理沙の手 をとって、キーボードまで導いてくれた。重ねた 指が二つの数字を押して、最後の任務は終わった。  パスワード欄に『21』が入力され、受領の文字 が表示された。管理システムは再起動し、同時に 作動した自壊システムが、『GUSOHの門』を 根底から震わせ始めた。  『GUSOH』貯蔵設備の根元から頂点までを電 流が駆け抜け、要所に設置された爆発ボルトを起 爆させると、それはスパークのモールと爆光のラ ンプで飾られた、巨大なクリスマスツリーになっ た。複雑に組み合わさったパイプとダクトの繋ぎ 目が弾け、巨木の中を循環していた化学剤や蒸気 があちこちから噴き出して、滞留していたガス雲 を吹き散らしてゆく。壮麗なクリスマスツリーは、 すぐに落雷に焦がされた陰惨な大樹に変わり、内 壁に伸びていたパイプの枝が折れ、表面を覆って いたダクトの蔦ががらがらと崩れ出して、二十 メートルの樹高を誇った『GUSOH』貯蔵設備 は中心から腐り出し、瓦解していった。  降りそそぐパイプと鉄骨が、ガスを噴出しなが ら落下した『GUSOH』のカプセルを埋め、そ の足もとで眠りについた男の姿もかき消してゆく。 作動した自壊システムの、それは最初のプロセス に過ぎなかった。貯蔵設備の分解が始まり、三百 メートル離れた地下ヘリポートの床下に設置され た二基の大型タンクの底が抜けると、それぞれ貯 蔵していた十万ガロンの液体が怒濤の声を上げて 放出されていった。  ひとつは酸化鉄とアルミニウム粉末を主成分と する通常のテルミット焼夷薬。もうひとつはその 燃焼を倍加させる特殊溶液で、両者はひとつに なって初めてその威力を発揮する二液混合爆薬 −テルミットープラスと呼ばれる新型焼夷薬の 原液なのだった。三千度で燃焼するテルミット焼 夷薬は、その溶液と混じり合い、爆発的な化学反 応を起こすことによって、瞬間六千度の炎熱地獄 を現出する。放射能抜きの核爆弾と言って間違い ない爆薬の原液は、トンネルの左右側壁を走る太 いパイプの道を通って、『GUSOHの門』へと なだれ込んだ。  偵察衛星の目も、それを捉えていた。ガス噴出 の火山口になっていた亀裂の底にスパークの光が 弾け、溶岩のように縊れ出す黒い染みの勢いが弱 まると、ヘリポートから『GUSOHの門』に向 かって一直線に伸びていった二本の線が、地熱の 変化も映し出す赤外線映像に赤い軌跡を記してゆ  テルミツトープラスを構成する、二原液の放出 だった。「システム、再起動’・ 『GUSOHの 門』自壊システムが作動しています」と叫んだオ ペレーターの声が沈鬱を破り、呆然自失の沼から どうにか頭だけ出した井島は、「本部に連絡、急 げっ’・」とCIC中に響き渡る声を吐き出してい た。  「向こうでもキャッチしているだろうが、横田 (在日米軍司令部)との連絡を密にして、早まった 真似をさせないよう督促しておけ」  どうしていいかわからない時に指示を出されれ ば、それに従うことで自分を維持しようとするの は、軍人に隕らず人の常だった。早速ばたばたと 動き始めたオペレーターたちの背中を見、本来、 彼らを指揮すべきはずの古武が生気の抜けきった 顔をモニターに向けているのを見た井島は、そこ から目を逸らして、辺野古に咲いた微かな光の瞬 きを見つめた。  最後の土壇場で発芽した希望の種が、浄化の意 思を秘めてその光を強めていった。  副操縦席に座らせた由梨にハーネスをかけ、イ グニッションースイッチを入れた途端、下から突 き上げる震動がヘリを揺らし始めた。床下を巨大 な蛇が這っているように、ごうごうと唸りを立て て駆け抜ける震動に、三十メートル上の脱出口か ら砂埃や細かな落下物が降り始める。回転して間 もないローターブレードが、それを受けてガリガ リと耳障りな音を立て、平は(Iネスをかける間 もなくスロットルを開いた。  エンジンの回転数が上がる。クラッチライトが エングージを伝えると同時にコレクティブを引き 上げたが、ローターは相変わらずアイドルのまま、 一向に回転速度が上がらない。ローターにピッ チーコントロールを伝えるスワッシュプレートが、 震動のために噛み合わないのだ。突き上げる激震 は収まる気配もなく、いったんスロツトルを絞ろ うとした平は、回転するブレードごしに三メート ルはある鉄骨が今にも落ちそうになっているのを 目に捉えて、全身の血が退くのを感じた。  あれが回転するローターを直撃したら、ブレー ドがへし折れるどころか、潰されたエンジンが誘 爆を起こしかねない。咄嗟に機から離れるかと考 えたが、震動が坑道の側壁に亀裂を生じさせ、落 磐した天井に押しひしげられたパイプが蒸気を噴 き出していれば、それもできることではなかった。  ずるっと動いた鉄骨がぱらぱらと身に帯びた埃 を落とし、エの字の断面をこちらに向ける。無駄 とわかってもコレクテイブーレバーを動かし、飛 んでくれ、飛んでくれと口中に呟き続けた無我夢 中の後、支えを失った鉄骨がいよいよ落下してく る気配を感じ取った平は、意識を失った由梨に思 わず覆い被さった。  瞬間、突き上げていた震動がぴたりとやんだ。 きつく閉じていた目を開け、鉄骨が危うい均衡を 保ってぶらぶら揺れているのを見た時には、ヘリ パイの神経が離陸の操作を行っていた。  エンジンの回転を受け取ったローターが力強く ブレードを回し、シーボーグの機体をふわりと上 昇させる。その時、機体下面を持ち上げて一陣の 風が吹き渡ったように感じたのは、錯覚ではな かった。坑道を吹き抜けた爆風が対気効果を上げ てくれただけかもしれなかったが、平の目には、 大きな気流の手を広げて地の底から掬い上げてく れた東馬の顔が、キャノピーの向こうにはっきり と見えていた。  ぽっかり開いた脱出口を抜けると、月と星の不 変の明りが周囲を包むすべてのものになった。宙 吊りになっていた鉄骨のバランスが崩れ、数秒前 の自分たちを押し潰して落下する気配が足もとに 伝わったが、もう恐怖はなかった。焦る必要はな いと伝える青い瞳を追って、遮るもののない空を どこまでも昇ってゆけば、それでいい。そう、な にも焦る必要はないんだ。いつだって、どこから だってやり直すことができる。はるかな高みに在 る東馬に呟き、手の代わりにピッチレバーを握り 返した平は、残り少ない燃料の機体を飛ばせると ころまで飛ばそうと決めていた。  いい腕だ、曹長。そう言った東馬の声が、聞こ えたような気がした。  径五十センチのパイプから噴き出した二本の水 柱は、浴槽を満たすように気密空間の内壁を洗い、 『GUSOH』の残骸が堆積する床に水溜りを作 り始めていた。最大にセットされた自爆半径に 従って、貯蔵量のすべてが放出された原液の海。 混じり合う比率が一定の割合に達した時、六千度 の火球と化して荒れ狂うテルミツトープラスの溶 液は、今は薄いピンクの水面をたたえて、腐り果 てた鋼鉄の巨木の周囲で水飛沫を立てている。爆 破でひしやげてしまった窓枠のために、一枚だけ 隔壁が下りきらない集中管理室のガラス面を見上 げて、背嚢を胸に抱えた理沙は「保だないわね、 ここ」と率直な口を開いた。  集中管理室の裏側、さらに地下を潜ったところ にある避難用シェルターは、隔壁全部が作動する ことを前提として造られている。わずかな隙間で あっても、入り込んだ六千度の熱線はすべてを炎 に包み、続く爆風でシェルターごと『GUSOH の門』を吹き飛ばすと見て間違いなかった。しっ かり肩を抱いて「ああ」と答えた護は、次の瞬間 には理沙の体を両手に抱え、剌激臭を放つ焼夷薬 の海に背を向けていた。  「でも、親父との約束がある。今度はおれにつき あってくれ」  そう言い、微笑んだ顔に頷いて、理沙はすべて を護に任せるつもりになった。シェルターに下り る道すがら、漠然と揺らめいている「帰れる場 所」のことを考えようかと思ったが、東馬や平と の約束を果たし、もういちど太陽を見る時まで 取っておいた方がいいような気がして、今はやめ にしておいた。  背嚢を胸に抱き、目を閉じた理沙は少しのあい だ眠ることにした。  二分後。所定の混合濃度に達したテルミットー プラスは、起爆の閃光と同時に人工の太陽を辺野 古畸に現出した。  爆発した瞬間、周囲の酸素を吸い尽くして真空 状態を作り出したテルミットープラスは、次の一 瞬には超高温・超高圧の火球に姿を変え、一秒の 何分のIかの時間、『GUSOH』を収めた円柱 状の気密空間は巨大な溶鉱炉と化した。 『GUSOH』はカプセルの中で瞬時に気化して 分解され、輻射された熱線は内壁を溶かし、隔壁 の表層も溶かして、隔壁の閉鎖しきらない集中管 理室から施設全体に入り込み、そこにあるすべて のものを六千度の高熱で炎上させていった。続い て秒速二十メートルの爆風波がそれらを粉々に打 ち砕くと、反射爆風波と相乗した衝撃波は天井に 向かって突き進み、亀裂の生じた気密空間の天井 を薄紙のように破って、地上に紅蓮の光球を膨脹 させた。  石灰質の大地が割れた皿のごとく瓦解し、衝撃 波が崩した土砂を一万メートルの高空に吹き上げ てゆく。直径三百メートルに及ぶ半球状の灼熱を 地上に出現させた火球は、地上を這っていたガス をたちどころに飲み込み、分解し、そこここに転 がる(ンビーやアパッチの残骸を蹴散らして、イ グルーの小山をも粉砕した。  司令部ビルの壁には亀裂が走り、ガラスはすべ て粉微塵になって、フェンスはもちろん、ゲート 前に乗り捨てられたジープやトラックも玩具のよ うに横倒しになっていったが、キヤンプーシュワ ブに退避していた米兵たちがその惨禍に巻き込ま れることはなかった。恐ろしく巨大な線香花火の 火種はすぐに輝きを失い、後には巨大なキノコ雲 と、直径五百メートルのすり鉢になった弾薬庫区 画だけが残された。  平にはそれを見る機会はなかった。海上に出た 直後、強烈な閃光が背後に発し、右側に一つだけ 残ったバックミラーに、膨れ上がる炎の塊を見だ のが最後の記憶だった。  一拍置いて届いた衝撃波がシーボーグの機体を 蹴飛ばし、計器盤が一斉に不調の色を灯すと同時 に、炎の色をうっすら宿した海面が視界全部を覆 う。爆発した水泡の渦がキャノピーに弾け、投げ 出された意識が深い暗闇の中に吸い取られた。  モニターの中央に発した閃光が、辺野古の地に へばりついていたコールタールの染みを一瞬に蒸 発させ、強すぎる光と熱が偵察衛星の目も潰した。 赤外線映像がブラックアウトし、代わりに衛星軌 道上から見下ろす通常画面を映し出すようになっ たモニターを前に、井島はもちろん、CICに居 合わせた誰もが唖然の面持ちを隠そうとしなかっ た。  糸屑のような雲の筋を漂わせた大気の底で、小 さな光の瞬きが消滅してゆく。沖縄本島の一角で 生まれ、消えていった灯は、そこにあった汚濁を すべて浄化して、暗い夜のただ中にある世界を一 瞬だけ照らしたようだった。永遠に輝くものでは なくても、そこにあれば目指して歩いてゆくこと ができる、希望という名の小さな灯を……。  「……トウエルブという人柱がなければ、我々は 十三歳になることさえできなかったんだ」  そんな言葉で沈黙を破ったのは、打ちのめされ た体をどうにか取り繕った古武たった。すべては この国の未来のため、謝罪するつもりはないとで も言いたげな目が井島を見た後、古武は外事本部 長の声を出し直した。  「本部に連絡。マスコミ対策班を設けて、一時間 以内に偽情報の草案を提出させろ。永田町には伝 を通じてこちらから手を打つ。本部は総力を上げ て辺野古周辺の状況把握を……」 「もうよそう。安里さん」  矢継ぎ早に隠蔽の指示を飛ばし始めた計算機械 の声を遮って、井島は言った。瞬時に凍りつき、 ゆっくりこちらを振り向いた古武の顔が、亡霊を 見たように血の気を失っていた。  沖縄・宜野座村で生まれ育った彼が、名門古武 家に婿入りする時に捨てた名前たった。東馬と同 じく、アメリカの父と囗本の母の間に生まれ、母 親と二人、取り残された基地の島で辛酸を舐める 少年時代を過ごした男の、真実を語る名前。ただ ひとつ違うのは、東馬の両親は愛しあった結果と して子を残したが、彼の両親は行きずりのIあ るいは父親の一方的な欲望発散の結果として、子 を残したということだ。  属米の呪縛を断ち切り、根無し草になってし まった囗本に国家としての顔を取り戻させるとい う目的は同じでも、ひとりは純粋な自己探求に、 ひとりは破滅的な憎悪に駆られて、相容れぬ血に よって自らを滅ぼす《キメラ》という魔物を世に 放った東馬と古武。先刻、東馬から送られてきた ファックスには、救いようのないそれらの経緯が 詳細に記されていた。『GUSOH』の門前で、 ウルマによって命を絶たれるだろう己の末路を、 あらかじめ知っていたかのように……。  「……ウルマばかりか、トウェルブにまで裏切ら れていたとはな……」  その経緯を察して、青白くなった古武の顔が自 嘲の呟きを漏らしていた。井島は「裏切ったん じやない。彼は救おうとしたんだ」と思った通り のことを口にした。  「我々が、これ以上の過ちを重ねないよう に……」  「救う? 子供じみた願いと、百万の命とを天秤 にかけた男が、我々を救おうとしただと?」  冷徹な外事本部長の仮面を捨て去り、一個の愚 直な男に戻った古武の目が直にこちらを射た。井 島は黙ってその目を見返した。  「豊かだったことなど一度もない。半世紀の間、 この国はずっとレイプされ続けてきたんだ。世界 の警察を騙って恥じない傲慢なエセ紳士ども に……’・ 彼らの正体を暴き、この国に真の解放 をもたらそうとしたことを過ちと言うなら、我々 はこの先いったいなにをI」  「それは、怨念で濁ったあんたの目に映った世界 だ。ひとりの人間の頭の中で終始するほど、この 世界はちっぽけなものじゃない」  遮った声に、続ける言葉をなくした古武の顔が ゆっくり伏せられていった。個人のものでしかな い怨恨を大義に置き換え、それを果たせば空虚な 己も満たされると信じた男の横顔だった。その過 程で多くの人の温もりを得た東馬とは対照的に、 いっさいの情を排斥してこなければならなかった 古武の哀しい横顔を見て、井島は静かに言葉を次 いだ。  「市ヶ谷が、その血に流れる怨念を見過ごしてい たとはな……。義父殿に記録の抹消を頼んだか」  そのあたりの事情はファックスには記されてお らず、これはとてつもなく大がかりなドブさらい になるなと予感した井島は、嘆息と一緒に古武の 無表情から目を逸らした。  巨大閨閥が出自の明るくない男を内部に取り込 んだのは、彼の優秀な頭脳を愛したからか、その 怨念がいつかは一族に富をもたらすことを予見し たからか。真相は、政財界の深部から市ヶ谷にま で浸透している地下水脈をさらってみなければわ からず、すべてが明らかになる前に、自ら命を絶 つことになる古武の将来も予感した井島は、入室 してきた二人の警衛に無言で拘束を促した。  沖縄フリーゾーンを実現するためと言いながら、 東馬の思いを利用して『GUSOH』を白日のも とに晒し、生まれた島からひとり残らず米軍を叩 き出そうとした古武の真意は、すでに市ヶ谷も知 悉している。古武家との関係清算を決意したダイ スと、《あさぎり》の指揮権限を剥奪された自分 の状況を瞬時に理解したらしい古武は、二人の警 衛に両手を取られながらも、「わたしを抹殺する のはいい」と最後の気を吐き出していた。  「だが古武家の後押しがなければ、局の公的機関 化はないぞ。沖縄フリーゾーンが、融解間近の日 本経済を救う唯一の鍵たった現実も変わらない。 アメリカともどもスキャンダルまみれになったこ の国の未来を、安易なヒューマニズムで潰したい のなら好きにするがいい」  「犠牲の上に立った未来が、人を腐らせ、辛くさ せるだけのものだということを、我々はこの半世 紀で学んだ。あんたの言う未来は、犬にでも食わ してやるさ」  言った後で、自分もまた廃棄されるべき旧時代 の遺物であることを実感した井島に気づいたのか、 やや上がった古武の顎が「……後悔するぞ」と 言っていた。「かもしれん」と応じて、井島は夜 の面を向ける青い惑星の姿をモニターに仰ぎ見た。  「しかしな、明日死ぬかもしれない体で、十年先 の未来に想いを巡らせることができるのが人間だ。 そのたくましさがあれば、希望はいつだって見出 すことができる。人が生き続けてゆく限り……」  何十億かの人を載せて自転する石ころは、今日 を捨てて明日の領域に差しかかろうとしていると ころだった。その一角で、彼らはきっと生きてい る。これから始まる苦難を生き抜いて、その先に ある新世紀に希望を灯してくれる。いまだ暗い大 気の底に沈む島に目を凝らして、祈りだけが井島 の胸を満たした。 跋  活火山の頂を歩いているようだった。斜面のそ こここから立ち昇った白い煙が、微風を受けて ゆったりと内陸側に漂ってゆく。目に入るものと いえば、靄のカーテンごしにぼんやりと浮かび上 がる大小の岩くれだけで、後ろにあるはずの海も、 難破船よろしく岩場に乗り上げているヘリの残骸 も、白い幕に覆われてとうに見えなくなっていた。  方向感覚などつかみようもなかったが、水平線 から顔を出したばかりの太陽を背に受け、自分の 影を踏んでとにかく歩き続ければ、いずれは爆心 地にたどり着くはずだ。うっすら意識を取り戻し かけた由梨を背負い、衝撃波に崩されて緩やかな 斜面に変貌した断崖を歩き続けた平は、ほどなく 巨大なすり鉢と化した辺野古弾薬庫を目前にした。  そこから下りに転じる斜面の向こうは、巨人が 乱暴に掘り返した墓穴か、噴火直後の火口そのも のだった。ひときわ濃厚に立ち込めた靄がすべて を覆い隠し、抉られた地面以外にはなにもない虚 無と静寂を、底の見えない鉢いっぱいにたたえて いる。湿気と、微かな酸味を帯びた剌激臭が強み を増したようだったが、白濁の底に見え隠れする 人工物の影を見つけた平は、構わずに足を踏み出 していった。  なにがどうなったのか、気がついたら岩場に乗 り上げたヘリの中で昇りかけの朝陽を浴びていた 平が、最初に考えたことはひとつしかなかった。 護と理沙の安否。あれだけの大爆発の中心にいれ ば、骨まで焼き尽くされて塵になるのが当然だろ うが、あの二人ならきっと生きていてくれる。だ めならだめで、欠片でもいいからその痕跡を確か めずにいられないという思いが、今の平を歩かせ 続けていた。  死のガスが渦巻いていたと思えば、たかが煙ぐ らいどうということはない。熱に溶かされ、再び 固まった岩石を踏み分けつつ、気を抜けば滑り落 ちそうな斜面を歩き続けた平は、やがて地下施設 の名残りらしい、溶け落ちた鉄とコンクリの瑰が 支配するすり鉢の底にたどり着いた。  白絵の具に薄墨を垂らしたように、ぼんやりし ていた人工物の形が明瞭になってくる。辛うじて 溶解は免れたものの、爆風に押しひしげられてぺ しやんこになっている集中管理室の残滓だった。 背後には奇怪な巨木の体をなしていたガスプラン トの残骸があり、溶け落ちた鉄の台座に埋もれて、 割れた球体がそれだけ原形を留めて鎮座している のが異様だった。予想以上の惨状に、生きている わけがないと囁く弱気を無視して、平はひしやげ た隔壁を乗り越えて瓦礫の中に分け入った。  背中の由梨が落ちないように背負い直すと、そ れまで意味不明の声をときどき漏らしていた口が、 初めて言葉を紡ぎ出した。何度か聞き直し、耳を そばだててどうにか聞き取れた言葉は、「死なせ て……」という呻きだった。  しばらく声をなくした後、平は「そうはいか ん」と声を返した。  「東馬との約束がある。あんたにはなにがあって も生きてもらう」  返事はなかった。首から垂れ下がっていた両手 が代わりに動き、航空服の胸元をつかもうとした ようだったが、果たせずにだらりと下がっていっ た。重くなった体をもういちど背負い直して、平 は奥へと進んだ。  隔壁の隙間から入り込んだ熱線は、管理室とそ の先にある回廊を万遍なく焼き尽くし、プラス チックの類いは溶解を通り越して霧散していた。 溶けた鉄の塊がぽつぽつと散らばる空間は、手の 先も見えない闇だったが、管理室の戸口脇に残っ た火が、焚き火の役目を果たして焦げた壁を浮か び上がらせていた。  その裏手に、さらに地下へ通じる入口が畳半分 ほどの穴を床に開けていた。開いた(ツチの裏側 が焦げていないことに気づいた平は、一気に上 がった脈拍とともに階段を下っていった。  航空服備え付けの懐中電灯を点け、二十畳ほど の密閉空間を確保したシェルターを照らす。割れ た電灯の破片や天井パネルが散乱する部屋に、し かし二人の姿はなかった。部屋の片隅に理沙の背 負っていた背嚢だけが置き去られており、そちら に近づこうとすると、「血……」と囁いた由梨の 声が耳元に響いた。  視線を追った先の床に、点々と続く血痕があっ た。背嚢から始まり、階段にまで続く血の筋に二 人の生存を確信し、もう立てるという由梨をシェ ルターに残して、ひと息に階段を駆け上った。来 た時には気づかなかった血の道は、管理室を抜け て靄ごしの陽光が差し込む外にまで続いており、 平はひしやげた隔壁からつんのめるようにして外 に飛び出した。  内陸側に向かう斜面を上りかけたところで、血 の跡は途絶えていた。周囲を見回しても瓦礫と靄 ばかりで、護’・ 理沙’・ と何度も呼びかけ、す り鉢にこだまする自分の声だけを聞いた平は、所 在のない顔をしばらく巡らせた後、最後に残った 血の跡を溶けたコンクリの上に見つめた。  搜さない方がいい。喜びと不安がごた混ぜにな り、なにも考えられなくなった頭に、そんな思い がぽつんと浮き上がった。前代未聞の不祥事に上 を下への騒ぎになっているだろう娑婆に戻っても、 二人にまともな未来が用意されているはずもない。 ここでそれまでの自分を消し、なんの束縛もない 当たり前の少年と少女に戻れるなら、その方がい い。そうして互いの感情を育み、得られなかった 家庭を自分たちの手で作ってゆくことができるな ら、その方がずっといい。そう思った時には、服 の袖口でコンクリの上の血痕を拭い、地面に残っ た赤い染みをブーツで蹴散らして、平は二人の生 存を示す証拠の隠滅を開始していた。  あいつなら、どんなことがあっても生き延びる。 理沙と二人、必ず生き抜いてくれる。そう信じ、 染み出してくる不安を蹴散らかした土の下に埋め たつもりになってから、平はシェルターの中に 戻った。  管理室に戻ったところで、ひとりで階段を上っ てきたらしい由梨と出くわした。足もとの炎に浮 かび上がった顔は蒼白で、壁に寄りかかってどう にか立っている様子に慌てて駆け寄ると、後ろ手 に持っていた背嚢がぐいと平に突き出された。  じっと見つめる目に気押され、受け取った背嚢 の中を探った平は、一冊の古びた小さな本を見つ けてそれを取り出してみた。  聖書だった。旧字体で綴られた新約聖書の表紙 は、製本から長い年月を経たことを語って、ぼろ ぼろにすり切れていた。それがなんであるかを察 し、ところどころページも抜けている聖書を繰っ た平は、裏表紙にボールペンで記された英字のサ インを認めて、手を止めた。  崩した文字に、〈東馬ヨシエに捧げる〉の英語 がなんとか読み取れ、その下に〈1948・12・ 24〉の日付と、先代のアメリカ大統領のサインが 記されていた。そのさらに下には〈我が子 修一 へ〉の文字と、〈1966・2・19〉の日付……。  「ブロークンーバイブル……破れた聖書」  無表情に呟いた由梨を見返し、世界中の情報機 関を狂乱させた『BB文書』のあまりの呆気なさ と、一時であっても情を交わしあった東馬父子に 対する安堵、その後の残酷な変転の狭間をさま よった平は、結局どこにも落ち着くことができず、 由梨に聖書を返した。受け取りを拒んで身を退く ようにした由梨は、少しの沈黙の後、「捨てて」 と言った。  足もとで頑固に燃え続ける炎は、そのために東 馬が残したものなのかもしれなかった。深呼吸し てから、平はその中に『BB文書』を投げ入れた。  ぱさぱさに乾いた紙はすぐに火に包まれて、黒 い煤を炎の中に散らしていった。立ち昇った煙が 焼け焦げた天井を伝わり、外界に通じる瓦礫の隙 間から流れ出て、天へと還ってゆく。「これ で……やっと自由になれたのよね」と呟き、直後 に膝を崩した由梨の体を抱きとめて、平はもう訪 れることのない瓦礫の城を後にした。  薄まり始めた靄の中、平は由梨を背負って来た 道をたどり始めた。ヘリは完全にスクラップに なってしまったが、発煙筒を焚いていればそのう ち救援が来るだろう。そう思っている間に、遠く から近づいてくるヘリのローター音、海の方から 聞こえる警笛の音が、砂利を踏む自分の足音に混 ざるようになった。  米軍か、自衛隊か。どちらにせよ、しんどい時 間がこれから始まる。自分も、由梨も、この国も。 明日はどうなるか皆目見当のつかない混沌が始ま ると予感する一方、生きているのだからそれでい い、きっとなんとかなるさと感じている自分が、 背中に背負った命ひとつを荷物に、斜面のきつい 勾配を上っていった。一歩一歩、着実なリズムを 刻みながら。遠い昔に聞いた音−自分と家族を 養い、この国の発展にわずかであっても寄与し続 けた、父のプレス機械の音のように……。  そうして盤石のリズムを刻み続けた先には、ど ういうわけかすっかり年老いた自分がいて、いら ないと断言していた子供もすっかり成人していて、 孫らしき数人の幼児たちにヘリパイの極意などを 伝授している老人の姿があるのだった。幼児たち の中には、護そっくりのひねこびた態度の男の子 や、理沙の白い肌を受け継いだ美少女も混じって いて、少し離れた場所にいる彼らの両親に手を 振ったりしている。退屈しきっている彼らの様子 を見兼ねたのか、いい加減にしなさいよと注意を 促しに来た女房の顔は、どこか由梨に似てい る……と思った時、小石に蹴つまずいた体のバラ ンスが崩れ、白昼夢は消えた。  ぐったりのまま揺られていた由梨がずり落ちそ うになり、気の抜けきった体を背負い直した平は、 「おい、しっかりしろよ」と声をかけた。  「もうじき迎えが来る。死ぬなんて考えんじゃな いぞ」  東馬との約束があるからじゃない。おれをひと り残して死んでくれるなと思ったが、言葉にはで きなかった。「……当たり前よ」という返事が 戻ってきたのは、終わりの見え始めた斜面の向こ うに、海の青色が覗いた時のことだった。  「……あんたの背中で死ぬなんて、まっぴらよ」  湿った声がそう言い、それまでだらりと首から 下かっていた由梨の腕が、ぎゅっと胸元にかき合 わされてゆく。初めてすがる背中を見つけた子供 のように、しっかり肩に頬を押し当てると、押し 殺した嗚咽の声だけが波音に混ざっていった。  雫を受けた肩がじわりと熱くなる。男を剌激す る温もりに、平はそれでもベースを崩さず、一歩 一歩勾配を上っていった。  なにも焦る必要はない。新しい一日は、まだ始 まったばかりなのだから。 この作品はフィクションです。実在する個人、団 体等とは一切関係ありません。